前が見えぬほど白糸垂れる大雨が、ざあざあどうどうと地面を叩く午後一時。作業を中断して戻った男たちはこれ幸いと休憩に入る中、バックヤードの片隅で麻縄を広げて手を動かす二人の姿があった。一人はこのガレーラカンパニーで艤装・マスト職の職長を務めるパウリー。もう一人は潜水技師のアネッタだ。パウリーは、前のめりになって手元を見つめるアネッタに向けて、己の得意とする縄を使って多様な結び方を披露しながら「クリート・ヒッチ、スワビッシュ・ヒッチ、タークス・ヘッド、ダイヤモンド・ノット、ラビット・ノット。」と呪文を唱える。
それらが全て結び目の名前であることは、次々に披露される結び目たちを見れば理解できるが、それにしたって数が多い。恐らくいま披露したラビット・ノットで五十種類目だろう。思わず制止をかけたアネッタは「ねぇ、あと幾つあるの?」と尋ね、パウリーを見た。
「あと幾つって……あと五十ちょいはあるな」
「ええ……」
「なんだよ、お前が見たいって言いだしたんだろうが」
「いや、そうなんだけど……、……パウリー凄すぎない…?」
「あ?」
「それ全部覚えてるってこと?」
「お、おぉ……」
「はー……凄いねぇ…」
日頃、覚えた結び方をいざ披露しようとも、これだけの結び方を覚えてどうするんだと嘲笑される事の多かったパウリーは一瞬だけ音階を落とす。どんな結び目があるのかと聞いてきたのはコイツだが、矢張りいくつかに絞った方が良かっただろうかと、そう思ったのだ。ところが、返ってきた言葉は予想外なもので、ラビット・ノットに手を伸ばしたアネッタは、凄いねぇ、上手だねぇと子供のように繰り返しては結び目を見つめ続けている。
それがなんだかこそばゆく、腹がむずがゆい。パウリーはぐっと力を込めるように眉間に皺をよせ、奥歯で挟んだ葉巻を噛みしめると、今ある感情を誤魔化すように「……興味があるなら、仕事に役立つ結び目を教えてやろうか」と小さく呟いた。まぁ、いわゆる照れ隠しというやつだ。
「いいの?!」
「お、おう、ビール一杯でいいぜ」
「あ、じゃあ結構です」
「だーーっ、冗談だっての!冗談が分からねえ女だな、テメェは!」
「なーんで業務に使う技術が有料なのよ、仕事仲間なんだからタダで教えてよ」
「仕方ねぇなぁ……」
言って、パウリーは頭を掻く。此処まで良い反応をされちゃあ無下には出来ない。それに彼女に技術を叩き込めば、それがガレーラカンパニーの強化と繁栄にも繋がる。まさに相互利益ではないか。
「そういや…教えるにしたってよ、結び目は何ができんだ?ウォーターボゥリンぐらいは出来るよな」
ウォーターボゥリンとは船を牽引する際など水に濡れる場面で使用する結び目だ。当然潜水技師である彼女が知って当然の技術だが、レベルを図るには丁度良い筈だ。
アネッタは目の前に差し出された麻縄を手に取ると「もっちろん」と間も空けずに返して、それを示すようにウォーターボゥリンの結びを使って掲げて見せる。手慣れた動きから問題はないとは分かったが、想像以上に綺麗な仕上がりだ。ガレーラカンパニーにアネッタが入社した際には、あまりの知識の無さにどうしてアイスバーグさんはこんな女を入社させたんだと思ったが、こいつはこいつで日々成長していたらしい。
パウリーは暫く縄を見ては感慨にふけていたが、反応が無いことに暇を抱いたアネッタは「おーい、パウリー?」とゴーグルの面を指先でつんつくと突く。パウリーはそこでようやく我にかえり「お、おぉ、上出来だな」と返したが、アネッタはそりゃあもう嬉しそうに頬を綻ばせて「へへ、良かった」と笑う。こうやってあどけなく笑うその姿は、入社してきたあの頃とあまり変わらないように思う。成長してるんだか、してないんだか。なんだかパウリーは笑えてしまって、肩を揺らめかせた。
「あとはねぇ、これも出来るよ」
それから、アネッタの小さな手がパウリーの手を取る。
ひやりとした彼女の手は手のひらを滑り、手首を撫でる。先ほどから気付けば彼女の事ばかりを考えているパウリーにとってはそれが妙に気恥ずかしく、誤魔化すように視線を落としたが、気付けば視線の先に一纏めにされた手首があった。それもご丁寧に隙間なく綺麗に縛られており、力を込めてもぎちりと音もしない。
パウリーは瞬きを繰り返す。
何故こんなことに。というか今の一瞬で?気恥ずかしさも消え、驚きの表情でアネッタを見ると、彼女は上手でしょって言わんばかりに目をきらきらと輝かせて笑った。まるでそこらへんにいる人懐っこい犬のようだと思ったが、犬ならまだマシだ。なんせ犬はこんなことできないのだから。
「どう?これ得意な結び方なんだ~!」
「いや、得意なのは分かったがよ、そもそもなんでおれの手首を結んで……ああくそっ、無駄に上手く結びやがって」
「へへへ」
「褒めてねえ!」
「ええ?!あ、だ、だって人を結ぶための結び方だし…あっ、っで、でも手早くできたでしょ?結びもほら、完璧」
「…いや、まぁ……手慣れてるのは分かるが、そもそもお前これどこで覚えてきたんだよ」
