すぐには伸びないかぁ。
記録の壁にぴったりと背を合わせて、前に残した成長記録の傷を見る。最後に測ったのはおよそ二週間前。ゆえに伸びていないのは当然の結果だが、こうやって横を通るたびに計測して嘆くまでの流れがすっかり慣習化してしまった。その様子に古株のティーチはすぐに伸びるさと豪快に笑うが、彼もこの船ではひときわ大きい部類の男だ。よってそんな彼に言われてもなんの慰めにもなっていないが、彼もまた幼い頃は自分と同じように小さかったのだろうか。
アネッタが尋ねると、ティーチはおもむろに頭を掻いたあと、面倒くさそうに言葉を返した。
「ゼハハハ…さぁな、どうだったか。そんな昔のことなんて忘れちまったな」
「えぇ~、ここに身長とか残してないの?」
「残してねぇよ、そんな価値のねェこと!それよりも、そんなに身長が大事なのか」
「大事だよー!だって、私この船に乗ってから三キロも太ったんだよ?サッチのご飯は美味しいし、このままぶくぶく太っちゃったらまずい……!間違いなく制服のスカートが入らなくなっちゃう…!」
「ははぁ、三キロねぇ」
女ってのは面倒だな、とティーチ。女なんて肉がついていた方が色々と良いだろうに。しかし此処で引き下がらずに胡乱な表情で「おれの身長を分けてやろうか?腹の肉付きで」と言うのは気さくなおじさんによる意地悪か。アネッタが全力で嫌がり逃げる素振りを見せると、ちょうどそばを通りかかった船員がアネッタに声を掛けた。
「アネッタ」
「あ、ライラック、どうしたの?」
そこには、ライラックという、顔に大きな傷を負った大男が立っていた。
「なあ、あとで少し手伝って欲しいんだが、今日の手伝い募集枠に余裕はあるか?」
「いいよ、この掃除が終わったらでもいい?」
「お、助かるぜ。じゃあ後で頼むぜ」
「はーい」
ティーチといい、ライラックといい、どうしてこの世界の人々はあんなにも大きいのだろう。アネッタも元の世界では特別小さな方ではないし平均ほどの身長はある筈だが、この世界では小さな子供扱いだ。だからライラックが別れ際に大きな手のひらで頭を撫でるのも、きっと子ども扱いからだろう。アネッタは雑に撫でられたせいでボサボサになった髪の毛を手櫛で整えたあと、怪訝な顔で「あんな奴いたか?新人か?」と尋ねるティーチを見上げた。
「ひどーい、家族のこと覚えてないの?ほら、此処にもライラックって記録があるでしょ、少なくとも私よりは新参者じゃないよ」
「あァ?この船に何人の船員がいると思ってんだ。同じ組でも無え限りは新米なんざ覚えてねぇよ」
「あんなに分かりやすい見た目なのに…」
指した横傷に視線を落としたティーチ。しかし、名前が分かったからといってなんだと言うのだ。彼は面倒くさそうにするだけで取り合うこともなく、どこからか漂う美味しい匂いに頬を緩めると「ははぁこいつはチェリーパイの匂いだな。アネッタ、金は払うからそこの掃除道具を片付けといてくれ」と言って手にしたモップを落とす。完全にパシり扱いだ。それも此方の返答も聞かずに歩き出す始末。まぁ、後片付け一つでお駄賃がもらえるのならかなり割りが良いけども。
アネッタは了承も無しに行ってしまったティーチに息を吐き出したが、その時、少しの違和感に気付いて手を止めた。
「……新米?」
新米なんざ覚えてねぇよ。
さっき、ティーチはライラックのことを新米だと言っていた。だが、この記憶の壁にあるライラックと書かれた横線は真新しく、それでいて刻まれた位置が自分の目線と殆ど変わらない。これがティーチと同じく古株で、傷痕も古ければ身長が伸びたのだと説明がつくが、新米なのであればこれは一体。
もちろん同名の可能性もあるが、同名なのであれば低身長のライラックもいるはずだ。しかし、先のとおりこの世界は高身長者が多い。ゆえに千六百人が乗船したこの船でも自分と身長が変わらない人は少数派で記憶に残る筈。ましてや悪戯で入れるには利点がなさすぎる。考えれば考えるほど、何かとてつもない嫌な予感が体中に広がって、アネッタは掃除道具を片手に小さく零した。
