ここ数日、どうにもアネッタの噛み癖が酷い。
「……カク、首の傷が酷いことになってるぞ」
船内ギャレーにて、暇つぶしに読書をしていると珈琲を淹れに来たブルーノが項を見て零す。その表情は驚きに満ちており、試しに首裏に手を回すと触れたところがじくじくと痛む。まぁブルーノがわざわざ声を掛けるほどだ。傷の程度はあまりよくないのだろうが、それを知ってか知らでか背中をよじ登る手のひらほどの小さな竜はご機嫌だ。肩へと昇る彼女はふんふんと鼻を鳴らしている。
それから爪を立てるようにして足場を確保したあとには、一寸の躊躇もなく首横に噛みつくが、それがまた痛いのなんのって。なんせ、いくら手のひらほどと小さいとはいえ、竜に生える牙というのは鋭く尖っている。それが首に沈めばそれなりに痛むというものでカクは「いたた、やめんかアネッタ」と言いながらやんわりと手を押すが、彼女は噛みついたまま唸ることで拒否を示し、牙を静めるようグッと力を込める。
「…っぅ、ぐ……」
痛みに呻き、表情を歪ませる。それを見てブルーノが「剥がすか」と声を掛けてくれたが、彼女の面倒役は己であり、彼ではない。そして、彼に譲る気もない。カクは少しのプライドで厚意を断ると、本格的にやめるよう伝えるために手を向ける。しかし噛みついたままの彼女は背にある岩鱗を逆立てながら「ミ゛ャー!」と怒り、もう一度指の節に噛みつくが、どうして言うことをきかないのか。普段はあんなに、逆らうことも出来ない臆病な女だと言うのに。
いや、いいや。
もしかしたら、人としての感情を無くしているということか。
気付けば噛まれた指の節は鬱血したように紫色になっていた。暫く噛んだ後には、あとからやってきたジャブラも噛んでいたが、やはりどうにもこうにも小さな生き物に手を出しづらいようだ。ジャブラも「いてぇなァ!」と怒りつつも、アネッタが小生意気に翼を打ち鳴らして逃げると、それ以上追うことはなく舌を打つに留めていた。
「どうしたもんかのう……」
手元にきた、アネッタを転がして、腹をこちょこちょと擽る。彼女はそれにきゃらきゃらと笑い、時に指に噛みついていたがその姿には敵意などはなく遊びの延長にも見える。
「……アネ、どうして噛むんじゃ」
「噛みたいから!」
「歯がかゆいわけじゃないのか?」
「わかんない、でもなにか噛みたくてうずうずする!」
「やはり竜の本能ということか……」
普通、獣が首を噛むのは自分が優位に立っていると知らせるためのマウント行動だと言われている。しかし、はたして彼女のような雌の小さな竜がマウントを取るものだろうか。確かに首を噛むあいだ彼女はよく唸る。何度も何度も角度を変えて噛みつく様子は、ただ肉を食らいたいだけの様子には思えないが、それにしたって自制すらできないものなのか。
彼女がこの小さな竜になり、人間の姿に戻れなくなって暫く。段々と知能を下げていることは理解しているが、このまま竜の姿でいると、何か、本当に今までのことを手放してしまいそうで怖い。
ただ、そんな思いを知らぬアネッタは呑気なもので、ギャレーにルッチが入ってくると彼女は嬉しそうにして、瞳孔を細めながら口を開いてカカカッとクラッキングを見せる。どこか、新しい玩具がやってきたって顔だ。
「よさんか、流石にルッチはいかん。殺されるぞ」
「ミ゛ャー!」
「ッアネッタ!」
押さえつける手を尻尾が弾いて、小さな竜は飛び上がる。翼を打ち鳴らすその姿は小さいが、勢いだけは力強く見える。そうして宙を蹴るようにしてビュンとルッチに近付いた彼女は、この体になってから警戒が薄れていることを良いことに肩に乗って、髪をかき分け噛みつこうと口を開いたが、彼がそれを許すはずもない。アネッタの体は早々に体が弾かれて、地面へと落とされることになった。
「……何をやっている」
地を這うような低い声。見上げるとロブ・ルッチが冷めた目で此方を見ている。それどころか、彼はおどろおどろしい様子で姿を変えてヒトではなく一匹の豹が覆いかぶさるように上から見下ろすと、勢いだけで部屋のもの全てをひっくり返すような咆哮を上げた。
その瞬間、ワア、口の中がよく見えると思ったのは小さな竜の談。しかし、一方で明らかに自分よりも優位な獣を前にして硬直したように動けなくなってしまい、震えながら降参ポーズで腹を見せる。その様子にルッチは息を吐き出すと、もう一度姿を戻してブルーノが淹れたコーヒーを受け取っていたが、あまりにも、あまりにも怖すぎた。アネッタはルッチの視界が他所を向いたことをいいことに震えながらそろそろと退散し、カクの肩の上に逃げたが、到底もう一度人間の首を噛んでやろうなんて気持ちにはなれない。彼女はカクの手のひらに顔を埋めるようにして抱きしめて、尻尾を自分の足に巻きつけながらキュウキュウと泣きついた。
「おお……凄いのう、ルッチ!噛み癖が一発で治ったわい」
「フン。ふざけた真似をしやがって」
手の内で、キュウキュウと鳴きながら震えている。「へぇん……怖かった…」なんて零れた言葉は情けないもので、アネッタはお詫びのつもりかそのまま指の噛み痕を舐めると、コロンと腹を見せて服従のポーズをしてみせた。