昔から親も友達もいないけれど、妖だけは私と仲良くしてくれた。
「酒吞童子。…酒吞童子……ねぇ、ジャブラってば!」
田園に佇む神社にて。薄暗い針葉樹の森林を抜けて、山の麓に訪れた女は、狭小の神社の賽銭箱の前で足を止めて境内へ声を掛ける。しかし、三度の呼びかけにも返事は無い。ただ其処にあるのは、そよぐ風によって緑の葉が触れ合う優しい音だけで、サワサワと広がる音を耳にスクールバックを肩にかけた女学生・アネッタは小さく息を吐いた。
「……そっちがその気なら、こっちにだって考えがあるんだからね」
物騒な物言いに、本坪鈴から垂れる五色の布を手にするアネッタ。彼女は境内を睨むと、勢いよく左右前後に激しく揺らすが、本坪鈴を訪問合図に使う女は彼女くらいであろう。左右の揺れに合わせて本坪鈴がガランガランと喧しく音を立てた数秒後、締め切られた襖が開き、荒げた声が飛び出した。
「だぁぁぁ!うるせぇなァ!!」
「あ、やっぱりいるんじゃない」
「うるせェんだよ、テメェはいつもいつも!」
「ジャブラが出てこないから悪いんでしょ。……ね、今日はジャブラに用があってきたの」
襖から出てきたのは二本の角を持つ妖・酒吞童子であった。左目に大きな傷を持つ三白眼のこの男は、恰幅も良く恐ろしい見目をしているが紐で括られた酒壺を手にしているあたり、今日も酒を飲んでいたのだろう。全く、居留守とはいただけない。
アネッタはローファーを脱いで境内に上がると、怖がりもせずに奥の方へと足を進めて一つ呟いた。
「ジャブラ、……ううん、酒吞童子。お願いがあるの」
「あァ?」
「……その、酒吞童子は名前にある通り、いつもお酒を飲んでるんでしょ?」
「おォ、おれは酒が好きだからな」
言いながら、襖近くに腰を下ろす酒吞童子・ジャブラ。彼はゴロンと寝転がって普段と変わらぬ様子で、酒を飲む。その姿は幼い頃から見続けた、いわば見慣れた光景ではあるが矢張り妖ともなると健康も不健康もないのだろうか。アネッタはそろそろと近付いて隣に腰を下ろす。それから言いづらそうに口を開くと、「それ、少しだけ分けてもらえないかな」と零した。
「あぁ?……オメーはまだ未成年だろうが」
「その、伯父さんが、……お酒を買ってこいって」
「それがどうしたっておれの酒を貰うことになるんだよ。買ってくりゃいいだろ」
「ええと、その、………お金を、もらってなくて」
「はァ?」
彼女・アネッタは幼い頃に両親を亡くした後、伯父のもとへと引き取られた。といっても、その伯父と名乗る男はアネッタを哀れに思ったわけではなく、保険金や国からの支援金目的で、親を亡くしたアネッタをケアするどころか、邪険に扱っていたが。だからアネッタはこうして妖が見える事を良いことに、ひとり神社に駆け込む事が多々あったが、今回は随分と無理難題を押し付けられたものだ。
これには酒吞童子も呆れ、息を吐き出すものの酒吞童子が飲む酒は人には毒となる代物だ。決して人に与えてよい物ではない。ジャブラは頭を掻き一言無理だと言うと、普段はすぐに引く彼女が露骨に瞳を揺らし、青ざめた。
「で、でも」
「渡せるか、こいつは人間が飲めるもんじゃねェ」
「でも、私、お金がなくて、……お酒で頼れるのはジャブラしか」
「……知るかよ」
可哀想だと憐れんで酒をやれと?
