君に会いたくて

 運命の出会いだとか、運命の再会だとか。そういった運命って言葉があるのなら、きっと今日この日のことを言うのだと思う。

 大世界名画展の無料招待券を入手したのは偶然であった。商業複合施設にある本屋で買った小説二冊。金額はおよそ千四百円。「千円で一回分くじが引けますよ」と言われ、一緒についてきたアネッタに引かせてみると、どうやら運が良かったらしい。彼女が手にした三角に折られた紙は普通の見目をしていたが、店員に確認してもらうと店員は金色のベルを手に取って、カランカランと小気味よい音を響かせながら言った。

「おめでとうございます、B賞の大世界名画展の無料招待ペアチケットです!」

 いやはやしかし、高校生ふたりに美術館というのは渋いチョイスだ。元々骨董品などを好む前世の記憶持ちのカクは「おぉ、美術館か」と僅かに驚き、そしてそこに喜びを滲ませていたが、前世の記憶も無く年齢相応の女の子であるアネッタからすれば手放しに喜べないのだろう。彼女はカクの知る愛想笑いを店員に向けてそれを受け取ると、店を離れたあとにくるりと振り返り、「どうしよう……私モナリザぐらいしか知らないよー……」となんとも情けない事を言っては頭を抱えて「ハ…でも牛乳を注いでるお姉さんなら知ってるかも……」と百面相をしていた。

 ただ、まぁ、なんというかアネッタは単純であった。当然、モナリザしか知らぬような女だ。名画に興味があるわけではなかったが、美術館なんて学生でお小遣いの少ない二人が行けるような場所ではない。いいや、正確に言うならば、わざわざお小遣いを削ってまで訪れるような場所ではない。だからこそ彼女はあれだけ一人で頭を抱えていたのに、数時間もすれば「なんか面白そうだからやっぱり行こう!」と言っていたし、折角行くならと名画をテーマにした服装で行こうといった彼女は、気もそぞろになっていたのかもしれない。

「ふっふっふ……やっぱり名画風コーデで大正解……!」
「そーじゃのー」
「あ、適当だなぁ」

 といっても、お金のない二人にできる名画風コーディネートなんて限られている。アネッタはカンカン帽子に青い襟付きシャツを着ただけの【ゴッホの自画像】コーデ。それからカクはバンクシーの【愛は空中に】をテーマに、黒い帽子を後ろ向きに被って、首元を覆った黒い上着を着ただけのなんちゃってバンクシーコーデ。どちらもクオリティは高いとはいえず、正解は二人にしかわからないお遊び程度の出来ではあったが、デートを盛り上げるには良いお遊びになったことは確かだ。

 そうして、名画展を意識した服装で訪れた美術館は、広々とした空間が広がっていた。高い天井に、天窓から差し込む柔らかな陽の光。差し込んだ光によって美しく磨き上げられた大理石の床はきらきらと光り、その上をヒールで歩くと、カツンカツンと小気味よい音が響く。アネッタはスカートをふんわりと翻すようにくるりと回って両手でカクの手を掬う。

 にこにこと、にこにこと。楽しそうに、それこそわくわくが隠しきれないと手を握る彼女は「楽しいねぇ」なんてまだ何も見ちゃいないのに零す。それがなんだか妙に面白くて、カクはフッと息を漏らすようにして笑みを溢すと、繋いだ手に指を絡めて「そうじゃな」と頷いた。

 スペースの壁一面に飾られた絵画たちは、世界の名画と言うだけあって、どれも美術の教科書で見たような、見覚えのあるものばかりであった。ただ、美術の教科書で見るよりもずっと大きなキャンバスに描かれた作品たちは、それなりにインパクトがある。そもそもこういうサイズで描かれていたのかと零すアネッタの瞳は、美術品を目の前にしても輝きを失う事は無く、「あれはなに」「これはなに」と訊ね楽しむ様子に案外美術館というチョイスは良かったのかもしれないとカクは一つ一つ丁寧に説明をしながら、ぼんやりと思った。

