あの日を境に、携帯に保存された写真や動画、それから私物までもが消え始めた。五千枚あった写真が、五百枚になり、百二十本あった動画が、十二本になる。それに合わせたように、転移した際に持っていたスクールバックの中身も減っていき、ついにはペンケースの中身が空になってしまった。それに、携帯の充電も半年近く百パーセントを保っていたのに、ここ数日で充電量が半数以下に減っている。お陰でお気に入りに入れていた友人との写真だけではなく、幼馴染と誕生日を祝う動画も消えてしまった。
「お気に入り、だったのにな……」
止まっていたものが動き出し、そこにあったはずのものが無くなる。まるで、この世界に混ざり込んだ不要なものを取り除いているような。強い違和感と、心を蝕むような焦燥感。それらは繊細な彼女の心を覆い尽くし、背中がじっとりと汗ばんでいく。
「…アネッタ?」
その時、声を掛けたのはサッチであった。先ほどギャレーで食事をしている際に、なんだかぼんやりしていたような。部屋に訪れた理由は、そんな心配からであったが、灯りもつけず、真っ暗な部屋に突っ立っている彼女の異様さときたら。
初めはこれから灯りをつけるのかと思った。しかし、彼女は動かず、声を掛けても反応が無い。暗い部屋で、ぼんやりと淡い光を放つ携帯を見つめるその姿は、取り憑かれているようにも見えて、たまらず肩を掴むとアネッタは大きく肩を揺らして見つめた後、呼吸を思い出したように息を吐き出した。
「サッチ……、あ、ごめん、どうしたの?」
ごめんね、この部屋暗いよね。言いながら露骨に視線を外すアネッタ。サッチはそれを見て、また何かを隠していると早々に気付き、頬に手を添えてしっかりと目を合わせながら尋ねた。
「大丈夫か」
瞬き、和らぐ瞳。全てを頼ってくれたっていいのに、彼女はやっぱり何かを隠している。アネッタはそっと頬に添えられた手に自分の手を重ねると、頬を摺り寄せて柔らかな声で言った。
「ん、…ふふ……サッチってどうしてすぐに気付いてくれるの?」
不思議そうに、月明かりを受けた瞳がサッチを見つめる。しかし、それは答えを求めていたわけではなく、気づきに近い言葉だったのかもしれない。彼女は言い終えたあと、頬に寄せていた手を取って握り締めると「少しだけ、甲板を歩かない?」と呟いた。
冬島の海域に入って半日。ぐっと冷え込みが増したことで窓は白く凍り付き、船内には冬の寒さがじわじわと染み込んでいる。お陰で吐きだした息は白く、息をするたびにその冷たさが肺まで伝わるようで、乗組員たちも普段より厚着の服装で、体を温めるために度数の高い酒を手にしている。
ともすれば、とうぜん彼女もそれなりの恰好をしなければならないのだが、いちにち上の空だった彼女はようやくこの寒さに気付いたようだ。
「なん、え、なんで、寒……え…?!」
外に出て、一歩目にして寒さに驚いた顔をした彼女が、ぱたんと扉を締める。しかし扉を閉めたところで、寒さはさして変わらないし、先のとおり冬島の海域に入ったのは半日も前のことで今更すぎる気づきだ。これには熱があって気付けなかったのではと額を触らせてもらったが異常なし。どうやら今日は本当に気が抜けていたようだ。サッチはひとまず今いる場所が冬島の海域であり、これから更に冷えこむことを言ってもう一度頬を撫でる。
それから、首へとするすると降ろした手のひらは首を撫で、彼女の体温を測るようであったが、「ん」と一音零す彼女の声と、こそばゆそうに瞬く瞳を見て、ビクリと手が強張った。
「あー……っと、外行くんならちゃんと着込まないとな」
言いながら、サッチが手を引っ込める。その瞳は僅かに揺らいでおり、アネッタは不思議そうにそれを見上げたが、彼は早口で「そうだそうだ」と今更思い出したような口ぶりで、脇に挟んでいたものを広げると、小さな肩にかけながら言った。
「ほら、これはおれっちからのプレゼント」
それは、これからの航海を見越して用意された厚手のコートであった。寒さを遮るためにデザインされたそれは、内側には柔らかなファーが詰められ、襟元と袖口には上質な毛皮があしらわれている。外側はチャコールグレーと渋みのある色合いと質感が特徴で、とくに、重厚な生地は風を通さない。どんなに厳しい寒さにも耐えられるように作られたそれは、航海の厳しさを少しでも和らげてくれる心強い存在で、アネッタがそれに袖を通すと、サッチは前を閉じてやりながら言葉を続けた。
