彼はいつも何処かへと行ってしまう。時間にすると、約三時間。悪行を連ねる妖を取り締まり、妖未満の霊を祓う事が命である烏天狗が、屋敷を空ける事自体はそう珍しい事ではない。しかし、ここのところの彼と言えば報せが無い日もひとり出歩いて、何処かへと行っている。気になって、一体何をしているのかを聞いても茶を濁すばかりで答えは得られず。
妙な不安ばかりが募るのは、庭先の松に止まった烏が不気味に語るからに違いない。
「烏天狗はァ、姫と会う~」
「烏天狗はァ、姫と会う~」
縦に二つ、黒と白の頭を詰んだ烏は歌うように語る。
確か、あの鳥はヨゲンノトリと呼ばれる予言を喋る妖だと記憶している。一体何のつもりかカアカアと羽を揺らす仕草は此方を小馬鹿にしているようで腹が立ち、アネッタは唇を尖らせる。これが嘘八百であれば上手に受け流せたが、先のとおり彼は予言を喋る妖で、余程の事が無い限り外れる事は無い。
だから筋書き通りに出掛けると言って玄関へ立つカクを見ると、多少なりとも不安は膨らむわけで、袖をクイと引くと、彼はくすぐったそうに笑いながら頭を撫でた。
「わはは…どうしたんじゃ」
「……今日も外に行くの?」
「うん?あぁ、……大丈夫じゃ、すぐに帰ってくるから待っとれ」
「……私も行っちゃだめ?」
「ン、あー……ほら、お前には履物がまだ無いじゃろう」
「あ……」
曖昧な返答に、ぎこちない笑み。
確かに、この屋敷にはまだアネッタのものが殆どない。それこそ二人きりの屋敷にある玄関なんて彼の下駄と草履があるだけで、足袋も無い足は玄関土間に出たことで砂や埃を貼り付ける。カクはひょいと抱えて式台に座らせると、跪き、代替わりに膝に足を乗せて裏にある汚れを払った。
「……今日はそう時間はかからんはずじゃ、いい子で待っとってくれ」
そう言って、矢継ぎ早に立ちあがるカク。リンと鳴る錫杖の音と、カラカラカラと音を立てる玄関扉。開いた音は心地良いが、音を立てて閉まる音はいつだって寂しい。アネッタは暫くその場で手持ち無沙汰に足を揺らしていたが、煮え切らない対応や先ほどの予言が気掛かりだ。
アネッタは綺麗になったばかりの足を下ろして立ちあがると、少しだけ、少しだけ。そう繰り返して外へと飛び出した。
漆黒の翼を打ち鳴らす烏天狗は、此方の存在に気付かず、北の方へと進む。僅かに聞こえる錫杖の音は目印ならぬ音印で、アネッタは未舗装の砂利道を進むが、妖になって以降はじめての運動だ。てっきり妖効果で体力が増加するとか、目にも止まらぬ速さで走れるかと思ったのに、砂利道の先にある森を抜けた頃には衣類と呼吸が乱れ、足も縺れるようになっていた。
疲労が全身に広がり、息を吐き出すと、ようやく森を抜けたことに気づく。息を整えながら、パッと前を見ると、大きく構える門が目の前に現れた。その壮大さに圧倒され、アネッタはもう一度深く息を吐き出した。
「……町だ……」
それも、江戸の城下町のような。
彼女の先には賑やかな城下町が広がっていた。これまでの道とは異なり足元には砂利の少ない砂路が続いており、両脇には商店や民家が立ち並んでいる。商店の多くは食べ物を扱っており、店先には果物や野菜がザルの上に積まれ、香ばしい匂いで誘う屋台からは焼き立ての団子や魚の串焼きが並べられていた。その他にもこの町は全体が市場になっているのか反物や陶器、武具などさまざまな商品が並び、行商人が元気よく客引きをして随分と賑わっている。……が、流石は妖の国だ。横をすれちがう人々も、楽しそうに駆け回る子供の大半は妖の姿をしており、少し前を歩く女性は小気味良い下駄音を響かせながら、長い首の先にある頭をふよふよと揺らしながら歩いていた。
「……あ、か、カク……あれ、」
しかし、人を追いかけている最中に興味を他所に向けるべきではなかったのかもしれない。気付いた時には姿を見失い、錫杖の音すら聞こえなくなっていた。