「…これ………」

 ほどなくして、目を奪われたように彼女が足を止めたのは、光の画家と言われたクロード・モネの絵であった。

 作品名は【散歩、日傘を差す女】と【日傘の女(右向き)】、【日傘の女(左向き)】の三つ。それらは三部作のように横並びになって展示されている。
 題名にもある通り、三つの作品には白いドレスを着た女性が、日傘を持って立っていた。柔らかな光を描いたそれは、どれも美しいが、なんだか違和感がある。一枚目の【散歩、日傘を差す女】には顔がはっきりと描かれているのに、二枚目、三枚目と続くにつれて顔は朧気になり、三枚目に至っては、描かれている女性の体形が変わっているように見えるのだ。

 それがなんだか不思議で、足を止めたアネッタは、長い間見続けていたように思う。

「こちらのクロード・モネの絵は、左から【散歩、日傘を差す女】と、【日傘の女】の右向きと左向きの三枚がありますが、これらは全て彼の妻であるカミーユをイメージモデルにしていると言われています」

 その時、隣の方で違和感を解説する声が聞こえて、耳を傾ける。
 どうやら、集団旅行者を率いたガイドさんのようだ。

 そのガイドさん曰く――。

 一枚目の【散歩、日傘を差す女】はモネの妻であるカミーユと、息子のジャンを描いたものになります。この絵は他の二枚とは異なり、カミーユの顔がはっきりと描かれていることが分かるかと思います。
 恐らくこれは、モネにとって、目の前にある限りない幸せをキャンパスに収めたものではないでしょうか。柔らかく暖かな日差しを受ける中、先を歩く息子のジャンと、妻のカミーユが振り返ってモネを見ている。だからきっと、こんなに暖かな印象を受けるのかもしれません。
 しかし、この絵を描いてから四年後。妻のカミーユは病に倒れ、この世を去りました。
 その七年後に再び描いたのが、【日傘の女】の二枚と言われています。
 この二枚に関しては、実際にモデルをしていたのは後妻であるアリスの連れ子と言われていますが、顔が描かれていないこと。それと、腰元にある赤い花がカミーユと過ごした街、アルジャントゥイユの象徴・ひなげしだと言われていることから、あの日傘の女はカミーユをイメージモデルとして描いたものだと言われています。
 まぁ、顔がぼんやりとしている理由は、モネが患っていた緑内障が進行したことで描けなかったという説や、描きたくなかったという説など様々ありますが。…ただ、そのうちの一つとして、カミーユの死後、顔が思い出せなくなっていたのではないか、という悲しい説もある絵なんです――。

「………、………」

 最後まで話を聞いて、アネッタはなぜこの絵に惹かれたのかが、分かった気がした。

 そうだ。この絵を描いたモネは―――あの時の私なんだ。

 そう思った瞬間。無性に悲しくなって、どこからともなく生まれた感情が涙となって溢れだした。きっと、隣で付き添ってくれていたカクは、突然の出来事に驚いていたと思う。どんぐり目をいつも以上に見開くと、濡れることも厭わずに袖口で涙を拭いながらどうしたのかと尋ねるが、とにかく涙が止まらない。まるで間欠泉を掘り当てたように、あふれ出した涙を止めることが出来なかったのだ。

「っアネッタ、どうしたんじゃ急に……」
「ぅ……っ、……っく…っひ、ぅ」
「アネ……」

 突然泣き出した幼馴染の姿に、カクは困惑を示す。

 彼女が泣き虫なのは今に始まった事ではないが、どれもきっかけありきのものだ。今のようにきっかけもなく突然泣き出した事は無く、それが不思議でたまらない反面、どうすればいいかもわからない。

 アネッタは肩を震わせて、子供のように泣きじゃくる。えーんえーんなんて、泣きはしないが、それでも美術館で泣き出せば周りの注目を集めるもので、隣でガイドによる説明を受けていた旅行者たちがアネッタに気付くと、あらあらと言いながら取り出したハンドタオルを差し出した。

「良かったら、これ、使ってちょうだい」
「え?あ、あぁ、しかし返すことができんのですが……」
「いいのよぉ、こういう時はお互い様だもの」

 そういって旅行者はにこにこと笑う。見る限り、年齢は七十代ぐらいだろうか。周りの旅行者たちも次々とアネッタの様子に気が付くと、あらまぁどうしたの?飴いる?チョコもあるわよ。煎餅もあるぞ。やあねぇそれはお爺さんの好きなものじゃない。なんて言いながらお菓子を降らせるようにして渡す。それがあんまりにも多い量だから、一体どこから出て来るのだと突っ込みたくもなったが、先ほどまで泣きじゃくっていたアネッタが「…っふふ、……ふ、」と肩を震わせ、涙しながら笑うから、突っ込みも忘れて今度はハンドタオルでその涙を拭った。

