いつからか、カクは時折魘されるようになっていた。
その時は決まって眠りが深く、名前を呼んで、揺すっても目覚める事は殆ど無い。だから私は、表情を歪ませながら魘される彼を見守る事しか出来ないことが殆どで、一度魘されていたことを伝えたことはあるが、彼は苦々しい顔を浮かべたあとに「大丈夫じゃ」と私の頭を撫でるだけで、それ以上は何も言わなかった。
過去に瀕死の事態に陥り、半年間も眠り続けていたお陰で、この事象が一体いつから始まったのかも分からない。ただ、魘される中で私の名前を零すあたり、瀕死に陥った事が原因なように思えてならない。
「……ごめんねぇ、カク」
もう少し私が強ければ。
そもそも人間であれば、こんな事にはならなかったのだろうか。
いくら考えたとて、それは全てタラレバになってしまう。その間にもぐっしょりと寝汗を掻いたカクは呻き、念仏を唱えるように、それから縋るように「嫌じゃ」「いくな」「はよう起きろ」と言葉を溢し、彼の大きな手のひらは、手が真っ白になるほど強く拳を握りしめているようであった。
「カク、起きて。………カク」
一度起こしてやったほうが良いように思うが、揺すっても彼は目覚めない。それこそまるで悪夢にとり憑かれたようで、寝汗の量を見るに着替えも必要かもしれない。ひとまずは着替えの準備と水分補給をさせるためにお水でも入れてこようか。私はそう思い立ち上がると、寝室を出てキッチンへと向かうが、その瞬間、全身の毛が逆立つほどの嫌な気がして振り返る。
廊下で何かが蠢く。視界がぼやけて見えないが、黒く背の高いそれは壁のように立ちはだかって、ぬうと目の前に何かが伸びて喉を捕らえると、そのまま壁へと押し付けた。
「…っん、ぐ……ッ?!」
それがカクによるものだと気付いたのは数秒遅れての事。彼は肩で息をしながら、恐ろしい顔で、地の這うような声で問いかける。「どこへ行くつもりだ」と。
「わ、た…ッ私、は、ただ……カクに、水、を」
「………」
しかし、何かがおかしい。答えても喉を捕らえた手は力が籠ったままで、身長差も考えずに壁へと押し付けられた体はぷらんと浮いて、伸びた足は空を蹴る。
寝起きならば直ぐに気付いても良さそうだが、いまだ動きが変わらないのは悪夢に取り憑かれたままということか。彼のドングリ目は光を通さぬほど黒く塗りつぶされて、ぶつぶつと独り言ちる彼は見ていられない。
加えて、首に沈められた指は力が籠ったまま。この場で鉄塊をしたって良いが、そうして彼の手を傷つけるのも嫌だし、かといってこのまま寝ぼけ眼で首を折られては敵わない。彼が勝手に目覚めることを期待したいが、念仏のように落ちる言葉の量を見るにそれは期待できそうにないし、さてどうしたものか。
その時、走馬灯ではないと願いたいが、ぼんやりと私が目覚めた時のことを思い出した。彼は目を真っ赤にして言葉を震わせていたっけ。あの時はどうしてあんな表情をしたのだろうと、二十五年間生きてきて初めて見た顔に困惑したものだったが、ああ、そうか。彼は怖かったんだ。私がひっそりと息を引き取ることを。この世から姿を失くすことを。
それに、彼は強がりで、いくら仲間内でも不安は零さない。だから、きっと、彼は半年間も、ひとりで恐怖を抱き続けていたんだ。
こうしている合間も首に沈む指が骨をなぞる。強い圧迫感と痛みに呻き、ぶらんと降りた足を懸命に動かしても空を蹴るだけで抵抗にもなりやしない。何より、そろそろ苦しくなってきた。私は残り僅かな息を吐き出して「ごめんね」と零すと彼の頬を思い切り両手で挟み込むようにして叩いた。もちろん、思い切り、全力で。
「…っ?!」
ともすれば、いくら悪魔の中にいる彼も強制的に引きずり出されたのだろう。彼の手からは力が抜けて、私の体はどさりと落ちる。ただ、目の前の彼はそれこそ目を白黒とさせており、床でげほげほと咽る私の姿を見ると「アネッタ、どうして」と短く零していた。
「おはよ、……目覚めの気分はどう?」
まぁ、見るからによくはなさそうだ。
聡明なカクは首にくっきりと残った痣と大きさを見て、すぐに自分のものだと気付いたらしい。彼は膝を折り目線を合わせ、それから私の首をなぞると表情を歪め、「ああ、くそ……」と小さく後悔のような言葉を呟いていたが、私は「大丈夫だよ」と言ってやることしかできなかった。