帽子を被ったひょろりと長い男が歩いているのを見た私は、そろそろと後ろを歩く。
細身だからか大きいというよりもひょろりと長いその男は、身長の低い私に気付く事は無く、暫くその男の後ろを歩いた後、「カークッ。」と言って、彼を引き留めるようぷらんと下がった手を掴む。すると、男は驚いたのか肩をびくりと飛び跳ねさせるので、やった、驚かし大成功だ。と思った私は「んふふ、カク、驚いた?」と言いながら、驚いているその顔を見てやろうと軽く手を引いて、彼の顔を覗き込んだ―――のだが、見上げた彼はカクではなかった。
鋭いイーグルアイのような三白眼に、吊り上がった眉毛、そしてすらりとした鼻。
どうして彼をカクだと思ったのだろう。目の前の彼は、そう思うぐらい全くの別人で、驚いた私は咄嗟に手を外すと「あー…っとごめんなさい、人違いでした」と素直に謝罪をして頭を下げる。ああ、カクやルッチから問題行動は起こすなと言われているのに、物凄く怒ってたらどうしよう。しかし、頭を下げたままだというのに、謝ったというのに、目の前の男からは何も返って来ず、恐る恐る顔を上げた私は、此方を見下ろす男を見上げる。
「………」
男は何も喋る事なく、此方を見下ろしたままだ。しかも口をへの字にしているから怒っているのか、それとも特に何も思っていないのか読み取れず、私と彼は、意味もなく無言対決となっていたように思う。ただ、男の目をしっかりと見た瞬間、まるでカチリとスイッチが入ったように頭を突き刺すような痛みが私を襲った。
痛い。頭が割れるような痛みとは違うぐさりとナイフで刺したような突き刺すような痛みに、人前だと言うのにも関わらず思い切り表情を歪めた私は「あ”、ぅ……っ」と呻く。あまりの痛みに、目の前がぐわんと歪む。体制を崩した私は、咄嗟に近くにある壁に向けて手を伸ばしたが、壁は想像以上に、先にあったらしい。伸ばした手は空を掴み、それにより大きく体制を崩した体は前のめりになるが、その先でぼすんと何かが私の体を受け止めて、包み込む。
「……え、…あ……カク……?」
そう、私の体を受け止めてくれたのは、目の前にいるカクだった。
カクは私を見下ろすと、鋭いイーグルアイを僅かに和らげながら言葉なく頷いて、大きな手のひらが私を気遣うよう頬を撫でる。
そうだ、私はこの手を知っている。
今までこの手に引かれて生きてきたのに、なぜ忘れていたのだろう。
妙に頭がふわふわしていて、意識はどうにもクリアにならないけれど、それでも労わるよう撫でる手のひらも、私の体を受け止めてくれた彼の体もなんだか心地よくて、ようやく体制を整えることのできた私は「ごめんね、カク。受け止めてくれてありがとう」といってイーグルアイを見上げてにこりと笑った。
しかし、カクは喋らない。
カクは普段からこんなに無口だったっけ。そう思いながらも、彼はやっぱり喋ることなく、私を見下ろしたままでジイと見つめるので「どうしたの」と首を傾げてみると、頬を撫でていた手を下ろして、私の顎をくいと上げる。それが一体何を意味するかも分からずに、私を見つめる彼を真似るよう、私もまた彼を見つめると、カクは身を寄せる。
――あ、彼の短いまつ毛が近づいてくる。
そのとき、不意に背後から「アネッタ!!」と、凛とした声が私の名を呼んで、強く意識が握られる。私の視線はカクから、声の方へと向けられる。
視線の先には、カクと同じように白い帽子を被った青年が立っていた。
青年は四角くて長い鼻の先を此方に向けては、眉間に皺を寄せながら「なんじゃお前は、アネッタから離れんか!」とカクに向けて声を荒げる。
何故あの青年は怒っているのだろう。何故私の名前を知っているのだろう。
訳が分からなくて、妙にそれが不気味で、不安から目の前にいるカクの服をぎゅと握って「ねえ、カク、早く仕事に戻ろうよ」そう呟くと、言葉を拾ったらしい青年が僅かに目を見開いた。
「何を言っとるんじゃ…」
そう呟く青年は、どこか呆然としている。
「……?」
「…アネッタ、なんの冗談じゃ」
「…??、なんで私の名前…知ってるの?」
「な……ッ」
どうしてこの青年は私に執着するのだろう。
私は彼のことなんて一つも知らないのに、彼はまるで古くから私のことを知っているような口ぶりで、ずかずかと此方へと近付いてきた青年は私の腕を掴んできつく睨みつけた。
「質の悪い冗談じゃのう、流石に趣味が悪すぎるんじゃないか」
「え、あ、一体何を言って……」
