八月七日、晴れ。この日は、雲一つない青空が広がっていて、兎に角蒸し暑い一日であった。
きょう、八月七日はカクの誕生日だ。であれば、この記念すべき日にデートしない手はない。そう意気込んで誕生日デートに出掛けたものの、朝のニュースで見た通り、外はとんでもない暑さであった。だから一日中遊ぶつもりが、帰宅したのは数時間後のことで、予定を大幅に削って家に戻った私たちは、つけっぱなしの冷房によって、キンキンに冷やされた室内で「あぁ~…」と声を落とした。
「涼し~い……やっぱり外に出るもんじゃないねぇ」
「出かけるなら日が落ちた後にするべきじゃったなぁ……」
「本当だねぇ……よし、バナナジュース作ってあげるから手を洗っておいで」
「おお!気が利くのう!」
「そりゃもう、今日はカクのお誕生日ですから」
言いながら、靴を脱いで端の方に揃える。隣を見れば、靴も揃えずに行こうとしていたので、彼の固いお尻をぺちんと叩いて、きちんと揃えて欲しいことを伝えると、彼は「一々細かいやつじゃの」とか何とか言っていたが、足の踏み場もないほど玄関が散らかるのは御免だ。というか、毎回みんなの靴が散らばった時に片づけているのは誰だと思っているんだ。
ひとまず彼にはバナナジュースをちらつかせてやってもらうとして、一足先にリビングへと入ると、リビングは廊下以上に冷えていた。
少々エアコンが効きすぎている気もするので、室温を二度ほど上げて、それから買ってきたものも含めて鞄をダイニングテーブルの隅に置いてキッチンへと向かうと、今日の皿洗い担当はきちんとやってくれたらしい。出かける前には残っていたお皿たちが綺麗に洗われた上に収納されていた。
「やっぱりブルーノが担当な日は安定してるなぁ……」
流石はブルーノだ。忘れただ何だと言って、結局自分が家事をやることが多いこともあり、妙に感動をしながら手を洗って、以前ブルーノに貰ったミキサーを取り出してコンセントを刺す。中には、食べる時期を逃して皮が真っ黒になったバナナをいれて、それから冷蔵庫から取り出した牛乳と、氷を入れる。
バナナジュースってなんてお手軽なんだろう。このミキサーを使うときのレギュラーになったバナナジュース。ある程度なめらかになるまで撹拌させる間は少々煩いが、それでも三分もかからず出来るバナナジュースはいつだって美味しいのだ。
出来上がったバナナジュースは、二つのグラスに注いで、ダイニングテーブルへと持っていく。丁度その頃にはカクが戻って、コルクコースターを並べてくれていたのでそこに置いてやると、「ありがとう」とお礼が飛んできた。
「いいえ、どういたしまして」
「うまいんじゃよなぁ、バナナジュース」
「これさぁ、やっぱり高級バナナでやったら美味しいのかな」
「高級バナナを使うのであれば、牛乳も高級なものにしたいのう」
「高級ミルク………一体いくらくらいなんだろう…」
「いちごとは違って十万…もするイメージはないのう」
「高級バナナも一房十万もするイメージないかも」
「今度探してみるか……いや、今日か?」
「あはは、じゃあまた日が落ちたら外に出てみようか」
そうして喉へと流し込んだそれは、いつも通り美味しい。口の中から冷えていく感覚とまったりとした柔らかい甘味。先ほどまではお風呂上りのように体が火照っていたのに、冷房とバナナジュースのお陰で随分と熱が落ち着いたように思う。
「はぁ……美味しい……」
「ん、いつも通り美味いのう」
「んふふ、アネッタちゃん特製のバナナジュースだからね。……あ、そうだ、さっきプレゼントした帽子被ってよ」
「うん?」
「タグ、切ってもらってたでしょ?」
「あぁ、まぁ……構わんが家の中じゃぞ?」
「大丈夫大丈夫、万年帽子被ってるカクが室内で被ったところで驚かないから」
「失礼な女じゃのー…」
こくこくと一口、二口と飲んだあと、カクはグラスを置くとテーブルの端に避けられた紙袋を引き寄せて、中から真っ黒な帽子を取り出して被って見せる。これは先ほどのデートの中で、一緒にあーだこーだと言って吟味して買った帽子だ。