「どうしよう……」
漠然とした不安感が拭えない。本人あるいは他の船員たちに聞いてしまおうか。しかし、頭ではわかっていても、やけに腰が重い。
どうしてこんなにも、飲み込めず、不安になるのだろう。いつもならもっと何も考えずに聞けるはずなのに。
アネッタは二人分の掃除道具を両手に抱え、道具箱へと戻す。その最中も不安感と焦燥感は拭えず、とてもじゃないが無かった事には出来そうにはないと孕んだそれの気持ち悪さから、縦長の道具箱にごちんと頭をぶつけ息を吐き出した。
「アネッタ?」
しかしまぁ、なんというか道具箱に頭をぶつけて立っている姿はよく目立つようだ。遠くから聞こえた声掛けに意識を引かれて視線を上げるとサッチとマルコが立っていた。
「あ……サッチ、マルコ」
「どうした、具合でも悪いのかよい」
二人が心配と不安を入り混ぜたような表情を向ける。アネッタはそれに安堵する反面、どうにかこの不安感を共有したく見上げたが、口を開いてもヒュウと息が抜ける音が響くだけ。まるで魚の小骨が引っかかったように、うまく言葉が出てくれなかった。
「あの、あのね……、………あ、の」
ここで疑問を抱く。本当に、言っても良いのだろうか。白ひげ海賊団は仲間たちのことを家族だと捉えている、なのに確信も無い事で不信感を漏らしても良いものか。これにより、何かまずいことにはならないか。
どうしよう、どうすればよい。アネッタは言葉を詰まらせた後、視線をうろうろと彷徨わせるとサッチとマルコは顔を合わせた後、膝を折り、目線を合わせて肩を叩いた。
「アネッタ、大丈夫だ。ちゃんと話は聞くから」
「あ……」
「言いにくいことなら場所を変えるか?」
「…っううん、あのね――」
そうだ、彼らは何でも頼ってくれと声を掛けてくれる、優しくて、信頼のできる大人だ。そう認識した瞬間、嘘のように詰まった息が安堵として零れ落ちる。アネッタはその場で分かりやすく深呼吸を繰り返すと、声を潜めながら語り始めた。
ライラックという男のこと。それと記録の壁に新しく残された傷と、その記録がライラックと大きく異なっていること。アネッタの説明はあまりまとまりがなかったように思うが、それでもサッチとマルコはしっかりと傾聴し、「つまりは」と話しを整理すると、顔を見合わせて眉間に皺を寄せた。
「ライラックって、ブレンハイムのところだったか?」
「あー…いや、どうだったか」
「というかよ、そもそもアイツあんな見た目だったか?」
「元々絡みがすくねぇってのもあるが、船員が増えちまったせいで覚えてないねい…」
悩み、考える二人の言葉にそんなわけないだろと笑うような色は無い。サッチはアネッタの顔色が悪いことに気が付くと、にぱっと雰囲気を払拭させるように明るく笑み、頭を優しく撫でた。
「教えてくれてありがとな。なあに、大丈夫さ。別に船員同士で疑うことなんてザラだよ。なんせうちにはつまみ食いをする野郎が多いからな」
「……ただ、これはちょっと確認が必要だねい。アネッタ、ひとまず調査が終わるまではライラックに近寄らないようにしてくれ」
ぎくり。アネッタが言葉を濁らせる。
「え、あ、」
「?」
「あの、実はこのあとライラックのところに行く約束をして……」
「な…っ、んでそんな危ねェことを!」
「違うのっ、約束したあとに気付いて……」
「といってもアネッタが変にいかないのも怪しいしな……いや、いいさ、ひとまずおれとアネッタで行くから、マルコはライラックが他にいねぇか確かめてくれ。医務室には健康観察用の名簿がある筈だろ?」
「そりゃあそうだが……一人でいけんのかよい」
マルコが、声を落として尋ねる。しかしサッチは茶目っ気強くパチンと片目をつぶると、頼もしく笑ってみせた。
「勿論。これでも隊長なんでな」