そうして、帽子を被った長鼻の青年と目が合った瞬間、また頭を突き刺すような痛みが走る。今度は先ほどよりも鋭い痛みで、私は痛みのあまりに、「あ、あ”!」と声を上げると瞼をぎゅうっと閉じた。
「アネッタ!……っアネ!…アネ!!」
アネッタが痛みに呻いたあと、まるでカチリとスイッチが切れたかのように意識を手放して倒れてしまった。寸前のところで抱き留めたので、アネッタが地面や壁に頭をぶつけることはなかったが、それでも意識は中々戻ることなく、段々と体温が下がっていく感覚にどうしようもない不安が、紙面に落としたインクのようにじわりじわりと滲んで広がってゆく。
「……ん……っ」
何度も名前を呼び掛けた末にアネッタが目を覚ます。
流石に安堵の息が零れ落ちて、握った手に力が籠ったが、アネッタは金色の瞳を何度か瞬かせて不思議そうに此方を見つめるので、「……わしが、分かるか?」と問いかけてみたものの、その問いかけは、少しばかり情けない声色だったかもしれない。
「……ん……ふふ、カクでしょ……、分かるよ。」
そう言って、目元をとろりと和らげるアネッタは下ろしていた手を持ち上げて、わしの頬をぺたぺたと触ったが、ぺたぺたと触るうちにアネッタの縦長の瞳孔はさらにきゅうっと細くなり、どこか驚いたように目を見開きながら「あれ、カクだよね?」と確認するように問いかける。
「………分かるんじゃなかったのか。」
「…ん、う、…いや、分かるんだけど…ぉ……」
気まずそうに言葉を詰まらせる。
恐らくは先ほどの男のことでも思い出しているのだろう。案の定、身を起こしたアネッタは「あの、お兄さんは」と問いかけたが、なんせ一度倒れた身だ。急に身を起こしたことで頭痛を起こしたようで「い、っつう……」と表情を歪ませた。
「こら、無理に起きんでいい。それとあの男は…倒れたお前をキャッチしとる間に見失ったわい。」
いや、見失ったというよりも、消えたという表現の方が正しいかもしれない。
なんせあの男は、足音なく、姿を忽然と消したのだから。
殺しのプロと言われるわしが姿を見失った。それが意味するのは相手がただの一般人ではないということで、であれば何故アネッタに近づいたのかというところも気になるが、それはまた追々。
いまはそれよりも「そっか……」と言いながら表情を曇らせる彼女が気になって仕方が無い。
表情を曇らせる意図は何なのだろうか。もう〇〇は目が覚めたというのに、心の中はまだ不安のインクが滲み、広がり続けている。
「…………アイツは、知り合いか」
「いーや、残念ながら全く知らない人。今考えれば、…ううん、初めてあの人の顔を見た時も、カクじゃないって分かってたのに、」
「…のに?」
「………何故か分からないんだけど、すごく頭が痛くなったあと、あのお兄さんがカクだって思っちゃったんだよね………正直いまも、あのお兄さんがカクじゃないとは言い切れない自分もいる。」
アネッタは比較的、いや、どちらかというと素直な人間だ。その素直さといったらCPとしてはあるまじきなレベルなのだが、その素直な性質の女が表情を曇らせて呟くのだから、きっと”そう”なのだろう。
「もー、わけわかんない。なんか、こう、無理やり記憶を改ざんされたみたいだよ。」
そういってアネッタはがしがしと頭をかき乱すように動かすと、「グアンハオでこっそりパンを残しておいて、ハットリに餌をあげにいったのはカクだよね」「一緒にホットミルクを飲んだのもカクだよね」「あれ、じゃあ誕生日の日にシュシュをくれたのはお兄さん…?んん、カクだよね…?」と自分の中にある記憶を確かめるように記憶を並べては、不安そうな色を見せる。
確かにそれらの記憶は全てわしとアネッタのものだった。なのに、当時グアンハオにすらいなかった筈の男の存在が出てくるのだから、彼女の言うとおり記憶部分を弄られて改ざんされたのやもしれない。ああ、なんて厄介な能力なのだ。
記憶を言葉にして並べるアネッタも何が正しくて、何が正しくないかが分からないことが不安なようで、わしの袖口をぎゅっと握ると「ごめん、…間違えて本当にごめん」と零したが、悪いのはあの男であって彼女ではない。
それはアネッタだって分かっている筈なのに、「情けないなぁ……20年近く一緒にいたカクのこと間違えちゃうなんて」と良心の呵責に苛まれるので、彼女の頭を抱き寄せたわしは「お前が無事ならいいんじゃ」そう声を掛けたものの、一瞬でも20年近い記憶を書き換えられた恐怖は、わしの心にわだかまりを残したのだった。