彼女の言うとおり、結び方を見るにこれは人に特化した結び方のように見える。しかし、それを一体どこで、誰に教えてもらったと言うのか。それも熟練度的に彼女は繰り返しこれを練習した筈だが、何故練習のしやすい対無機物向けの結び方よりも仕上がりが良いのか。幾つか疑問は浮かんだが、尋ねられたアネッタはへらへらと笑っているだけ。「可愛い子はね護身術の一つや二つ覚えてるんですよ」と呟くその言葉はどこか自慢げだ。
「自分で可愛いとか言うんじゃねえ」
「可愛いが……?」
なんだか馬鹿らしくなったパウリーは息を落とす。きっと、熟練度の違いだって此方の方が早く覚えたとか、ぬいぐるみ相手に練習したとか、そういう理由に違いないと、そう思ったのだ。
窓から差し込む眩い光が足元を照らす。「お、雨止んだな」という声につられて外を見ると、鉛のような色をしていた曇天の空が、洗い流されたように綺麗な青空へと変わっていた。ひさしからぽたぽたと落ちる大粒の雫は陽の光を受けて煌めいて、雨のない空を泳ぐ小鳥がやけに眩しく見えた。
「ほれ、お前たちもそろそろ再開するぞ…って何をしとるんじゃ」
其処に丁度良くというべきか、声を掛けにきたカクの冷ややかな視線が降り注ぐ。アネッタは幼馴染の言葉をものともせず「結び目遊び~」と言ったが、冗談じゃない。「遊びじゃねえ」とパウリーが返すと、アネッタは肩を揺らしてけらけらと笑う。全く、マイペースなやつだ。
「ほー……随分と面白いことをしとるようじゃのう」
「面白いことじゃねえよ!」
「でしょ~、見てこれ、すっごい上手にできた」
「おお」
「聞け!!!」
三人は年齢が近いせいか、友達のように騒いでいた。
きっと回りの従業員から見ても、この三人はとくに仲が良いと思ったはずだ。
「ふむ……じゃあわしも何か一つ二つ教えてやろうかのう」
カクは近くにあった麻縄を手にすると、「どんな結び方を教えてくれるの」と問いかけるアネッタを見て笑う。「ん~~?そうじゃのう…」と思案するような声はどこか機嫌の良さを示すように弾んでおり、ぺろりと悪戯っ子よろしく舌なめずりをしたカクは、目にもとまらぬ速さで麻縄を両手を広げるようにして伸ばすと、そのままの勢いをもって縛る。もちろん、パウリーを。しかも、今度は手足じゃなく膝下ときたもんだ。膝下に巻かれた麻縄は肉に食い込みはしないものの隙間なく、完璧とも言える仕上がりで、パウリーはその間抜けな恰好で「なんでおれに!!!!」と喚いたが、いまの恰好で喚かれてもハレンチでしかない。
「そりゃあ、お前が丁度良いからじゃろう」
「何が丁度いいだ!テメーの足でやりゃあいいだろうが!」
「なぜわしの足を使う必要が?わしの足でやったら教えづらいじゃろ」
「知るか!」
初めから終わりまで悪戯一つの行為であれば、もっと怒鳴る事は出来た。いい加減にしろ。麻縄は玩具じゃないんだぞ、と。しかし、カクは先のとおり、これを教えとして縛り方や名称、どこで使用すべきなのかを笑い混じりに教えている。
職人として知識の芽吹きを摘むことの影響を見てきた筈のパウリーが、それを己の機嫌一つで摘むことはできない。――ということをカクは知っているのだろう。なんてタチの悪いやり方だとパウリーは睨んだが、カクは山嵐としての愛嬌のある顔でニコリと笑むと「なんじゃ、別の縛り方も試してええのか」と麻縄を掲げながら尋ねた。
「いいわけあるかァ!」
「なんじゃ、ツレんのう。……じゃがまぁ、そろそろお遊びは御終いじゃな」
カクの瞳が一度外へと向いて、黒い瞳に青空を映したあと、アネッタを見る。アネッタは愉しそうに足をパタパタと揺らして笑っていたが、カクの手から伸びた麻縄が蛇のようにアネッタの手首を捉えて一纏めにしてしまうと、彼女は自分の手元を見て大きく目を見開いた。
「わ、わぁ……これなんて縛り方…?」
「ダブル・フィギュア・エイト・オンア・バイトじゃな」
思わず問いかけることしかできないアネッタ。カクも涼しい顔で答えていたが、もはや「ワ、ワァ……」としか言えなかった。
そうして間抜けな二人は縛られて、カクを見る。一人は手足を縛られ、一人は手首を縛られ。一件すれば、いいや、しなくとも怪しい集会にしか見えないがそんな二人を見て、カクは満足そうな顔で笑うと、小柄なアネッタをひょいと持ち上げた。
「さて、じゃあパウリーこいつを借りてくぞ」
「はえ……え?な、なんで…?」
「お前、わしを手伝うといっておったじゃろうが、すっぽかしおって」
「あ……!」
「罰としてこれで運ぶ」
「ひどい!!!!」
先ほどまでけたけたと笑っていた機嫌の良さはどこにいったのか。一変して、ぎゃあぎゃあと叫ぶアネッタの声がよく響く。そうしてアネッタはあっという間にカクによって連れていかれたが、残されたパウリーは先のとおり、手も、足も縛られている。それも、頑丈に、頑強に、強固に。
慌てたパウリーが「あ、おい!!ばか!せめてこれを解いていけ!!!」と焦りを滲ませて叫んだが、最早芋虫状態のパウリーが追い付く筈もなく、ぎゃあぎゃあと叫ぶアネッタの声がかき消すばかりで、パウリーはそのまま暫く放置されることになった。
ああ、まさか鳩に助けられる羽目になるなんて。
パウリーは恥ずかしさのあまりに顔を覆ったあと、「明日のランチで手を打ってやるッポー」と脅す長躯の男を睨みつけた。