マルコが医務室へ足早に戻ったあと、アネッタとサッチは並んで甲板へと向かう。手には二本の剣。少々物々しい恰好ではあるが組手なり鍛錬を行うのだといえばいくらでも説明がつくはずだ。サッチは隣を歩く傍らで、甲板内にいる数名の幹部を確認したあと、ライラックに声を掛けるアネッタに意識を向け、そしてライラックを見た。
「ラ、ライラック!」
「お、アネッタ…やっと来たか………って、サッチ隊長」
僅かに開く瞳。サッチは愛想の良い笑みを浮かべて「よお、ライラック」と緩く手を上げると、ライラックは一度ちらりと双剣を見て、それからやけにぎこちない様子で尋ねる。
「どうしてサッチ隊長が?」
「ああ、いいや、アネッタが手伝いをすると聞いて普段の仕事っぷりを見にな。こっちの剣はこのあとの鍛錬用」
「あぁ……そういうことですか」
どうしたってまた、その回答に目を和らげるのか。分かりやすくて有難いが、であればこれ以上アネッタを近付かせるのは危険だろう。サッチは「それじゃあアネッタ」と依頼説明に取り掛かる様子を遮り、「……なぁ、それでよ、本物のライラックはどこにやった?」と尋ね、相手の回答も待たずに続けた。
「元のライラックは低身長の筈だが、どうしてまた此処まででかくなったんだ」
成長期なんて羨ましいもんだな。小ばかにしたような、乾いた笑いを落とすとライラックがじっとサッチを見つめた後、静かに反論を返した。
「……一体なんのことで、おれはここに乗船させてもらった時からこの姿ですが」
「爪が甘いな。記録の壁にある傷が、お前が偽物だって教えてくれたぜ」
沈黙。沈黙は肯定だと言うがまさにそれだ。ライラックは少しの沈黙を続けた後、頭を垂らして肩を震わせるようにして笑うと、ぶつぶつと続けてアネッタとサッチを見た。
「……クク…ククク…そうか、そういうことか。あれにはおれとしての記録も残していた筈だが、…そうか、元のライラックも記録を残していたのか。小さくて分からなかったよ。それに……幹部クラスはおれの術が効かねぇのも難点だな」
「……なにが動機だ」
「動機?あぁ、まぁ、適当にくいっぱぐれねぇように食べて過ごして、あとはおこぼれ貰って、生活できるだけの宝を盗んでトンズラしようと思ってな」
「それだけのためにライラックを殺したのか……?」
「はは、何を驚くことがあるんだ……海賊なんてそんなもんだろ?」
アネッタ、おれの後ろに。サッチが言うとアネッタは頷いて背後に回る。それからサッチは両の鞘を落として刃先を向けるが、正体を明かしてもなお残る余裕さが気になって仕方がない。
彼はなぜこの絶対絶命のピンチとも言える状況で落ち着いていられるのだろう。なんとなく、嫌な予感がする。サッチは辺りの船員に聞こえるよう、声を張り上げた。
「オイ、ライラックを……こいつを捕らえるから縄を持って来い!」
しかし、返答はない。そのあとには不自然に沈黙が続くだけで、サッチが辺りを見ると、辺りの船員たちはなにか訝し気な様子で此方を見て、続けた。
「サッチ隊長……どうしてライラックを」
「こいつはライラックじゃねぇ、偽物だ」
「偽物って……どこからどうみてもライラックじゃないですか!」
「は?」
「そうですよ、おれとライラックは乗船のタイミングが同じでしたが間違いなく偽物じゃありません!」
どういうことだ。何故ライラックはすんなりと認めたのに、船員たちは認めないのだ。まるでタチの悪い冗談だと困ったように笑う船員たちは戸惑いを見せており、違和感に背後に隠れたアネッタも戸惑いを見せるが、船員が動かないのならば自分で動くしかない。
「チッ」
舌を打ったあと、甲板を蹴るように踏み出してライラックの懐に入る。その瞬間、男の瞳が動揺に揺らいだが腰に下げた拳銃に手を向けるほどの猶予をくれてやるほどの優しさはない。サッチは剣を振るい、腹を切りつけると、体を仰け反らせて悲鳴を上げる男にサッチは妙な違和感を抱いた。
――反撃が無い。確かに相手に少しの猶予も与えなかったが抵抗は見せてもいい筈だ。加えてライラックは前の発言に含みを持たせていた。であれば何か一つや二つ此方に仕向けてもよさそうだが。ただの噛ませ犬と片付けるにはどうにも腑に落ちない。サッチは男の演技じみた悲鳴を耳に怪訝そうな表情を浮かべると、ライラックは呻き、背後に後ずさりながら言った。