「じゃあね、落ち着くまで一緒にいてあげてね」と旅行者が去って十分程度。迷惑にならないよう一旦ロビーに出たアネッタとカクは、端にあるソファに座っていた。

 あのおばあさんにハンドタオルを貸してもらって良かった。ハンドタオルは涙を含んで湿っており、赤い目でスンと鼻を鳴らす彼女はそれで目元を覆ったが、いまだに視界が涙で歪んで仕方がない。

 あの子たちどうしたのかな。別れ話かしら、それとも喧嘩かしら。なんて周りから送られる視線を受けるカクに申し訳なくて「ごめんね」と零して、ようやく顔を見ると、カクは存外心配そうな顔で、アネッタを見ていた。

「……落ち着いたか」

 問いかける声色は、いつだって穏やかで、優しい。

「……、うん……」
「……一体どうしたんじゃ、そんなにあの絵がよかったか?」

 カクは知っている。彼女はたかだか絵の一枚であそこまで号泣するようなタイプではないと。そりゃあ泣ける犬猫系の動画を見れば涙する時だってあるが、絵一枚で泣けるほど感受性豊かではないはずだ。

「………よか、ったの、かな………っず、…わかんない…」
「違うのか?」
「……、……隣、で、ガイドさんが説明してたの、聞いた?」
「あぁ、このハンドタオルを貸してくれたおばあさんたちに帯同していたガイドじゃろ?」
「うん…ガイドさん、が、説明……ひっく、…してくれた、でしょ?……どうしてあの絵の、女の人が描かれていないかって、……そ、れをきいたら、わ、っ、……っわたしも、そうだったな、って」
「え?」
「…っ…ひ、…っカクが、………ひっく、……ッカクが先に死んじゃって、……ずっと、ずっと一人で……っ二千年も一人、で、ひ……っひ…っ……顔が思い出せなく、な、って……」
「……!」

 そこでようやくカクは気付いた。彼女は前世の記憶を取り戻したのだと。

 先の言葉から察するに、モネの絵が思い出すきっかけとなったのだろう。彼女が竜人族であった頃の二千年分の感情を一度に取り戻したことで、彼女の頭は混乱に陥った。だからこうして、あふれ出した感情が涙として出ているのだろう。あくまで推測の域ではあるが、これならば合点がいくような気がして、慰めがてらに頬を撫でると、あの時と変わらない金色の瞳が真っ直ぐとカクを見た。

「………っ、あ、…いたか、った」

 小さく振り絞るように出した言葉。二千年の時を経た言葉にしては、随分と短くて、情けないものだったかもしれない。それでも、あの日、あの時、彼が居なくなってからずっと思い続けて、何度もひとり零してきた言葉だ。そう思うと、なんだかたまらなく泣きたくなって、アネッタはもう一度、はっきりとした言葉で「会いたかった、ずっと」と零すと、目の前にあるカクの瞳が大きく揺れて、此処が公衆の面前であるにも関わらず、頬から後頭部に滑った掌が頭を抱いて、そのまま体を強く抱きしめた。

 幾多の転生を経て見つけ出した彼女は、前世の記憶を持たなかった。彼女は、彼女である筈だ。だが記憶を持たない以上、自分の全てを晒す事の出来ない焦燥感と戸惑い。そして、現世の彼女を見ているようで、いまの彼女ではない前世だけを見ているのではないかという罪悪感。手放しで彼女の事を好きだと言うには、あまりにも複雑怪奇な事情に、時折虚しさすら覚えてきた。

 そんな彼女が、すべての記憶を取り戻して自分を見ている。

 ずっと、ずっと会いたかった、あの時の彼女が。

「っわしもじゃ、…わしも、お前に……アネッタにずっと会いたかった……。……思い出してくれて、ありがとう」
「………っう、ん……」

 カクの声は震えていた。それに彼女に向ける顔だって、今にも泣きだしそうな顔をしていて、感情があふれ出した二人はお互いの存在を確かめるように強く抱きしめ続けた。

「それ、買うのか」

 お土産売り場の一角で、モネの絵がプリントされたポストカードを取るアネッタを見て、カクが問いかける。彼女の瞳は赤いままで、彼からすれば、自分と重なるこの絵を購入することで、また悲しい感情を呼び起こしてしまうのではないかと心配なのだろう。