「そういえば冬島用のコート買ってなかったと思ってな、おれも港を発つ前に慌てて買ったもんだから好みじゃなかったら申し訳ないけどよ、まぁ無いよりかはマシだろ?」
最後のボタンを閉じて、「うん、可愛い」と笑うサッチ。彼はどうしてそんなにも簡単に可愛いと言えてしまうのだろう。アネッタは途端にお腹がこそばゆくなり、顔の熱さを視線を逸らすことで誤魔化しながらも「ありがとう」といって彼の手を取ると、サッチはまた嬉しそうに頬を綻ばせて頭を撫でた。
しかしまぁ、彼が彼女のことを気遣うように、この船には気遣い上手が多い。そのため部屋を出ると他の乗組員たちも「上着だけじゃだめだ」と言って、マフラーに耳あて、それに手袋に帽子とそれぞれ新品だったり、おさがりのものを与えていく。そうして甲板にたどり着いた頃にはもっこもこになっていたが、おかげで寒さは感じないし、これもまた愛情だと思えば嫌な思いは一つもない。
アネッタは甲板に出た先で、しんしんと降り注ぎ始めた雪を見て船べりに積もった雪をかき集めて雪玉を作ると、白く凍り付いた息を吐き出して笑みを零した。
「ふふ、この船のみんなって本当にいい人ばっかりだよね」
お陰で寂しさが和らいでるな。雪玉を作る瞳がほんの少しだけ陰りを見せる。彼女はそれを見せていないつもりなのだろうが、彼女を保護してからずっと隣で見守り続けてきた彼には、機微が分かってしまう。だからこそ、この現状が彼にとってはもどかしくて仕方が無いのだが、彼女が明け透けに語らないことを選択したのであれば、それを強要することは出来ない。
サッチは彼女を真似るように隣で大きな雪玉を作って、船べりに置くと静かに尋ねた。
「寂しいか」
その言葉に、一瞬大きく揺れる瞳。雪玉を作っていた手は止まり、それをサッチがもらい受けると自分が作った雪玉の上に置いて雪だるまを作るが、それを見て多少は気が紛れたのだろう。彼女は少しの間を置くと、呟いた。
「寂しいよ、すごく寂しい」
「……そうか」
「……」
「……っなぁ、おれじゃ」
「私ね、元の世界に好きな子がいたの」
遮るように、アネッタが呟く。
それが、先の言葉を察してなのかは分からない。けれどもアネッタは雪だるまに視線を落としたまま、船べりに手を置くと白い息を吐き出した。
「……私ね、小さい頃にお父さんとお母さんが事故で死んじゃったんだ。それで、誰も引き取ってくれないからって養護施設…孤児院に入って、その日から一緒にいてくれた男の子がいて」
「……」
「……私よりも誕生日が二日も遅いくせに、私のこと出来の悪い妹みたいに扱うし、それこそ過保護で、いっつも用事についてくるし。同い年だから学校も同じだから結局、二十四時間一緒って感じだったんだけど。……でも、不思議と嫌じゃなかったな」
「……、……」
「……彼が笑っていれば私も嬉しかったし、頭を撫でてくれたら、凄く幸せだった。だから、多分わたしは彼のことが好きだったんだと思う。」
でも、気持ちに気付いたってどうにもならないこともあるよね。そういって微笑む顔があんまりにも寂しいものだから、うまく言葉が出てこない。当然、言いかけた言葉をもう一度言うような真似は出来ず、彼女の頭を撫で、「きっと戻れるさ」と言ってみたけれど、慰めの言葉にもなっていないのか、それともなにか別に思惑があるのか。アネッタは「大丈夫だよ」と言うだけで、もう一度雪玉を作って今度はエイとぶつけると、楽しそうに笑ってみせた。
隊長、サッチ隊長。起きてください、甲板前に集合らしいですよ。
少しだけ雪遊びをして解散したが、彼女の大丈夫だと言う言葉が気になって一睡もできなかった。これから寝ようにも、すっかり頭は冴えて眠れず、それでも無理に瞼を瞑っているとドアが叩かれて妨げられる始末。これがアネッタのモーニングコールだったら、多少なりとも気が紛れたのだろうか。しかし、オヤジからの呼び出しだと言われては文句も言えないし、出ざるを得ない。
そうして手早く髪をセットしたあと、コートの袖に腕を通して甲板に向かうと、甲板の中央には幹部たちだけではなく、多くの乗組員たちが集まっていた。勢ぞろいの様子を見るに、乗組員全員が出ているようにも見える。ともすれば事前予告も無い招集令には違和感を覚えるが、どうやら隣に立つマルコも同じような状況下にいるらしい。