「ああああッ!隊長!サッチ隊長!!!どうしておれを!」
何を今更。しかし、サッチが口に出すよりも前に、背後に控える船員たちが狼狽え、どよめき、そして化け物を見るような目を向けながら零す。
「サッチ隊長、アンタ何をやってるんですか!ご法度の仲間殺しを…」
「何言って……」
だらだらと腹から血を流す男が、部下に聞こえぬほどの声量で笑う。
「クク……おれの能力は、認識阻害。力の強ェ幹部でもない限りはおれのことを仲間のライラックと思ってるだろうよ」
「……つまり、周りからすりゃあおれが仲間に手を出した大馬鹿野郎に見えてるってわけか」
周りの船員たちが困惑の目を向けながらも、武器を構える。
白ひげ海賊団では仲間殺しはご法度とされている。成程、最悪なことをしてくれた。アネッタはサッチの後ろで様子のおかしい仲間たちを見て怯え、「ちが、どうして、なんで」と零すが船員たちの敵意はサッチに向いている。みな、サッチのことを仲間殺し未遂の大罪人と思っているのだ。だから怯えるアネッタの手を引いて抱き寄せるのも、彼女を守るための行動で、アネッタは困惑しながらもこの状況をどうにかしなければならないともがき、絶叫し、声を上げた。
「やだ…ッ!はなして、ちがうの、みんな話を聞いてよ!!」
しかし船員は離さない。アネッタが騙され錯乱しているとでも思っているのだろう。アネッタが手足をばたばたと動かしても降ろすことはなく、「ッアネッタ!暴れんじゃねぇ!殺されちまうぞ!」という荒げるような声に被せてアネッタが初めて声を荒げ返した。
「どうしてっ、ちがう、ちがうよ!ッ悪いのはライラックじゃない…!」
「お前まで仲間を殺そうとした隊長を庇うのか?!」
「庇うって、だって、ライラックが、ライラックが…」
証拠となる記憶の壁がこの場にない以上はうまく説明が出来ない。ただ今の状況は間違っている。アネッタは辺りを見回して遠くで騒ぎに気付いたらしい幹部組であるラクヨウに向けて「ラクヨウ!フォッサ!ったすけて!サッチが!」と声が掠れるほどに叫び、泣き出しながら言うと、船員たちの視線がサッチに向いていることを良いことに、ライラックは乾いた笑いを落とした。その視線には苛立ちが滲んでおり、続く言葉にはどこか歪みのようなものを感じる。
「はは……あの女ピイピイとうるせぇなぁ……でも、アンタのお気に入りなんだろ?」
「……だったらなんだってんだよ」
「だったら、あの女もアンタを敵に見せたらどうなるかな」
「は」
「――認識阻害」
言いながら、ライラックがアネッタを見て、目を合わせる。その瞬間、船員に抱きかかえられたアネッタが「え」と言葉を零したのは、ツウと鼻から血が流したからだろう。その様子にサッチは狼狽し「よせ!あの子は関係ないだろ!!」と声を荒げたが、ライラックからすればこんなに分かりやすいカモはいない。
口角を吊り上げてライラックが笑うと、サッチは声を荒げて剣を振り上げた。
「ってめ、ェ!」
しかし、今度ばかりは船員たちがライラックの仲間についている。船員たちは負傷したライラックを庇うように割り込み、自身が手にする剣で思い一撃を防ぐと、きつく睨みつけた。
「隊長!やめてください、どうしてライラックを!」
「おれたちは家族でしょう!!」
「うるせェ!そいつは家族でもなんでもねぇ!それが何故分からねぇ!!」
「分かりますよ!だってこいつはおれたちの家族でしょう!一緒に酒だって飲み交わした仲じゃないですか!」
その言葉に、ライラックは笑う。
何が家族だ。本物のライラックは殺されたってのにソイツの事を忘れておれのことを本物だと思い込んでいるじゃないか。家族だなんだいったってこの能力がかからない幹部組だって今の今まで気づいちゃいなかった。結局、上は上の者しか見ていない。それがどうして家族と言えるのだ!