確かに供えられた酒が無いわけではないが、あれをいま渡したところで事態が解決はしない。なんせ相手は幼かった子供を、真冬に置き去りにするような奴らだ。金の無い状態で、どこからか酒を持って帰れば酒の生る木だと喜んで要求を繰り返す筈だ。そうなれば彼女の立場は今よりも悪くなる筈で、今度こそ命が脅かされる危機がある。ジャブラは一口酒を煽り鬼らしく動揺するアネッタを切り捨てると、ちらりと膨らみのあるスカート側面のポケットへと視線を送り、静かに呟いた。
「せいぜい、お前の大事な石ころを抱えとくんだな」
*
結局酒も貰えずに帰り、勝手口から家に入る。幸運なことに伯父たち一家の姿は無く、靴を揃えて中に入ると良い匂いがする。匂い的に今晩はカレーだろうか。そろりと蓋の空いた鍋を見るとゴロゴロとした野菜が入ったカレーがたっぷりと入っている。浮いた肉も牛肉を使用しているのか随分と厚切りになっており、スパイシーな香りが食欲をそそるが食事の時間はうんと先だ。……自分が食べるころに、具材が残っていればよいのだけれど。
アネッタはそんなことを考えながら部屋へと戻り、鞄を下ろして息をつく。あとは伯父さんたちが眠るまで、息を殺して静かにしているだけの時間だが、何度経験したってこの時間は虚しくて仕方が無い。
だから、せめて眠ることで誤魔化せたらと部屋の隅に座り膝を抱えたのはいわば生活の知恵だが、この家では眠りに落ちるほどの暇すらも与えられないようだ。とつぜん部屋の扉が開いたかと思うと、機嫌の悪い伯父が部屋へと入って来る。それも、噎せ返るほどの酒気を放って。
「おい、アネッタ。おまえ酒はどうした」
伯父さんが言う。
どうやら機嫌が悪いようだ。
「あ……、いや、その」
「まさか酒も持たずに帰ってきたなんて言わないよなぁ?」
「か、買おうと思ったんだけど、でも、お酒は、お金がないと…」
「あぁ?!金がないから酒が無えだ?!」
当たり前の事に声を荒げる伯父。これにはアネッタも怯える事しか出来ず、震える声で「お店にも行ったんです」「でも、買えないって」「未成年には売れないって」「お金もないから」と頭にあるだけの理由を話したが、伯父にそんな理由は通用しない。伯父の目の前にある事実は酒すらも買ってこれない愚図という事だけで、ヌウと伸びる手がポニーテールを掴んで持ち上げた。
「ぅあ…ッ」
「いいか、女なんてその体を使えばどうにでも出来るだろうが」
「い、言…ってる意味、が……ッ」
その瞬間、薄暗い部屋の中で「ああ、そうか」と言葉が落ちる。それから掴まれたポニーテールは乱暴に引っ張られ、引きずられ、ラグも引いていないような硬い床に倒されて、強く頭を打つ。しかし、見上げた先にある顔を見れば、これから行われる事が嫌でも分かるが、ヒュウヒュウと呼吸が漏れるだけでうまく声が出ないのは恐怖のせいであろう。
「伯父さん」
アネッタは震える声でいい、伯父を見上げた。
「はは……お前はあの養子の……あの女に似て顔と身体だけは良いからな、これからはこの体を使うことを教えるのも、親の務めだろう」
どうせ保険金と支援金は使いきっちまったんだ。これからは金を増やすことを考えないと。そういった瞬間、アネッタの中にある感情がぐらぐらと煮えたぎるように揺れ動くのが分かる。保険金と支援金を使い切った?保険金は相当な額が入ったと、これで遊んで暮らせるのだと喜んでいたくせに。アネッタは目の前でぶちぶちとボタンを引きちぎられながら、ぼんやりと思う。支援金だって、交通遺児に対する者や、子供手当など複数種類あるくせに。この家にやってくるためだといって、家だけでなく私財を全て売り払ったくせに!
アネッタは下着に向けられた手を思い切り叩き、驚き唖然とする伯父の身体を蹴り飛ばすと立ち上がり、喚いた。
「っ信じられない!父さんと母さんのものを全て奪ったくせに!保険金も支援金も使い切った?!あり得ない、……っもういや、もういやだ、こんな生活!!」
「あ゛っが……ッアネッタ、……おま、え、一体誰に手を出して……!」
「私は、伯父さんが私を殴ったように私もやり返しただけ!そもそもお金も渡さずお酒を買って来いだなんて出来る筈ないじゃない!いつも晩御飯だってみんなが寝静まった後に残飯ばっかり食べて、お風呂だっていつもぬるくなったあと!」