「……うん、……この記憶がどこまで持続できるか分からないけど、これを見たら思い出せると思うから。」
「……そうか」
「…、……あのね、二千年の間、色々なことがあったんだ。だから、その、……長くなると思うけど、聞いてくれる?」
「……ああ、勿論じゃ」

 静かに紡いだ言葉に、カクが穏やかに笑う。
 それが何よりも嬉しくて、アネッタはまた目の前が歪むほどに涙腺が緩んだが、今度は「泣き虫じゃのう」と笑うカクが、アネッタの鼻をきゅっと摘まんだ。

 竜人族はもういない。
 この日本という国にも、どこの世界にも。

 だからたくさん話をしよう。あの日のこと。あの後のことを。
 今までとは少しだけ異なる二人の日々が、ゆっくりと始まる。

「………、………」
 最後まで話を聞いて、アネッタはなぜこの絵に惹かれたのかが、分かった気がした。
 そうだ。この絵を描いたモネは―――あの時の私なんだ。
 そう思った瞬間。無性に悲しくなって、どこからともなく生まれた感情が涙となって溢れだした。きっと、隣で付き添ってくれていたカクは、突然の出来事に驚いていたと思う。どんぐり目をいつも以上に見開くと、濡れることも厭わずに袖口で涙を拭いながらどうしたのかと尋ねるが、とにかく涙が止まらない。まるで間欠泉を掘り当てたように、あふれ出した涙を止めることが出来なかったのだ。
「っアネッタ、どうしたんじゃ急に……」
「ぅ……っ、……っく…っひ、ぅ」
「アネ……」
 突然泣き出した幼馴染の姿に、カクは困惑を示す。
 彼女が泣き虫なのは今に始まった事ではないが、どれもきっかけありきのものだ。今のようにきっかけもなく突然泣き出した事は無く、それが不思議でたまらない反面、どうすればいいかもわからない。
 アネッタは肩を震わせて、子供のように泣きじゃくる。えーんえーんなんて、泣きはしないが、それでも美術館で泣き出せば周りの注目を集めるもので、隣でガイドによる説明を受けていた旅行者たちがアネッタに気付くと、あらあらと言いながら取り出したハンドタオルを差し出した。
「良かったら、これ、使ってちょうだい」
「え?あ、あぁ、しかし返すことができんのですが……」
「いいのよぉ、こういう時はお互い様だもの」
 そういって旅行者はにこにこと笑う。見る限り、年齢は七十代ぐらいだろうか。周りの旅行者たちも次々とアネッタの様子に気が付くと、あらまぁどうしたの?飴いる?チョコもあるわよ。煎餅もあるぞ。やあねぇそれはお爺さんの好きなものじゃない。なんて言いながらお菓子を降らせるようにして渡す。それがあんまりにも多い量だから、一体どこから出て来るのだと突っ込みたくもなったが、先ほどまで泣きじゃくっていたアネッタが「…っふふ、……ふ、」と肩を震わせ、涙しながら笑うから、突っ込みも忘れて今度はハンドタオルでその涙を拭った。