乾いた笑いは、もはや呆れに近い。ライラックは双剣を受け止められて次の術がなくなったサッチを見てゆっくりと抱きかかえられたアネッタへと近付いて手を伸ばすと、寸前のところでぴくりと不自然に止まり、後ろへと戻る。次の瞬間、間を遮るようにして角がいくつも生えた鉄球が目の前を駆け抜けて、ライラックは露骨に表情を歪めたあと、影を縫い付けるようにして足元に打ち込まれた燃え盛る赤い炎を見て狼狽えた。
「チッ……もう幹部組がきやがったのか……」
ライラックに続き、船員たちを押し退けるラクヨウとエースの登場。それはライラックにとってまずい状況ではあるがどうせ幹部なんて本物のライラックなんて覚えちゃいない筈だ。であれば信じる信じないは多数決、あるいは彼らのお気に入りであるアネッタに委ねられる筈で、彼は鼻血を出したまま呆然とするアネッタの腕を掴んで無理やり引きずりおろすと手元へを抱き寄せた。
「オイオイ、なんだよこの騒ぎは」
「なんでサッチに剣を向けてんだ」
それに対する反論は、ライラックの予想通りに船員から。船員たちはサッチに警戒と敵意を向けたままラクヨウやエース、それからあとからやってきたフォッサに向けて、突然サッチが仲間であるライラックに向けて剣を向けたこと、何か錯乱したようにライラックが敵だと言い出したことを語るが当然幹部からすれば信じがたい事である。しかし、隊長で信頼関係のあるサッチを庇うものが誰一人としていない。つまりは目撃情報通りなのだろう。
そうなのかと尋ねられたライラックは受けた傷を見せた後、認識阻害をもって認識を変更させた筈のアネッタに同意を求めた。
「えぇ、アネッタに依頼をしようと思ったら突然切りかかってきて……なぁ、アネッタ、そうだよな?」
お前が一番近くで見ていたもんな!ライラックがアネッタの腕を掴んだまま、爪を立てる。
ラクヨウとエースは続けて尋ねた。
「そうなのか」
「アネッタ、本当にサッチが」
もしかして、その鼻血もサッチに何かをされたんじゃ。僅かに疑いを滲ませてサッチを見ると、剣を塞がれたままのサッチは当然ライラックを信じるのかと反論するが、状況があまりにも不利すぎた。サッチと船員の合間にフォッサが立つと「それはアネッタの言葉でわかるだろう」そう言って、アネッタへと視線を向けた。
「……」
アネッタが一つ頷くだけでサッチは大罪人をみなされる。この状況は、あまりにライラックからすれば優位的であった。しかし、鼻血を袖で拭うアネッタが中々答えることがない。ライラックからすれば決め手に欠けるこの沈黙がもどかしく「おい、アネッタ、早く答えろよ」と腕を強く握り締めると、アネッタはちらりとライラックを見上げ、腕を振り払いながら指をさした。
「ライラックが偽物なの。証拠はあるし、マルコが証明できる。悪いのは、悪いのはライラックだよ!」
その瞬間、勝ち筋がなくなったとライラックは悟り、激高する。何故だ、何故あの女は認識阻害がきかなかったんだ。いや、いいや、もうどうだっていい。この状況は最悪すぎる。認識阻害を受けた船員たちはどうこうできても幹部組はこれ以上もうだませない。現に目の前にいる幹部たちの鋭い目線はライラックを射抜く。ライラックはぶちぶちと血管がちぎれるほどの怒りにアネッタの腕をグイと引きそのまま振り向いたアネッタに向けて銃を抜き、誰よりも早くに打ち抜くと、「あ」と零れた一音が虚しく響き、ひときわ小さな体が後ろへと倒れた。
「テ、メェェェ!!!」
サッチは全ての血液を沸騰させるほどの怒りで声を荒げて、地を蹴って懐へと割り入る。その速さに息を飲んだライラックは「う、お」と驚きを落とし、拳銃を向けるがもう遅い。サッチは向けられた拳銃の側面を剣の柄で横に押し退け、吠えるように声を上げながら二刀で同方向に切りつけた。
