一体なにが原因なのか、ある日突然アネッタが赤ん坊になった。
それも、記憶すら持たない、ただの赤ん坊に。
「一日で戻るらしいが、どうしたもんかのう……」
ある日の昼下がり。その日は珍しく仕事の無い一日であった。それも、全員が揃っての休日。彼女が赤ん坊でなければ大興奮でどこか遊びに行こうと言っていただろうに、なんと不運なことか。
カクの部屋に集まる面々は、足元でうようよと蠢く桃髪を四つん這いで追いかける赤ん坊を見ていた。――小麦色の髪に、いまだ柔らかそうな先のとがっていない角。お尻部分に入れた切込みから出した尻尾はずっしりとした見た目で、手足がバタバタとよく動いている。
「あー、うっ!あっ、ぅーう」
「よよォい!玉のような赤ん坊だァ~~」
喃語を喋る赤ん坊と、それを相手する大男のクマドリ。その光景は微笑ましいが、暗殺稼業の集団が子守をしているなんて名折れにも程がある話だ。……まぁ、かといって彼女を放置する気も、異常事態だと騒いで研究所に送る事もする気はないのだが。
「あら、いいじゃない。いい子だもの」
でちでちと近寄る赤ん坊の前に膝をついたカリファが、ふんわりと編み込んだような朱色のヘアバンドをつけてやる。それをアネッタが不思議そうに触ると「あら駄目よ」とそれらしく云って手を取るものの……もちもちと触り続けているあたり、単に触りたかっただけであろう。暫く触られていたアネッタがよそに興味を移して「う!う!」と言い出して、ルッチを見上げる。
それを察したようにカリファが手を離すと、その場で力いっぱい両手を広げて抱っこを強請る。それに「チャパパー、ルッチが抱っこを強請られてるぞー」「……子供は純粋だな」と言ったのは、フクロウと、ブルーノ。フクロウは揶揄いに近い声色だったが、ブルーノの声には多少驚きが含んでいたように思う。
「……なぜおれがお前を抱く必要がある」
ルッチは、赤ん坊に向けて冷たく言う。しかし、赤ん坊相手に効果はない。
それに溜息を吐いたルッチは面倒くせえと言いながら持ち上げてはみたものの、赤子のお守りなんてグアンハオで習っちゃいない。
だからこの男が出来ることは、ただ持ち上げたまま見つめるだけ。遊ぶわけでもなく、抱っこをするわけでもなく。持ち上げたまま、見つめるだけだ。それには流石に相棒のハットリも困惑した様子でポオポオと鳴くものの、彼もまたあやし方が分からないらしい。持ち上げられたままのアネッタが足をぷらんぷらんと揺らしていると、とつぜんジャブラが首根っこを掴んで取り上げた。
「ルッチよォ……オメーはせめてあやすぐらいの事はしろよ」
首根っこを掴んだまま、アネッタをぷらぷらとさせながらジャブラが言う。
その声色は呆れかえっている。
「お前がそれを言うのか」
ルッチの指摘は至極全うだった。
それはジャブラも舌を打ち、仕方なしとばかりに肩に寄せて抱いていたが、そういえばこんなに小さい赤ん坊を抱っこしたのはもう云十年ぶりだ。頬に触れるモチモチとした柔らかい感触も、肩の方からふんわりと香る甘ったるい匂い。どうしてこうも赤ん坊っていうのはいい匂いがするもんか。……なんだか、すべてが懐かしい気がする。
人見知りを一切せずに「あぶあぶ」言っている赤子の尻を手で支え、ついでにおもちゃを見つけたように襟を食みヂュブヂュブ吸うアネッタに言った。
「おい、汚えだろ」
すると、間髪いれずにカクも頷いた。
「そうじゃぞアネッタ、ジャブラの襟なんか汚いんじゃからペッするんじゃ」
「テメェ!!」
「わははっ、自分で汚いと言ったんじゃろ!」
「おれじゃねえ、このちんちくりんに決まってんだ狼牙!」
「おうおう、怖いのう。いいかアネッタ、こういう大人にはなってはいかんぞ」
言いながら、アネッタの頭を撫でる。柔らかい猫っ毛はふわふわで、赤子であるからなのか一本一本がとても細くて柔らかい髪質だ。それでも彼女は襟を吸うことに必死で、もしかしてお腹が空いているのだろうかと思ったりもしたが、それは先ほど哺乳瓶に入ったミルクをいっぱい飲んだ筈。
ともすれば、これは単なる赤ちゃん的行動ということだろうか。
べちょべちょになった襟は涎塗れで雫を垂らす。それを見て適当にゴム製のモーニングスターを渡すとぶんぶん振り回して遊び、またきゃあきゃあ楽しんでいたが、すぐにビヨヨンと跳ね返った先のゴム鉄球が顔面に当たって、ぎゃんぎゃんと鳴き喚いていた。
* * *
気付けば、育児に奮闘していたジャブラとカクが床に寝転んで眠っていた。その合間には小さな赤ん坊が一人。眠りもせずにカクの上をよじ登り、ついでに転げてジャブラの腹に踵落としを決めて、きゃらきゃらと笑っている彼女はまだまだ元気らしい。
……子供とはこんなにも体力があるのか。
その光景を見下ろすルッチの表情は、いつになく驚きを滲ませていたように思う。
「……お前はもう寝ろ」
ルッチが言い抱き上げる。小さな体は羽のように軽く、それでいて筋肉や芯なんて感じないほどに柔らかい。悪意や恐怖なんて言葉も知らず、その小さな赤ん坊はようやく思い出したように大きく口を開いて欠伸を零すと、ぴっとりと身を摺り寄せた。
「アネ」
小さく呼びかけた言葉に、金色の瞳が重たげに瞬く。その体は暖かく、分からないなりに体を支えてやると、ぷくぷくの手が口元へと向かって指吸いをはじめて、幾ばくもなく眠りに落ちる。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、室内には赤ん坊の微かな寝息だけが満ちていた。
カクとジャブラの寝息が交わるように重なり、空気すらもまどろんでいるような。――まるで時間がふっと緩んだような、そんな静かな“間”が、そこに生まれていた。指吸いで涎のついた親指も口から離れて、ルッチはようやく息を吐き出すと、カリファやブルーノたちに手渡すわけでもなく、そのままソファへと腰を下ろし、小さな温もりを胸に感じながら、暫しの間、目を閉じた。