帽子のツバ部分には丸いきらきらのシールが貼られており、それを取ると価値が下がっていることも理解した上で「それ、取ってあげようか」と意地悪を言うと、彼は「だめじゃだめじゃ、これが無いといかんのじゃぞ」と全力で嫌がってみせた。それが妙に面白くて、改めて帽子を被った彼を見つめてみたが、きらきらのシールをつけた帽子を被るカクは、いつもと少しだけ印象が異なって見える。
「ふふ、なんだかいつもよりもチャラく見えるねぇ」
普段は無地の帽子が多いカク。だからこそ、より新鮮に思えて仕方がないし、そんなカクが恰好よく思えて仕方がない。ああ、これは単なる惚気かもしれないが、兎に角いつもとは異なる彼が物珍しくて、そっと向かいに座る彼に向けて手を伸ばすと、それを拒むようにカクの大きな手が私の手を掴み、私は目を瞬かせた。
「それよりも」
そう続いた言葉は、先ほどのふざけた様子からは考えられないほど静かで、彼は捕らえた手のひらを己の口元へと寄せると、そのまま揃えた指に唇を押し付けた。
「それよりも、誕生日プレゼントはこれだけか?」
彼女からの誕生日プレゼントが、これだけではないことは分かっていた。
それに気付いたのは数日前のこと。仕事からの帰り道、彼女へのプレゼントを買いに立ち寄った街で、宝飾店に入るカリファとアネッタの姿を見かけたのだ。二人は店内奥にあるショーケースを覗いており、その姿はさながら姉妹のようで微笑ましいが、普段アクセサリー類をつけない彼女や、誕生日を控えたこの時期を考えると、自分への誕生日プレゼントであろうかと期待してしまう。
しかし、問いかけを受けた彼女は真っ赤になっていた。それが悪戯に行った指へのキスのせいか、それとも図星だったからなのかは分からない。ただ、見開いた瞳は動揺で揺れており、途端に眉をハの字にした彼女は僅かに体を強張らせると「……ど、どうして……え…?」と理解が追い付いていないような、そんな言葉を溢した。
「……ん、いや、実は少し前に……宝飾店に入るお前とカリファの姿を見てのう」
「……!……!!」
「わしへのプレゼントかと思っておったんじゃが、いくら待ってもくれんから……此方から言ってしもうた」
「………っあ、……あ、……あの」
宝飾店に入る彼女を見かけた数日前に、彼女から「カクってアクセサリーはつけないの?」と聞かれたことがある。その時は「そもそも持ってないしのう」とだけしか答えなかったが、その際に触れられた耳や、手首の事を考えると、彼女からのプレゼントはピアスかブレスレットだと踏んでいる。
そして、これまで特に装飾品の類はつけてこなかったが、彼女が求めるのであればつけてみても良いかもしれない。そう思いはしたが、ピアスやブレスレットの類にしては彼女の顔が赤すぎる。それに握ったままの手は緊張を物語るように震えていて、そこでようやく妙な違和感を抱いた。だって、これではまるで。
しかし、それを思ったところでボールは彼女の手にあるわけで、「アネッタ」そう呟いた瞬間、彼女は意を決したように真っ赤な顔のままで手を握り返すと、「結婚、してください」と小さく、言葉を絞り出すようにして呟いた。
「………」
「……」
「……うん?!」
流石に声が出た。
だってそうだろう。此方としては、なにか誕生日プレゼントがもう一つあると思っただけで、それがプロポーズに繋がるとは思いもしなかった。いま思えば宝飾店に居たのはこれの為だと理解も出来たが、彼女はいつだって鈍感で、子どもで、前世でだって結婚願望が無かったほどなのに。
アネッタは隣の椅子に置いた鞄を引き寄せて、そこから四角い小さな箱を取り出す。小さな箱は、真っ白な色をしていた。そこに印字された文字はあの日見た宝飾店の名前で、此方に向けて差し出す手はやけにぶるぶると震えていた。
ああ、この中身は、きっと。
「……本当は、……本当はね。すぐに渡そうと思ったの。……でも、よくよく考えたらその、誕生日プレゼントにしては、少し……いや、かなりか。……重すぎるから、だから、その……」
彼女の言葉はしどろもどろで、金色の瞳が右に左にと泳ぎに泳ぐ。
震える手が開けた箱の中には、金色ながらも色身を抑えた、マットベースの指輪が一つ収まっていた。相変わらず彼女の手はぶるぶると震えていて、その震えがいまこの場で起きたことは夢ではないと語る。