「おおおおお゛ッ!!」
「ぅ、ぐ……ッく、そ……此処で…やられるわけには……ッが、ああああ!!」
咆哮と、絶叫。仕留めるために向けられた刃は肉を裂く。それに男は絶叫を上げながら体を倒したが、そのまま男は力尽きたように動かず、サッチはようやく洗脳が解かれて狼狽する船員たちを横目にアネッタのもとへと駆け寄って、間に合わずに遅すぎる登場を果たしたマルコに声を上げた。
「マルコ!再生の炎を!!」
此処から医療器具が充実した港まではまだ数日かかるが、再生の力を持つ彼の力があれば助かる筈だ。しかし、アネッタの容態を見たマルコは陰りを見せる。呆然とした様子で「ダメだ」と零した彼の瞳は何かを悟っており、彼の大きな手のひらが炎を纏い傷口に向けたが、傷口は殆ど塞がる事もなく、ただめらめらと青い炎だけが揺れ動いていた。
「は?」
「…傷が………傷が深すぎるよい……元々異世界人のこいつは再生能力がおれたちよりも低かったんだ。この状態で上げたとて…、もう、…もう間に合わねぇよい」
絶望に満ちた声。
なんだよそれ。なんだよそれ!何のための再生の炎だ!サッチはアネッタを抱きかかえている事も忘れ、片手でマルコの胸倉を掴み訴える。できねぇじゃねぇ!やるんだよ!お前は船医だろうが!!!手が白くなるほど握り締めた拳はぶるぶると震える。その叫びは心臓が痛むほどの叫びで、願いで、藁をもすがるような気持ちだと言うことも分かる。けれど、助からない。助からないのだ。
マルコは船医だからこそ、静かに、けれども威厳を持って宣言した。
「…できねぇものはできねぇよい、おれは、……、……アネッタのことを助けられねぇ」
「そん、な……」
「…ぅ……」
その時、アネッタの金色の瞳がゆっくりと開き、ぼんやりとサッチを見た。
「ライ、ラ、……ックは……?」
ぼんやりと、痛みに呻きながらの問いかけ。自分が怪我をしていることなんて十分理解しているのになんて奴だ。サッチは目頭が急に熱くなるのを堪えながら、汗ばんだ前髪を横にさらりと流すと、遺体を背に、優しく穏やかに続けた。
「……お前のお陰で、無事に捕まえることができたよ」
「……へへ……よかった、ぁ……」
沈黙。いいや、というよりも痛みが酷いのだろう。だくだくと溢れる血液は止まることなく流れ続け、青白く変わりゆく顔を見たマルコは、続くアネッタの問いかけに瞳を揺らし、小さく頷く。
「へへ……、………はぁ……っ……マルコ、私、もう、だめだよね」
「………」
「……うれ、しいな、これでや、っとかえ、られる」
「帰られる、って」
「死、は救済、って、だか、ら、もう、帰られるんだよ……ふふ、どうしてなくの…?」
悲観することもなく、どこか嬉しそうに力なく笑むアネッタ。
ああ、そうだ、やっぱり彼女はあの時の言葉を信じ続けていたのだ。けれど、もう今となっては否定できないな。今の彼女に、帰る事なんかできないんだと言ってやるのは、あまりにも酷だ。サッチは肩を震わせて大粒の涙を堪えきれずに溢れさせると、それでも無理やりに笑って言った。
「…馬鹿、お前があっちの世界にかえっちまうから、……悲しくて仕方がねぇんだよ」
「ふふ……おと、な、なのに泣いちゃいけない、んだ、ぁ……」
くすくすと、力なくアネッタが笑い、細い指が涙を掬う。それがあんまりにもいじらしいものだから泣けて仕方が無い。
「アネッタ」
騒ぎを聞き、駆け付けたニューゲートが声を掛ける。アネッタは身を起こそうとしたが、残念ながらそれは叶わず痛みに呻くと。ニューゲートは跪き、瞳に悲しみを滲ませてぽつりと呟いた。
「……、……馬鹿娘が、テメェが無茶をして一体どうする」