嫌い、嫌いよ。これまでに受けたことが溢れて落ちる。その癖に吐き出しても吐き出しても煮えたぎる感情は冷めることなく机にあったペンケースを持ち上げたところで騒動を聞きつけた伯母やその息子たちが、アネッタの腕や服、ポニーテールを掴んで止めに入ったが、もちろん伯父がしでかしたことを諫めるためではない。彼らはアネッタになんていやしい女なんだと非難を浴びせて頬を叩くと、アネッタはお守りにと渡された水を固めたように透き通る青々とした石を握り締めて、叫んだ。
「……っ、助けて、……助けて、烏天狗!」
次の瞬間、ごう、と彼女を起点に吹き荒れる風。あまりの勢いに室内にあった教科書やノートや少しの私物だけではなく伯父や伯母、その子供たちが吹き飛ばされて壁に体を打つが一体何がおきたというのか。伯父たちは痛みに呻きながらも身体を起こしてアネッタのいた方向を見ると、そこには黒い翼を持った山伏装束の男が立っていた。
年齢は二十代だろうか。若く見えるが頭には赤い面構えの天狗面があり、男は錫杖で床を叩いて、冷たい瞳で鋭く周囲を見渡した。
「……ようやくわしを呼んでくれたと思えば、随分と酷い状況じゃのう」
「…っカク……!」
「お、お前は一体………」
「わしか?わしはこの子の命に従って、馳せ参じた烏天狗と申す」
ちと、遅れてしもうたがなと烏天狗。
「烏天狗……?!」
確かに、山伏衣装に錫杖、天狗の仮面に一本下駄と黒い翼を見れば烏天狗に見えるが、この現代に烏天狗が存在すると言うのか。伯父が唖然としていると烏天狗――もといカクが不安そうに見上げるアネッタを見て優しく呟いた。
「安心せい。お前の勇気はしかと承った。……もう、大丈夫じゃ」
まぁ、本当の意味で安心させる為には、この男たちをどうにかする必要があるが。見れば彼女の服装は乱れ、肌が露出している。加えて頬が赤くなっている様子を見るに、暴力も振るわれたのだろう。露出した肌の一部にも青痣がいくつか残っている。カクは穏やかな眼差しを転じて軽蔑に変えると、伯父たちを見て、口角を吊り上げながら呟いた。
「烏天狗なんて存在するのか。いや、いいや、なんだっていい。あの女を、なんでも言いなりになる女を連れていこうだなんてありえない。家族全員でやれば、ああ、そうだ警察に。警察に言えば……どうして心の声が分かるんだ!…わはは……まぁ、こんなところかのう。全く、馬鹿なことを」
元来、人の心が読める烏天狗を前に策を講じるなんて不可能だ。ク、ク、ク。カクはその愚かな思考にも、醜い面構えにも笑い、彼女の残る痕とこれまでの行為を恨み。リンと音を鳴らす錫杖を振るった。
遮る雲も無く、明月が照らす神社にて、烏天狗は腕に抱えた少女を建物の前にある岩床へと下ろす。少女はひやりと冷える岩床に腰を下ろすと、カクは岩床の前に跪き靴も無く素足を晒す彼女の足を両手で摩りながら零した。
「靴ぐらいは持ってきたら良かったのう……」
「え、あ、大丈夫だよ。これくらい……それよりも連れてきてくれてありがとう」
ここだけの秘密、あのまま伯父さんの家にいるのは気まずかったの、とアネッタ。その瞳は普段と変わらず茶目っ気を含んでおり、カクは息を漏らすように笑みを浮かべた。
「わはは……、ワシャ当然のことをしたまでじゃ。……お前も今までよく堪えたのう……全く、すぐにわしを呼んでくれたらこうなる前に助けられたものを」
「だって、そんなのカクの迷惑になっちゃうじゃない。それに、ああやってカクを呼び出せるのは一度きりだって言ってたから。……だから、もうどうにもならなかった時に使おうって決めてたんだ」
言いながら、ずっと手にしていた石を見ると、これまでは水を固めたような美しく透き通った青の石が、そこいらにある石と変わらないものになっていることに気付いた。それを見て驚くと、カクはその石を見つめて静かに尋ねた。
「……のう、アネッタ。これを渡した時に伝えたことを覚えとるか」
この石を――令命石を渡したのは、彼女が七歳だった頃。これは魂の一部を込めた妖を一度限り呼び出す事の出来る代物で、魂の一部を込めると言う対価から今では殆どお目にかからないような代物だ。それをわざわざ魂を込めてまで渡したのはこの烏天狗と呼ばれる妖が、純潔な魂を持つ彼女に恋心を抱いたからなのだが、彼はそう優しいだけの人間ではない。
「この石を使った時、私の命を貰うって」
「あぁ。そしてそれを理解してもなお使った。……そういうことでいいんじゃな」
カクは尋ねる。
その声色は優しいが、どこか静かで明確な答えを望んでいる。
「……」
アネッタはその言葉に長い睫毛を伏せたあと、本当に良いのだろうかと考えてみる。けれども、彼女はいつだって彼を呼ぶことのできるものを持ちながらも十年間も堪え続けたのだ。もう彼女に堪えられるほどの余裕はなく、最善の選択だったように思う。例え、この命が尽きようとも。
