海賊も、抵抗の出来ない夢には弱い。
海が凪ぎ、星々が煌めきだしたその日、アネッタは本を返しにサッチの部屋を訪ねていた。コンコンコン。扉を開く前に叩いたノック。しかし、応答はない。試しに声を掛けてみても返事はなく、どうしたものかと首を傾げたが、いつ元の世界に戻れるか分からない以上、借りたものは早く返したい。
試しに捻ったドアノブはカチャリと音を立てる。アネッタは、ゆっくりと開いてもう一度声を掛けた。
「サッチ…いる……?」
今度は控えめに尋ねる。もしかしたら、何か仕事だとか、トレーニングとか、とにかく周りの音が聞こえないほど何かに集中しているのかもしれないと、そう思ったのだ。それは、着替え中タイミングに突撃をしてしまい、色々と恥ずかしい思いをしたし、させてしまった経験則からの推測なのだが、やはり返答が無い。しかし、不在の割に壁掛けのランタンにはまだ火が灯っており、遠くから聞こえるイビキがアネッタの袖を引いた。
「ありゃ」
サッチはベッドでぐうぐうと眠っていた。スカーフを巻いたままの服装を見るに、恐らく寝落ちしてしまったのだろう。ぐうぐうごうごうと響くイビキはなんとも賑やかで、なんというか、凄い。
「なるほど、気付かないわけだなぁ」
ぐうぐうと、ごうごうと。決して静かではないイビキ。けれどもなんとも気持ちよさそうに眠っている。であれば起こさぬよう借りた本だけを置いていこうかと思うのは気遣いで、アネッタはそのような考えから抜き足・差し足・忍び足…と心の中で言いながら踵を浮かせて音を立てずに机へと歩くと、レシピブックとそれ以上に積まれた書類で混雑した机に視線を落とした。
「……すっご」
四番隊隊長のサッチと言えば、この白ひげ海賊団の台所を預かるコックだ。それなのに料理以外の仕事もこれだけ行っているというのか。
「私って、本当に何も出来ないんだなぁ……」
驚きと、心配。それから、少しだけの虚しさ。
だってそうだろう。自分がもっと有能であれば、彼らの仕事量もいくつか減らす事が出来たはずだ。しかし、手伝うにも書類の多くは英語で、どうにもこうにも読み解けない。もっと、英検とか、TOEICとか。ううん、せめてもう少し英語の授業を真面目に受けていればよかった。とはいえ、所詮零れ落ちた後悔は、タラレバで、いくら此処で考えたところでいますぐに物事が好転することはない。
いいや、ひとまずさっさとランタンを消して戻ろう。アネッタはゆっくりと息を吐き出して感情を切り替えて本を置いたが、そのとき僅かに聞こえた呻き声に手を止める。
なんだかサッチの方から聞こえたような。彼女は不思議に思い、忍びの心得を胸にそっと近付いて顔を覗き込んでみたが、彼は相変わらず眠っていたように思う。
ただ、悪い夢でも見ているのが眉間には皺が寄り、額には汗が滲んでいる。それによりリーゼントを解いたばかりであろう髪の毛は張り付いて、大きな手のひらが目元にある傷を隠すように覆い、手の甲に筋を立てた。
「うう………っ」
「ッサッチ!」
普段は兄貴分で、頼もしいサッチが苦しそうに呻いている。それを見ていると、なんだかいてもたってもいられず、咄嗟に目元を覆う手を両手で包み込んだが、戦場に出ることの多い彼からすれば、この行動は浅い眠りから引き起こすほどの衝撃であったようだ。彼は跳ねるように上半身を起こした後、詰まらせたものを吐き出すように大きく深呼吸をすると、そこでようやく掴んだ手に気付き、腕を辿るようにしてアネッタを見た。
「……アネッタ?」
リーゼントを作るほどの長い前髪から覗く瞳が、どうして此処にいるのだと尋ねる。アネッタは魘されていた事実は伏せて、「本を返しにきたの、この間借りたレシピ本」と伝えたが、四番隊の隊長はそう鈍い男ではない。頭に残る悪夢や体の気だるさ、それに握っていた手という状況から彼女の行動を把握すると、それを指摘するわけでもなく下ろされた彼女の手首を掴んだまま、手のひらの方へとスルスルと滑らせたあと指を絡めた。
「……恰好悪いところを見せちまったな」
「なんにも見てないよ、私は本を返しにきただけだもん」
正直、魘されているところ慰められるなんて、情けなくて仕方が無い話である。しかし、あんまりにも彼女の瞳も声色も穏やかで温かいものだから、サッチは手を離すことも出来ずに口元に握った手を寄せる。しかし、ここで誘い文句としてキスを贈らなかったのは、彼女は自分の妹分で、兄貴分としての立ち位置を理解しているからか。サッチはゆっくりと手を離すと、彼女を真っ直ぐと見つめながら誘った。
「なぁ。本を返しにきたついでに、良かったら一緒に寝ないか」
「一緒に?」
「そう、可哀そうなおれっちは悪夢をみたばかりで眠れなさそうでなぁ」
「え~、サッチったら甘えん坊~…なーんて、ふふ、そんな日もあるよねぇ」
タオルケットを捲るサッチに、髪をまとめるシュシュを解きながらアネッタが笑う。それは紛れもないOKのサインで、シュシュを右手首に通しながら隣に寝転んだ彼女は、目の前にある黄色いスカーフが気になって解いてやるが、僅かに香る匂いは晩御飯の匂いだろうか。サッチは不思議そうにしていたがアネッタが「せめて上着は脱いだら?カレーのいい匂いがしてお腹すいちゃう」と笑いながら言うと、ようやく思い出したように身を起こした。
「おぉ…やべぇ、そういえば寝落ちてたんだったわ」
気だるげに零す彼のだらけっぷりといったらもう。アネッタは悪戯に笑い、寝ころんだままスカーフを丁寧に畳み、尋ねた。
「いつものしっかり者のサッチはどこにいったの?」
「今日はもう店じまい」
「あはは、じゃあ今日はゆっくりお喋りが出来るねぇ」
「お、いいなぁ。たまにはこうやってゆっくり喋るのもアリか」
「アリだよー!アリアリ!…あ、じゃあ今日はサッチの滑らない話が聞きたい!」
「滑らない話?」
「そう、面白い話の鉄板みたいな」
「面白い話なぁ」
気が付くと、彼女は眠っていた。小さな手は胸元を握り、身を寄せる様子には警戒心と言うものがない。
十七の女が、男の胸元で寝ている。それだけでなんとも犯罪的ではあるが、彼女はすうすうと眠ったままで試しにやわこい頬を触っても「えう」とか短い声が落ちるだけ。なんだかそれが妙にかわいくて、何故こんなに可愛く思えるのだろうと考えてみたが、いまはとにかく眠くて仕方が無い。
まどろみの中に感じる、あたたかな体温と、僅かな眠気。サッチは腕を伸ばして華奢な腰を抱き寄せると、眠気に抗うこともなくゆっくりと瞼を閉じたが、なんだかいつの間にか彼女が消えてしまいそうで腕を離すことは出来なかった。