晴天の霹靂

 難波を探して三千里と言うには短い距離だが、探し始めて暫くが経った。用件といえば先日頼まれた小説の貸し出しで、難波自身いつだって良いと言っていたが折角本を持った状態で近くを通ったのだ。出来れば今日渡してしまいたい。しかし、探そうにも今日に限って姿は見えず、以前拠点にしていたホームレス村に立ち寄ってみたものの、代わりに浮浪者でもない柄の悪い男に絡まれるだけで、難波を見つける事は出来なかった。

「よお姉ちゃん、こんなところで一体どうしたんだ」
「え?あぁ、いえ、別に」
「ここはホームレス村だ。どうみたって姉ちゃんがくるところじゃあねえだろう。……それとも、ここのオッサンたちに施しでもしてんのか?」

 下世話に笑う男による、品の無い問いかけ。確かに此処は浮浪者の集うホームレス村で間違いはない。しかし、女が居るだけでそれに結び付くだなんて随分と短絡的な思考をしているものだ。胸に向けられた欲情の眼差しは不快でしかなく、騒ぎに気付いた浮浪者の一人が不安そうにビニールシートを張った手作りの家から顔を覗かせたが、相手はどう見ても柄の悪い粗暴者だ。彼らは巻き込まれて此処から追い出されるような事になるわけにはいかないと遠巻きに見ているだけで、男が馴れ馴れしく腕を回してきても、助けに入る事は無い。

 せめて、通報ぐらいしてくれたっていいのに。

 そうは思いはしたが、警察を呼んで困るのは此処に住む浮浪者――もとい不法居住者たちであろう。なんせ警察沙汰にでもなれば、矢張り此処は危険であると浮浪者たちを追い出しかねない。しかし、理解は出来るが此処まで助けてくれないものなのか。確かに難波も此処にはあまり近づくなと言っていたが、まさかこんなことになるだなんて。

 目の前の男は相変わらず下世話に笑ったままで、「なぁ、おれにも施しをしてくれよ」と囁く。それのやけに熱を持った声は気色の悪いもので、友人である紗栄子直伝の肘鉄でもお見舞いしてやろうと思ったが、それをお見舞いする前に肩にあった腕が剥がれ、不満を零す声が外へと向いた。

「あぁ?」
「……おいおい、こんなところで女に絡むなよ。みっともねぇ」
「なんだおっさん……」

 男の視線には、背筋が伸びた初老が一人。初老の男はジャンパーの袖を肘まで捲った状態で、粗暴者の手首を掴んでいたようだが、ただ止めただけではないのだろう。「別に俺ァただの通りすがりだ、それよりさっさと離れるんだな」「……女の前で情けない姿は見せたくないだろ?」と続けながら太い指が手首を万力のように締めあげる。

 静かな声に続く、骨が軋むような痛み。ビクともしないほどの力。粗暴者はそれを前に相手が只者ではないと悟ったのであろう。彼の口端は引きつるように笑って、これ以上暴れる事もせずに「わ、悪かったよ」と零したが懸命な判断だ。初老の男はその言葉を聞いてパッと手を離すと、逃げるようにして去っていく男を見て、白い歯を見せて笑いながら手を振った。

「そうかそうか、素直に聞いてくれてありがとうよ!」

 その言葉の爽快さといったら。「案外素直だったなぁ」と笑う声は余裕と言った様子で、粗暴者の姿は見えなくなると、初老の瞳は女へと向いて静かに尋ねた。

「……大丈夫か、××ちゃん」
「足立さん……ありがとう、助けてくれて」
「いやぁ、いいんだ。本当におれはここをたまたま通りすがっただけの、…いわば通りすがりAだな」
「でも、助けてくれたのは本当でしょ?」
「そりゃあ……まぁな」

 僅かに濁る声色。恐らくは照れているのだろう。警察なんて一般人からすれば常日頃うから感謝されてそうなものだが、自ら面倒ごとに巻き込まれにいって退職されたことを考えると、交番に居るおまわりさんのようにはいかなかったようだ。まぁ、単純に彼が照れ屋さんの可能性もあるが、への字に唇を噤む姿を見ていると、微笑ましいやら、ちょっぴり可愛いやら。

 その証拠に××はふっと息を漏らすようにして笑い、「でしょう、だからありがとう」と改めて礼を言うと、彼は照れを誤魔化すように頭を掻いたあと、大げさに笑い飛ばした。

「……いやぁ、しかしおれがもうちょっと若けりゃ此処で震える××ちゃんを抱きしめて、もう怖くないぜって囁いたんだけどなぁ!」

 賑わいの無いホームレス村に響く、男の空笑い。この場に紗栄子や一番が居れば「年を考えろ」だの「セクハラじゃない?」と突っ込みそうなもので、恐らく足立本人もそれに落したかったのであろう。ちらちらと反応を待つ足立は、どこか気まずさでいっぱいな様子であった。

「……ふうん?」

 ××は嫌がる素振りを見せずに鼻を鳴らしたあと、双眼を細めてくすりと笑う。それから一歩、二歩、とあえてゆっくりと距離を詰め、お互いの肌が触れあうほどに距離を縮めて「今でも歓迎ですけど」と笑うと、足立はただただ驚いた様子で「な、え?!ど、え?おい、それ、どういう意味だ…?!」と言っていたが、どういう意味もこうも、そういう意味なのだ。
 彼女はひとり笑いを落として「ほら、抱きしめてくれるんじゃないんですか?」と見上げたが、足立さんはいまだ動揺を示したままで腕を彷徨わせた後「おっさんを揶揄うんじゃねぇよ…」と絞り出すように呟いて、視線を外した。