四話

 夜が明けて、暫くが経った。
 窓も無い隠し部屋には、朝の報せが来ない。代わりに、夜会で振舞われた料理たちを持ち運んでの打ち上げが行われる中、離れたところで椅子に腰を掛けたアネッタが、ぼんやりと肖像画を見上げていた。

 普段はピーチクパーチクと煩い彼女が、静かにしている。それがなんだか不自然に思えて、好きなように食事をしているジャブラやブルーノに声を掛けたが、彼らは誰かを心配するようなタマではない。聞いたところで口を揃えて「さぁな」と言うだけで、人形のように動きもしない彼女を見つめたあと、わしはいくつかの品を少しずつ盛った皿を手に近寄り、声を掛けた。

「ほれ」

 彼女の前にある執務机の上に、わざと音を響かせるように置いて注意を引く。少し愛想が無さ過ぎたかと思ったが、アネッタもそこで漸く我に返ったらしい。どこか緩慢な様子で置かれた料理を見て、次に声を辿るようにわしを見つめると、「ん、あぁ、カク…ありがとう」と目元を和らげながら呟いた。

「……」
「……、……」

 しかし、此処でも感じる違和感。彼女とは五才からグアンハオで共に生活をしてきた縁がある。だからだろうか、目の前にある彼女の笑みがどうにも空虚に思えて仕方がない。
ゆえに彼女が普段通りではないと踏み、机の端に腰を下ろして「嫌になったか」と尋ねると、彼女は瞬きを増やして「何が?」と尋ねた。

「仕事が」

 なんせ、少し離れたところで酒を飲んでいるジャブラの足元には、死体が二つも転がっている。ぽっかりと開いた口の中やカーペットに転がる小物たちを見るに、拷問は随分と長く続いたはずで、いまだ精神が未熟で拷問嫌いの彼女がそれを見ていたのなら多少なりとも嫌になったはずだ。

「あ……あぁ……、ううん、そんなことないよ」

 しかし、アテが外れたのか何なのか、アネッタはどこか歯切れ悪く呟くと、それきり黙り込んでしまった。
 そんなことないのだと言うのなら、何故お喋りな彼女が黙るのか。走る沈黙には、より不自然さの磨きがかかり、わしは暫くの沈黙を受け入れて、一緒に持ってきたフォークで皿の上にあるボロネーゼをくるくると巻いてみたが、彼女の目線が此方を向くことはない。その上、いつまで経っても彼女はそれを食べようとしなかったので、ならばと自分の口元へと寄せると、そこでようやく彼女は「ちょっとぉ」と唇を尖らせた。

「うん?なんじゃ、どうした」
「どうしたって、……それ、私のなんでしょ?」
「おお、そうじゃぞ」
「じゃあどうしてカクが食べるの?」
「食べんのかと思って」
「食べますぅ」

 もう!と開いた口に、ボロネーゼを巻き付けたフォークの先を押し込む。彼女は一瞬動揺したように目を瞬かせたが、口に入れられたものを吐き出すわけにもいくまい。アネッタはそのまま大人しく咀嚼を繰り返して飲み込むと、また口を開いたが、なんとなく怒り出しそうな雰囲気を察知して、フィレ肉のステーキ、次にサーモンのマリネ、野菜のテリーヌと食べ物を詰め込んでみる。彼女はその度に「ちょ」「も」「いらなっ」と、そんなことを言っていたが、怒りだされてはかなわない。そうやって言葉を封じて、損ねた機嫌が戻るまで待っていたのだが、最終的には手首を掴まれて「もお!」と怒られてしまった。

 全く、わしからのアーンなんてそうはないというのに。

 まぁ、これで多少の不機嫌さは呆れによってかき消されたと思うので良しとしたいが、アネッタは小さく息を吐き出して場の雰囲気を戻すと、「あの肖像画の人私の母親なんだって」と小さく呟いた。