「あは……手が震えちゃって情けないな……。……、……カクは凄いね、プロポーズって、こんなに緊張するんだ……。」
それは、恐らく前世のことだろう。確かに前世では二度ほどプロポーズをしたが、まさか彼女からプロポーズを受けるとは。あまりにも予想外の出来事に、ついて出た言葉は「ぷろ……ぽ……」と単語にすらなってない音で、彼女があんまりにも顔を赤くしているから、それが感染ったようにじわじわと、全身が熱くなっていくのが分かる。
「……、……ごめんね…突然だってことも、分かってるの」
少しの沈黙の末、アネッタが呟く。
「……お、おう…」
「……、……高校を卒業してから養護施設を出て、大学に入って、皆が居るシェアハウスに引っ越して。……それから、これからのことを考えた時に、その、色々と…思うことがありまして」
「……色々?」
「……私ね、夢があるの。……大きくて、広くて、自分だけの家が欲しい。私は養護施設で育ったから自分だけの家なんてなかったし、前世でも世界政府の保護対象だったから、自分名義の家なんてなかったでしょ?……だから、ずっと自分の家が欲しくて」
「……ああ、言っておったのう。最近は貯金も頑張っておったもんな」
「うん…といってもまだまだ貯まってないんだけどね。……でも、思ったの。家があっても、隣にカクがいないと、それはとっても寂しいことで……意味がないなぁって」
だから、ちゃんとカクが隣に居る確約が欲しい。そう語る彼女の言葉は穏やかである反面、どこか震えていて、「カクが昔、確実な関係性が欲しい…って言ってくれたでしょ?それの意味がよく分かった気がする」と呟いた言葉は、前世で一度プロポーズを断った事への謝罪も含まれているようにも思えた。
彼女はわしの手を掬い、引き寄せる。彼女の手には箱に収まっていた指輪があり、それを薬指に通すと「好きだよ、カク。今はまだ、お金の関係とか色々あるけど、……絶対に数年以内に落ち着かせるから、その時には結婚してほしい」と静かに囁いた。
ああ、胸が熱い。
この気持ちを何と称すればよいのだろう。途端に目頭が熱くなり、たまらなく胸が苦しくなったが、この気持ちだけは、いまこの瞬間は純粋な喜びから生まれたものだと、そう思いたい。
「……結婚は数年先か?」
返事の前に、わしは一つ問いかける。
「……あ、うん、プロポーズしといてなんだけど、まだ家を買うお金も貯まってないし……まだ、先かな」
「それじゃあ何年先になるか分からんじゃろ、………明日…いや、一カ月、……半年じゃ、半年後に結婚しよう」
「え?!あ、いや、でも、あの、私大学生だし……その、」
「学生結婚なんて今時珍しいものでもないじゃろう。それに、わしの目がないところで、お前がちやほやされておるのを我慢しとれと?」
彼女はああ見て真面目なところがある。だから、結婚するならば責任をもって支えられるようになってから……とでも考えてくれているのだろうが、彼女はいまだ学生で本業一本になるのは四年後になる。ともすれば、彼女の言ったプロポーズはある種の予約なのだと思うが、数年後に結婚するのであれば、いま結婚したって何も変わらないではないか。
それに、彼女とは違って進学する事なく、そのまま仕事の道へと進んだわしは、彼女を支えるだけの資金があるし、何より今までとは違って彼女を二十四時間見る事は出来ない。であれば虫除けというには頼りない”恋人”という肩書きよりも、強い虫除けを持たせたいと思うのはエゴではない筈。
押しの弱い彼女を見て、手を取って、指を絡める。細い指は未だ震えが止まっておらず、それでいて緊張のせいか僅かに汗ばんでいた。それが愛おしいのなんのって。そう思うこの気持ちを、彼女はきっと分からない。だからこそ、きちんと口に出さなければならない。
「もう、わしは待ちとうないぞ」
彼女の左薬指の付け根をなぞる。きっとこの指には、お揃いの指輪が似合うだろう。わしはしっかりとアネッタの瞳を見つめて囁くと、彼女は真っ赤な顔のまま「ひゃ、ひゃい……」と言葉を返した。