グアンハオで初めてアネッタと出会ったとき、彼女は文字の読み書きができなかった。聞けば、収容されていた研究所では殆ど人体実験をされるだけで、あとは檻に等しい部屋にいるだけでそういった教育は一切無かったようだ。だから読み書きが出来ないのは致し方ない事だが、それを理解しようとしない者からの野次は酷いもので、彼女が地面ばかりを見るようになるまでには、そう時間がかからなかったように思う。
「カク、もういいよ」
自由時間を使って文字を教えにやってきたカクに向かって、アネッタが呟く。見れば彼女の瞳は潤んでおり、カクは少しの沈黙後、青い袖を伸ばして彼女の目元を拭うと「泣いておったのか」と尋ねる。しかし彼女は口を噤んで喋ろうとはしない。大方、彼女をターゲットにしている虐めっこ連中の仕業だろうが、それにしても彼女が泣いていると妙に腹立たしい気持ちでいっぱいになってしまう。
カクは口をへの字に噤んで目元をもう一度だけ拭うと、「カクもばかにされちゃう…」と零した言葉に被せるようにして「言わせたい奴は言わせとけばええんじゃ、別にわしは気にしとらんし気にもならん」と言葉を返した。
「でも……」
「他人の目を気にすることだけが全て悪というわけじゃないが、そいつらが何かお前に良い事でもしてくれるのか?」
「それ、は」
「……それに、お前はどうなんじゃ、文字は覚えたくないか?」
「……んん」
問いかけに口ごもるアネッタ。彼女はまだ文字を習い始めたところだ。文字を並ばずとも生きてきた彼女に、文字を覚える事でのメリットは分からないのだろう。カクは暫く悩む素振りを見せたあと、彼女の唯一と言っても良い絵本を手に取ると、「文字はいいぞ、これを一人で読む事も出来る」と一つ呟く。
彼女はこの絵本すら読むことが出来ない。この絵本だって絵でストーリーを考えているようで、本来のストーリーを読み聞かせてやると思っていたものと少し違ったと驚いていたっけ。
「確かに絵を見ればあらかたのストーリーは分かる。人に頼れば読んでもらうことも出来るじゃろうしな、じゃが自分で読んで、ストーリーを理解するとまた新たな発見もあるじゃろう」
「……そうなの?」
「あぁ、あとは…そうじゃのう…わからないことを調べることだって出来るし、知識は自分を守る術にも、助ける術にもなる」
「…すべ?」
「ああ、方法、じゃな。つまりは、自分を守ったり、助けたりできるんじゃ」
「ふうん……」
彼女にはまだ早すぎただろうか。鼻を鳴らすように呟く彼女の顔は少し理解が追い付いていないような、そんな顔をしていた。
「それに、わしと手紙の交換もできるぞ」
「手紙?」
「例えば、……そうじゃな、今日は一緒にご飯を食べようとか、そういう約束事を記したり、…まぁなんだ、伝えたいことを書いて送るものじゃな」
「伝えたいこと……」
「何か一つくらいあるじゃろ」
「だいすきとか?」
「お゛っ?!、お、おん……そう、じゃな」
「わ……」
彼女は嬉しそうに目をきらきらと輝かせる。不意打ちで純度百パーセントの言葉を受けたカクといえば、なんだか耳を赤く染めていたが、まぁ、なんにせよ彼女が興味を持ったのならば良かった。
そうしてカクは「がんばっておぼえる!」と意気込むアネッタに付き合うことになったのだが、暫くは顔の赤みが引かずに「顔赤いよ?」と指摘をされてしまうのはまた暫くあとの話だ。
色褪せた手紙を開く。手紙は十五年ものとだけあってすっかりくたびれており、灯に翳せば透けるほど。それほどまでにくたびれながらも大切に保存された紙に並んだのはたった二つの単語。それもカク・アネと名前が書いてあるだけで、最早手紙と言えるのかもわからない。それでも、この手紙はカクにとって特別で、大切で、宝物であった。そう、いつだってこの手紙を見れば頑張れる。なんだか無敵になったような、なんでもできるような、そんな気持ちにしてくれるのだ。
カクはそれを口元に向けてフフ、と堪えきれない笑みを溢す。それを目にしたアネッタは背中に抱き着きながら「なんだかご機嫌そうだねぇ」と零したが、ちらりと見たものが自分が初めて書いた手紙と分かれば、彼女は顔を真っ赤にしながら「まだ持ってるの…?!」と驚いていた。
「…捨ててもいいのよ」
「嫌じゃ、これは墓場にまで持っていくぞ」
「やめてよぉ……」
「わはは」
身体を捻って、彼女の体を正面で受け止める。彼女の顔は相変わらず真っ赤で、初めてあった頃の印象とはまた異なるように思えるのは、関係性が友人から恋人に変わったせいだろうか。妙に可愛く思えて仕方がない。カクは目を細めて笑みを溢し、こっそりと伸びた手から手紙を遠ざけると、空いた片手で顎を掬ってキスを贈った。