「何か聞いてるか?」
「いいや何も聞いてねぇよい」
不思議そうに頭を掻くマルコ。ただ、二人の隣に立つ仲間たちは急な招集にも関わらず、やけに整った身なりで静観している。それこそ、自分たちを抜きに何か打ち合わせでもしていたのではと思うほどの落ち着きっぷりだ。その強い違和感に、思わず隣に立つイゾウに尋ねたが、イゾウは「後でわかるさ」と言うわけで語らず。他の面々も、何か知ったような顔で頷いていた。
「おう、全員集まってるな」
そこに、この白ひげ海賊団の船長を務めるエドワード・ニューゲートが現れて、意識が引き締まる。一堂に集まった家族を見る瞳は穏やかなもので、続いた「え、なんでみんないるの?!」と驚く声はやけに大きく響く。ニューゲートは白い歯を見せて笑うと指先で頬を擦り、「そいつがお前の、これまでの評価だ」と笑いを落としたが、しかし分からない。発言の意図も。それから、何故オヤジに続いてアネッタが出てきたのかも。
それに、なぜ彼女は普段のディアンドルを着ずに、パンツスタイルの服装を着ているのか。髪だって普段とは違い、ポニーテールにしている。あれでは、勇ましい海賊のようではないか。
考えるにも寝起きの頭では到底頭が回らない。理解出来ずにいると、ニューゲートは腰を落ち着けて、穏やかに呟いた。
「グラララ……幹部だけを呼ぶつもりが、一体どこから話が漏れたのか……まさか全員が集まるとは思いもしなかった」
くすくすと起きる笑い。
やはり、サッチとマルコを除いて、話が通っていたようだ。
「今日はお前たちに大事な話がある」
お前たちの知ってのとおり、アネッタのことだ。穏やかな波を象徴する声が、アネッタを示す。アネッタもそれに頷いて一歩前に出るが、流石に千人以上を前にした発言は緊張をしてしまうのだろう。アネッタは見るからに緊張した顔をしていたし、なんというか動きがぎこちない。
手と足なんか一緒に出て、ラクヨウに至っては「見ちゃいられねぇ!」と言い目を覆う。なんだか初めてのお使いでも見ているようで、手を貸そうにも隣に立つイゾウが腕を掴んでそれを許さない。あくまで、お前は見ていろと言っているようだ。
「あの……、……その、……」
千を超える目が、一つを見ている。元の世界でも狭い教室の壇上に立つ経験はあっても、この規模を前にして話す事なんてなかった。手は微かに震え、心臓の鼓動が耳元で響く。ああ、頭の中が真っ白になりそうだ。向けられた視線が重圧となり、足元がふらつくような感覚に何とか落ち着こうと深呼吸を試みるが、胸の中にある不安は収まらない。
アネッタは視線を彷徨わせながら、逃げ出したい衝動に駆られたが、この場を求めたのは他でもない自分だ。その責任感は、逃げることを許さなかった。
「……、ええと」
その瞬間、サッチの力強い声が響き渡った。
「アネッタ!お前の好きなタイミングで良い!焦らなくていいからよ!」
仲間たちは、あーあー結局手を貸してしまったと息を落としたが、意見は同じだ。幹部も他の船員たちも、一緒になってエールを送ると、それはそれで困惑したような表情を浮かべていたが、それでも沈黙であるよりかはずっといい。
アネッタはその場で腕を開いて大きく深呼吸をして、真っ直ぐに視線を向けて言った。
「今日は集まってくれてありがとう!幹部だけでいいっていったのに、全員集まってくれたからびっくりしちゃった。それと、集まってくれたのに、マルコとサッチには内緒にしてくれてありがとうね」
その言葉に目を丸くするサッチとマルコ。まさかこの船の中で何も知らなかったのが自分たちだけだったとは思いもしなかったようだ。彼らは一杯食わされたなと頭を掻くと、アネッタはそれを見て悪戯に笑い、それからようやく落ち着いた様子で語り始めた。
「私ね、この世界にきてずっと元の世界に戻りたかった。いくら皆が優しくて良い人でも、私はこの世界の人間じゃないし、元の世界に大切な人たちもいたから」
「でもね、もう、戻れなくなっちゃった。……携帯にあった写真も、動画も、元の世界から持ってきた筈の私物も、もう殆ど消えちゃったの」
少しずつ、少しずつ震え出す声。しかし、アネッタは語ることを止めずに言葉を続ける。
