セントポプラを出航して、それから彼女が小さな竜になって暫くが経った。船上生活というのは退屈なもので、当番業務も終えたいま、特にやる事も無いと椅子に腰を下ろしたわしは、港町で購入した本を開く。
それを見て、テーブルに置いた果物籠から顔を出した小さな竜は、「あ、なんか楽しそう」と零す。お気に入りのハンドタオルを咥えて飛び上がるあたり、彼女──アネッタもまた暇だったのかもしれない。ぱたぱたと翼を打ち鳴らして太腿の上に降りると、そのままお尻をぺたんとつけて座る。それから腹に背を預けた彼女は、咥えたハンドタオルを落したかと思うとぺふぺふとお腹を摩るように叩いて、準備万端って顔でわしを見上げた。
「なんじゃ、お前も読むのか?」
「ひまだからね!」
「まぁ、暇じゃろうが」
とか言いながら、こうなることを予期して、彼女が読める本を用意した自分も大概かもしれない。
彼女を見て、もう一度視線を本に戻す。表紙を開き、タイトルが書かれたページ捲ると、そこには色鮮やかに砂の国・アラバスタ王国が描かれていた。恐らく水彩画で描かれたそれは繊細でいて、まるで風に吹かれるかのような柔らかなタッチで、それを見つめる彼女の瞳はぱちぱちと小さな星が爆ぜるように輝いている。
「砂、の国、ア、ラバスタ王国、は、水、の、問題、が、」
開いた本を見て、彼女は文字を読む。しかし、音読というにはあまりにもたどたどしく、途中で言葉に詰まった彼女は前のめりになって文字を睨むが、睨んだところで言葉が出る事は無い。アネッタは困ったような顔で此方を見上げた。
「ねぇカク。これ…って何て読むんだっけ」
「……深刻、じゃな」
彼女が竜になって日が経つにつれ、彼女の中からはかつての文字や習慣が薄れていった。人間であった頃の日常が徐々に記憶の彼方へと消え去り、代わりに竜としての生活に適応していく様子が見受けられた。音読に詰まるのもその症状の一つだ。開いた本は子供でも読める絵本なのに、今まで読めていた筈の文字が読めなくなった彼女は困ったような表情を向ける。
要するにアネッタの知能低下は明らかで、それにすら気付けない彼女を見ていると、無性に虚しさと不安を感じて仕方がない。
本来の大きさとは異なるが、彼女は常々言っていた竜の姿に戻れた。なんとも喜ばしい限りだ。しかし、人間であったことを忘れていく彼女のことを思うと素直に喜ぶことも出来ず、小動物のように喉を鳴らし、身を摺り寄せる彼女を見て漠然とした恐怖がじわりと滲む。
「……アネッタ」
「うん?」
彼女の体を持ち上げる。握りつぶせそうなほど小さい竜は無防備に腹を見せた状態で、マシュマロのように柔らかな腹へと唇を押し付けると、下を向いた尻尾がピンと伸びる。緊張的な意味合いか、こそばゆいせいなのか。どちらか分からないが彼女は金色の瞳を細めながらクルルル…と喉を鳴らす。
「ふ、ひ……っ」
ああ、いや。色気のない声を聴くに、後者だったか。
まぁ、いまは幼子を相手にしているようなものだ。別にこのちいさな竜相手に欲情しているわけではないが、こうも話が通じないともどかしく、そのまま柔らかな腹や尻尾の裏、それから彼女の鼻先に目頭とキスを繰り返すと彼女はこそばゆそうに身を捩らせる。指の隙間から伸びる尻尾や翼は彼女の機嫌を語るようにぱたぱたと揺れて、ピンと伸びた筈の尻尾は指に巻きついたが止めて欲しいという意志表示には見えない。
わしはけらけらと笑う彼女に向けて「……好きじゃぞ」と囁く。すると彼女は大きな瞳をゆっくりと瞬かせて言葉を飲み込むと、小さな星をぱちぱちと爆ぜさせるように目を輝かせて「私もー!」と元気いっぱいに笑って、ぎゅうと鼻先に抱き着いた。
どんな姿であれ、彼女は彼女だ。
ただ、そう言い聞かせるように続けた言葉は、虚しさを煽るようであった。