「でも、あの、ときはあれが……最善、だって、おも、ったの。みんなは私を守ってくれるけど、でも、…でも私も白ひげ海賊団の、末っ子だもん」
あの時、きっと自分も洗脳されているというスタンスを取れば良かったということは、なんとなく分かる。これがジョズの言っていた、あれが最善だったのかの答え合わせは後になって分かるということか。けれども、後悔はない。だって、あの時自分が言わなければ、きっともっと長引いていた筈だ。そうなれば、自分だけでは済まなかったかもしれない。
だから、きっとあれが最善だったんだ。
へへ、と息が落ちるように、頬が緩む。ニューゲートもまた目頭が熱くなるのを感じながら、うんと大きな指先で頭を撫でると、撫でる手のひらに頭を摺り寄せたアネッタが探るように尋ねた。
「……ふふ、オヤジ、さん、もないて、る?」
「グララララ……あぁ、…お前がいなくなると思うと寂しくていけねぇ」
「ふふ…別れ、はしたくない、っていって、たのに、ごめん、ねぇ……、…でも、縁はきれない、もの、でしょう?……だから、だからずっと、……ずうっと……」
「アネッタ、……っ、いやだ、いくな、いくなよアネッタ!!」
段々と、段々と、灯火が消えるように声が小さくなっていく。たまらず彼女を囲む船員たちが彼女の名を叫び、声を掛けると、彼女はこそばゆそうに笑って、サッチはここが、最後の別れの時なのだと理解した。
サッチは、額を合わせて穏やかに、優しく囁いた。
「……アネッタ」
「なあ、に」
「……アネッタ、おれっちは、……、……おれも、みんなも、お前のことが好きだよ。大好きだ。……おれたちのもとへ来てくれてありがとうな」
「……、……へへ、……帰るの、さび、しー、なぁ……」
「……、……」
「……」
ゆっくりと、ゆっくりと光を失った瞳が眠たげに閉じてゆく。最後に零した言葉は、この世界への名残惜しさだろう。あんなに帰りたがっていた彼女が、初めてこの世界が寂しいと嘆く。なのに、なのにもう終わりの時が来るなんて。その瞬間、サッチ含め、船員一同は彼女との別れを惜しみ、声を上げる。なんでだよ、今度手伝ってくれるって言っただろ。お嬢、おれの国に遊びに行くって楽しみにしてたじゃないか。言葉は人それぞれであったが、彼女への想いは確かであった。
そうして吐き出した思いはついぞ拾われる事もなく、終わりを告げる。潮風に吹かれて彼女の髪が靡くなか、ただ眠るように瞼が閉じると、船員たちは涙を落とし、空を滑る海鳥たちが不思議そうに船を見下ろしていた。
潮風に交じり、洋酒の匂いが香る。
彼女を失って暫く。ようやく寂しさが紛れて日常が戻ってきた頃、戦闘の末に奇妙な形をした果実・悪魔の実を見つけた。一体これはなんの実だろうか。これまでの人生で多くの食材を扱ってきたが、その中でもひときわ禍々しい見目をしたそれは不思議な引力のようなものを感じる。これが一体どんな能力を得るのか。当たりならば嬉しい限りだが、外れを引いて一生カナズチになっては敵わない。しかし、これがあればおれは今よりも強くなれる。
きっと、もう大事なものを落とさないほどに。
加えて、悪魔の実はいまだ沈んだままの白ひげ海賊団を活気づける話題になるはずだ。これはいま食べずにあとでゆっくり食べよう。そう思って食べずに大事に取っておいた筈が、どうしてこうも上手くいかないものか。
「ティー、チ……お前……」
「ゼハハハ……折角生かされた身だってのにお前も運が悪いなァサッチ」
背後から、胸に刺さった剣に呻く。胸が焼けるように痛む。激痛は全ての抵抗を殺し、突き刺さった剣をそのままに身体を倒しながら尋ねると、ティーチは冷酷な顔で悪魔の実を拾い上げて笑い、口元へと運んだ。
完