「異変に気付いたのは、私が目覚めたあと。大事な私物であったり、写真や動画がなくなって、なんとなくその時にもう戻れないんだろうなと思って、……それで親父さんに相談したの」
「グララララ……」
「ふふ、……親父さんは優しいから、私がどうしようと泣いた時にも、お前は家族だから何も心配することはないって言ってくれたけど、……でも、私はただ甘えるだけじゃ駄目な気がして、けじめをつけるためにこの場を設けさせてもらいました」
まさか、こんなに人が集まるとは思わなかったけどね、とアネッタ。それに対して少しの笑いが起きた後、アネッタはちらりとニューゲートを見て、それからサッチやマルコを、それから全員を見つめた。
「ねぇマルコ。最初に私のことを拾って、ううん、見つけてくれてありがとう。初めは怖い事だらけだったけど、お陰でもうこんなに元気になれた。きっと、マルコが見つけてくれなかったら、すぐに死んでしまっていたと思う」
「……よい」
「エースくんも。私と一番年が近いからかな、なんかお兄ちゃんみたいで凄く心の支えになった、ありがとう。……このまま、私も妹にしてくれると嬉しいな」
「…馬鹿、もうお前はおれの妹だよ」
「あはは、ありがと。イゾウとフォッサも、いつも無理に聞きだしたりせず、支えてくれてありがとう。ふたりが見守ってくれた時、凄く心強かった」
「ラクヨウも!いっつも怒ってばっかりだったけど、でもその分すごく私のことを見てくれてたって知ってるよ」
それから、それから。彼女は幹部や乗組員たちに向けてこれまでの生活で抱いた感謝や喜びを述べる。しかし、そこに一番仲良くしていたであろうサッチに対する言葉はなく、サッチが自分は無しかと頭を掻いたところで、彼女の金色の瞳がサッチを射抜き、そしてにこりと笑った。
「そしておれにはないのかって顔をしてるサッチ!」
「え?!」
「あはは、顔に書いてあるよ」
きゃらきゃらと笑うアネッタ。
全く、うちの末っ子ときたら。それが微笑ましくて敵わないが、アネッタはひとしきり笑い終えたあと、ひときわ柔らかい笑みを向けて言った。
「サッチ、いつもたくさん気にかけてくれてありがとう。サッチの美味しいごはんのお陰で健康的になれたし、みんなが集まるギャレーでご飯を食べることから、他の皆とも仲良くなれたんだよ」
「……」
「……私ね、サッチが笑うと太陽みたいであったかいなって思うの。眩しくて、あったかくて。それを見てると辛いときも乗り越えられたんだ。だから、きちんと船員になったあとも、いっぱい優しくしてくれると嬉しい」
「……アネッタ…」
彼女と出会って、いまだ一年も立っていない筈なのに、なんだか成長を見届けたような気がしてならない。
胸が熱くなって、目の前が霞む。けれど、これは自分だけではないようで、気付けば周りからも鼻を啜るような音が響いていた。
「私ね、もうみんなのお荷物になるのは嫌なの。そして、この世界で生きると決めたのなら、きちんとけじめをつけたい。だから今日この日を持って、今までの私とはお別れ。私は白ひげ海賊団の一員として生きるよ」
言って、アネッタが取り出した小刀をポニーテールの根本へと向ける。次の瞬間、ぎらりと白銀に光るそれは美しい小麦色の髪を切り裂いて、彼女は髪の毛の束を手に、普段よりも少しばかり悪戯な顔でニューゲートを見上げた。
「……オヤジ、これが私のけじめだよ。見て、くれた?」
「グララララ……アホンダラァ、当然だ。お前はこれからこの白ひげ海賊団の一員だ、それを此処におれが宣言しようじゃあねぇか」
その瞬間、駆け出した仲間たちがアネッタを囲む。つい一カ月前には一度生死を彷徨っていた女だ。その彼女が元の世界と決別をするには相当な苦労があった筈で、船員たちも涙を交えて良かったなぁと声をかけ、それを割り込む形で駆け寄ったサッチはぐいと腕を引っ張ると腕の中に閉じ込めるように抱きしめたが、「もう、離してやらねぇ」と零す言葉には喜びが籠っていた。
手にしていた小麦色の髪の毛たちが、ビュウッと風に乗って飛んでいく。その瞬間、何か胸の中にあったものが無くなったような気がしたけれど、もう怖くない。アネッタはもう一度サッチを見上げて、今度は周りにいる仲間たちを見ると「うん、もう大丈夫。……みんな大好き!」と声を弾ませて笑みを浮かべた。
完結
本編に続き、IFの最後まで作品を見てくださり、ありがとうございました。