「母親?」

 訊ね、彼女の視線を辿る。
 小麦色の髪を持つアネッタと、菫色の髪を持つ肖像画の女。自分からすれば同じだと思える部分は瞳の色だけで、正直なところあまり似ているようには思えない。しかし、彼女が自分に対して嘘を言うような女ではないことも知っている。
 わしは思案しながらも、アネッタの見つめる先にある肖像画をじっと見つめて、「それじゃあアゼンタインがお前の父親ということか?」と続きを促すと、彼女は首を左右に振って白々しく肩を竦めてみせた。

「ううん、アゼンタインは適当なことを言われて逃げられたみたい。…まぁ、それ以来ずうっと探し続けているんだから、涙ぐましいやら、怖いやらなんだけどね」
「ほう……」
「だから、なんだろうね……。母親の顔なんて見たことなかったから、こんな人だったんだなぁって……なんか変な気持ちというか」
「……そうか、まぁ、初めてじゃそうなるじゃろうな」
「そうなの!だからやっぱり色々思うことがあるのよね」
「……まあ、そうじゃのう」
「っあ、で、でも、もしかしたら、その、古竜の情報を追いかけていたら、私のお母さんの手がかりも――」

 その時、ガシャン!と話を遮るように、机の上に置かれた皿が指の先から滑り落ちた。それにより、割れた陶器の破片は床へと散らばり、華やかな料理がカーペットの上に惜しげも無く広がるが、意識的に落としたものだ。彼女が驚いたところで此方が驚く筈もなく、此方を見上げるアネッタへと向けて、静かに、そして強く抗議した。

「……仮に肖像画の女が母親であるとして、それが一体何になる」

 彼女は二十三歳にして初めて母親というものを認識したのだ。揺れ動く気持ちは理解出来ないでもないが、始めは母親だと他人事として客観視出来ていた筈の彼女が、自分言のように呟いてさっそく母親という存在にかき乱されている。
 彼女がもっと冷徹でストイックな人間で有れば特に気にしなかったが、いまだ黒に染まり切れずに揺さぶられやすい彼女にその意識があるのは危険であるように思えてならない。

 本来、暗殺稼業に情なんて思考の邪魔になるだけで不要なものだと言われているのだから。

 このままでは肝心な場面で足元をすくわれてしまう。だからこそ、頼むから余計な考えは持ってくれるなと、そういった意味合いも込めた忠告だったのだが、この場を遮るように「おい、うるせぇぞ」と遠くから野次が飛んできた。
 奴はこの険悪とも和やかとも言えない雰囲気を察したのだろうか。見れば、ジャブラがこちらを見て訝しげな顔をしており、アネッタが「あ、ご、ごめん」と反射的に謝るとジャブラはアネッタを見て、それから床に散らばった皿の破片や料理たちを見て鼻で笑った。

「なんだよ、大根役者が一丁前に小物まで仕込もうってか?」

 もちろん、大根役者とは奴隷役のアネッタのことだ。小馬鹿にしたような物言いにアネッタは硬直し、言葉を詰まらせた後、「誰が大根役者よ!」と反論していたが、ジャブラという男はまぁ性格が悪い。奴はかっぱらってきた酒をぐいと煽ると下品に笑い、瓶を握ったまま人差し指をアネッタへと向けた。

「ギャハハハ!そりゃあテメェに決まってんだ狼牙!」
「な、あ…ッ…?!」
「おうおう、千両役者とまではいかんが大根役者ではないじゃろ」
「だよねぇ?!」
「まぁ、なんじゃ。言って、三文役者じゃな」
「っ同じ意味じゃない!!」

 しかしまぁ、この二人は声がでかい。いくら離れの隠し部屋とはいえ外に声が漏れたら面倒だというのに、声を抑えようなんて配慮が見当たらない。何より五月蝿くてかなわない。そこで適当に仲裁として入ったがアネッタの必死さたるや面白いもので、彼女は先ほどまで頭にあった母親の話題がもう抜け落ちたらしい。彼女はぎゃあぎゃあと喚いてそのたびにジャブラから小馬鹿にされていたが、まぁ、心配事が一つ消えたので、それは良しとしようと思う。