アネッタは諦観の笑みを見せた。
「うん、もういいの。………どうせ私の味方はいないもん。だから、それだったら此処でもう終わらせてもいいかなって」
「……、……そうか」
「カクも、今までありがとう」
「……ああ」
多分、他の人だったら最後まで呼ばなかったと思う。けれどもあの場でああして助けを求めたのは、きっと幼い頃から傍で見守り続けてくれた彼の存在が大きかったからで、日に焼けた手がこうやって頬を撫でてくれるのも最後なのかと思うと、なんだか寂しくて、それと同時にこれから迎える終わりが怖くなって、胸が痛くなってしまった。
「それじゃあ、……いいか」
カクは、真っ直ぐに瞳を見つめて尋ねた。
「……うん」
そう言ったあと、カクの双眼が細くなり、頬に向けられた手のひらが顎に向かう。一体なんだろう。そもそも死ぬってどうやって死ぬんだろう。きっと彼ならば痛みを減らしてくれると思うのだが。アネッタは不安感から体を強張らせると、彼の手が顎をクイと掬い「すぐに終わらせる」という囁きと共に唇が重なった。
「?!」
驚き瞬く瞳。思わず胸に手を向けてしまったが彼の手がそっとそれを握り、覆って抑え込む。その間も唇は離れることなく重なったままで、心臓を中心に、何かがベリベリと剥がれ落ちるような感覚が広がって、ぞわりと鳥肌が立つ。べりべりと、べりべりと。剥がれ落ちる感覚は続き、ツウと直接臓器を指で撫でられるような違和感が気持ちが悪い。体もそれを訴えるように拒絶反応を見せるようウクウクと胃が痙攣しはじめてアネッタが呻くと、唇が離れると共に口の中から青い炎がずるりと抜け落ちて、それを唇で挟んだカクは燃え盛る美しい炎をそのまま飲み込み、笑みを見せた。
「ン……フフ、やはりわしの見立て通り、質の良いものじゃったな」
「ぅ、え゛……い、今のは……」
あれほど気持ちが悪く、妙な感覚だったのに、なんだかやけに体が軽いような。それに先ほどまではあった胃痙攣の感覚も無くなり、叩かれてジンジンと痛んでいた頬も痛みがない。その突然の変化に驚くと、カクは手のひらを掬い上げて揃えた指の根に口づけを落とした。
「……約束通り、お前の命はわしがもらい受けた。さ、お前はわしの嫁になってもらうぞ」
「へ、え?あ、ご、ごめん、どういう……」
「その言葉の通りじゃ。お前はこの現代で生きる命を捨て、妖となった。そしてその身元引受人はわしで、お前はわしの嫁になるんじゃ」
「……じゃあ…えっと、死なないってこと?」
「いいや?お前はもう人間の命を捨てておるよ。さっきの青い炎は、お前の命じゃからな」
じゃないと、妖として生きるには命が短すぎるからな、とカク。
しかし、アネッタからすれば話の展開が早すぎるし、何より妖になった実感が湧かない。アネッタはいまいち腑に落ちず、尋ねた。
「でも、こうして生きてるよ?」
足だってきちんとあるし、何より身体だって透き通っていない。とてもじゃないが妖になったようには思えないのだ。尋ねると、カクは「妖としてな」と短く言い、こめかみ辺りを指す。アネッタは不思議に思いながらも言うとおりに触れてみると、そこにはずるりと伸びる角のようなものが生えている。それも一本なんて可愛いものではない。一本、二本、……いいや三本も生えている。これには死ぬ決意まで抱いたアネッタも驚かざるを得ない状況で、驚き悲鳴を上げると境内の襖が勢いよく開いて、酒呑童子がまたうるせぇだなんだと怒鳴るが、こればっかりは仕方が無いじゃないか。
「じゃ、ジャブラ……」
「あぁ?なんだまたお前かクソガ………あぁ?」
「角生えちゃった……」
呆然と零すアネッタ。
対してジャブラは角を持つ少女を見て、やけに落ち着いた様子で尋ねた。
「……なんだ、カク。お前ついに嫁にしたのか」
「あぁ、ようやくわしを呼んでくれたからな」
「け、よくやるぜ。……お前も大変だぜ。このクソバカ烏天狗を夫に持つのは」
「え、あ、そ、そっか。私、カクのお嫁さんになるってことだもんね」
「なんじゃ、今更無しとは言えんぞ」
「あ、ううん。むしろお嫁さんになるならカクがいいんだけど…その、カクは私で嫌じゃない?」
「何を言うかと思えば、馬鹿じゃのう……嫌な女を誰が助けるものか」
そう、彼は決してやさしいだけの男ではない。命の一部を込めた命令石を渡したのだって、こうして確実に彼女を嫁に迎えるためのものだ。カクは双眼を細めながら他所に向いた目が気に入らないと袖を引いてもう一度口づけたが――ただ一人酒呑童子だけは乾いた息を落とし、酒を一口煽っていた。