「じゃあね、落ち着くまで一緒にいてあげてね」と旅行者が去って十分程度。迷惑にならないよう一旦ロビーに出たアネッタとカクは、端にあるソファに座っていた。
 あのおばあさんにハンドタオルを貸してもらって良かった。ハンドタオルは涙を含んで湿っており、赤い目でスンと鼻を鳴らす彼女はそれで目元を覆ったが、いまだに視界が涙で歪んで仕方がない。
 あの子たちどうしたのかな。別れ話かしら、それとも喧嘩かしら。なんて周りから送られる視線を受けるカクに申し訳なくて「ごめんね」と零して、ようやく顔を見ると、カクは存外心配そうな顔で、アネッタを見ていた。
「……落ち着いたか」
 問いかける声色は、いつだって穏やかで、優しい。
「……、うん……」
「……一体どうしたんじゃ、そんなにあの絵がよかったか?」
 カクは知っている。彼女はたかだか絵の一枚であそこまで号泣するようなタイプではないと。そりゃあ泣ける犬猫系の動画を見れば涙する時だってあるが、絵一枚で泣けるほど感受性豊かではないはずだ。
「………よか、ったの、かな………っず、…わかんない…」
「違うのか?」
「……、……隣、で、ガイドさんが説明してたの、聞いた?」
「あぁ、このハンドタオルを貸してくれたおばあさんたちに帯同していたガイドじゃろ?」
「うん…ガイドさん、が、説明……ひっく、…してくれた、でしょ?……どうしてあの絵の、女の人が描かれていないかって、……そ、れをきいたら、わ、っ、……っわたしも、そうだったな、って」
「え?」
「…っ…ひ、…っカクが、………ひっく、……ッカクが先に死んじゃって、……ずっと、ずっと一人で……っ二千年も一人、で、ひ……っひ…っ……顔が思い出せなく、な、って……」
「……!」
 そこでようやくカクは気付いた。彼女は前世の記憶を取り戻したのだと。
 先の言葉から察するに、モネの絵が思い出すきっかけとなったのだろう。彼女が竜人族であった頃の二千年分の感情を一度に取り戻したことで、彼女の頭は混乱に陥った。だからこうして、あふれ出した感情が涙として出ているのだろう。あくまで推測の域ではあるが、これならば合点がいくような気がして、慰めがてらに頬を撫でると、あの時と変わらない金色の瞳が真っ直ぐとカクを見た。
「………っ、あ、…いたか、った」
 小さく振り絞るように出した言葉。二千年の時を経た言葉にしては、随分と短くて、情けないものだったかもしれない。それでも、あの日、あの時、彼が居なくなってからずっと思い続けて、何度もひとり零してきた言葉だ。そう思うと、なんだかたまらなく泣きたくなって、アネッタはもう一度、はっきりとした言葉で「会いたかった、ずっと」と零すと、目の前にあるカクの瞳が大きく揺れて、此処が公衆の面前であるにも関わらず、頬から後頭部に滑った掌が頭を抱いて、そのまま体を強く抱きしめた。
 幾多の転生を経て見つけ出した彼女は、前世の記憶を持たなかった。彼女は、彼女である筈だ。だが記憶を持たない以上、自分の全てを晒す事の出来ない焦燥感と戸惑い。そして、現世の彼女を見ているようで、いまの彼女ではない前世だけを見ているのではないかという罪悪感。手放しで彼女の事を好きだと言うには、あまりにも複雑怪奇な事情に、時折虚しさすら覚えてきた。
 そんな彼女が、すべての記憶を取り戻して自分を見ている。
 ずっと、ずっと会いたかった、あの時の彼女が。
「っわしもじゃ、…わしも、お前に……アネッタにずっと会いたかった……。……思い出してくれて、ありがとう」
「………っう、ん……」
 カクの声は震えていた。それに彼女に向ける顔だって、今にも泣きだしそうな顔をしていて、感情があふれ出した二人はお互いの存在を確かめるように強く抱きしめ続けた。

「それ、買うのか」
 お土産売り場の一角で、モネの絵がプリントされたポストカードを取るアネッタを見て、カクが問いかける。彼女の瞳は赤いままで、彼からすれば、自分と重なるこの絵を購入することで、また悲しい感情を呼び起こしてしまうのではないかと心配なのだろう。
「……うん、……この記憶がどこまで持続できるか分からないけど、これを見たら思い出せると思うから。」
「……そうか」
「…、……あのね、二千年の間、色々なことがあったんだ。だから、その、……長くなると思うけど、聞いてくれる?」
「……ああ、勿論じゃ」
 静かに紡いだ言葉に、カクが穏やかに笑う。
 それが何よりも嬉しくて、アネッタはまた目の前が歪むほどに涙腺が緩んだが、今度は「泣き虫じゃのう」と笑うカクが、アネッタの鼻をきゅっと摘まんだ。

 竜人族はもういない。
 この日本という国にも、どこの世界にも。
 だからたくさん話をしよう。あの日のこと。あの後のことを。
 今までとは少しだけ異なる二人の日々が、ゆっくりと始まる。