「お願いします、真澄さん。ま、真澄さんを殺さないと、私は、私の家族は」
荒川組に入り浸っていた彼女は、どうやら裏で脅されていた裏切者だったらしい。
ガタガタと震える手が包丁の柄を握り、鋭い刃が此方を見ていた。「私が、私がやらなきゃいけないの」まるで何かに憑りつかれ、悪夢に苛まれているような譫言。ガタガタと震えるその顔は、見ていられないほど青白く、頬に伝う冷や汗ばかりが床へと落ちていく。
「馬鹿げた事を……テメェがそんなこと本当に出来ると思ってんのか!××!」
真澄の前に出た沢城の表情が歪み、眉間に刻んだ皺がひときわ深くなる。怒りと憎しみに満ちた声色は××を制圧させるよう怒鳴っていたものの──その言葉ひとつで大きく肩を揺らすような女だ。元より”その気”なんてなかったのだろう。
であれば、計画的な裏切者というよりも、誰かが手を引いている筈だ。
それも、随分と下賤なやり方で。
(全く、不愉快極まりねえな……)
沢城が思う一方で、荒川真澄は真っ直ぐに××を見ていた。
「どうした、××。お前らしくねえじゃねえか」
その問いかけは、荒川組の組長としてというよりも、ひとりの男としての心配があったように思う。沢城のような威圧感は無く、優しさすら感じる静かな問いかけ。静かな場に響くのは古ぼけた時計にある秒針が動く音で、ボーン……と遠く響いていく音が××の背中を押した。
「私が、私がやらないと、家族が……」
此方が思わず同情してしまうほどの怯えよう。”一体何をしてくれたら”こうなるのだろうか。……まぁ、組長の立場で考えれば分かりやすいが、──彼女は此処にいるべきではない。
黄昏時に浸かった足は、底なし沼に沈む前に引き上げてやらないと。
真澄はその言葉に双眼を細めると、刃物を構える相手へと距離を詰める。
一歩、二歩、三歩。その距離は抱擁しているのと変わらない距離で──もしもこの場を見ている者がいれば、彼女がうまく殺ったと思うに違いない。
華奢な体が真澄の身体に包まれたそのとき、重たいムスクが鼻をつく。しかし、そこに吐き気を催すような鉄の臭いが混じる事はなく、真澄の手が包丁を持つ手を覆った。
「まずは落ち着いて、その場に座りなさい。……大丈夫、一緒にだ」
小さな声が囁いて、窓からの狙撃を懸念して死角になる窓際に一緒になって座り込む。包丁の上部には手のひらを宛てたままで、彼女は最後までそれに犯行して力を籠める事はなく、下ろさせた手から包丁が落ちた。
「あ……、ます、……真澄、さん……沢、城、さん、私……」
「……よく頑張ったな、後は俺たち大人に任せるといい」
彼女を表に戻せば、もう関わりを持つ事は出来ないだろう。けれども彼女のこんな姿を見るよりも遥かに耐えられる。「丈」「ええ、分かってます。イチを行かせます」「ああ、頼んだぞ」話し合いなんてものは必要ない。阿吽の呼吸で部屋を出た沢城は舌を打つと、携帯を手に声を荒げた。