「どうしよう……」
不安に駆られた小さな声。辺りを歩く人々も、下駄はおろか草履も履いていない彼女を訝し気に見ており、向けられる眼差しによって居心地が悪い。アネッタはたまらず俯きすべての視線から目を反らす。けれども、下を向いたところで見えるのは砂路と薄汚れの足だけで、これからどうしようと考える。戻って、何も無かったふりをしようか。それともカクの姿を探してちらりと見ていこうか。
正直、この妖の町を歩くのは怖い。けれども、一人でやって来た筈の帰り道を一人で帰るのも怖い。そのとき、行きはよいよい、帰りは怖いなんて歌を思い出したけれど、本当にその通りだと乾いた笑いが落ちてしまった。
「……、……探そう」
どうせ来てしまったのだ。帰り道が怖いのならば、怒られてでも彼と一緒に帰った方が安心であることは間違いない。アネッタは胸元を掴んで息を吐く。スウ、ハア、スウ、ハア。……うん、落ち着いた。相変わらず目の前の景色は信じがたいほど妖だらけで、今もぎょろりとした一つ目の――逆立ちをした一本足の赤い生物から顔を覗き込まれている。ぎょろぎょろと動く目は何かを探るようで、恐ろしさから視線を反らして歩き出したものの、落ち着いた筈の心臓が飛び出しそうなほどバクバクと大きく鳴り響く。
ああ、やっぱり落ち着いてなかったかも。
話しかけようにもぎょろぎょろと動く一つ目の圧は強く、そういえば、今よりも小さい頃に「あんまりほかの妖に声をかけるなよ。人間は恰好の餌食だ」とジャブラから釘を刺された事を思い出した。あの時はたしか、神社端の崖に立つ見慣れない者に声を掛けようとした時だったと思うが、妖となった今もその警告は続いているのだろうか。
兎にも角にもアネッタは歩き出す。足早に、いいや、全力で。しかし、後ろからは土を踏みにじるような音が後に続いて、音が重なったような二重に感じる重低音が響いた。
「人間だ」
「人間だ」
「人間だ」
「人間の匂いがする」
遠い筈なのに、近くで囁くように聞こえるのは一体何故なのだろう。周りに居る妖たちの反応たちから察するに追いかけられている事は間違いないが、それにしたって怖すぎる。アネッタは懸命に手足を動かして走り、逃げられるところはないかと辺りを見回したものの初めてやってきた町で、そう簡単に逃げ場などは見つからない。あるとすれば裏道だが、裏道を逃げるのはこの町をよく知る者が使える手であろう。――と、そうこう考えてよそ見をしたことが裏目に出てしまった。
気付けば目の前にある柵の無い川。当然今から足を止めても間に合わず、勢いのままに体が落ちて飛沫が上がったが……見た目以上に水深は浅かったらしい。全身が冷たい水に包まれ、思わず息を飲む。水底の砂が足元で舞い上がり、アネッタは砂に手をついて体を起こしながら体を起こすし乱れた着物の裾を持つと、ふと視線を上げた先にあるシルエットと、ひやりと肌を撫でるような声にギクリと肩を揺らした。
「おかしいのう…わしの見間違いか、留守番をしておる筈のアネッタが見えるが……」
それから暫く。何はともあれ再会を果たしたが、まさか追いかけてきたあの妖が、この町の守る辻番だとは思いもしなかった。人を顔で判断するなと言うけれど、こればっかりは妖も同じなのかもしれない。アネッタはちゃぷんと複雑な香りのする薬草湯に浸かり、底冷えした体をしっかりと温めた後、用意してもらった襦袢に袖を通して紐で止め、「着替えたか」と返事も待たずに脱衣所へと入ってきたカクを見た。
「あ……襦袢だけ着替えたところ」
「そうか、あとの着付けはわしがやってやろう」
着替えはこれを。差し出されたものは麻の葉紋様が描かれた薄水色の着物であった。帯は黄色地に白い縞模様が入っており、彼曰く麻の葉紋様は厄除けの紋様だと言うが、彼はなぜ替えとなる着物を持っているのだろう。それは素人目に見ても新物で、触れた生地は厚く、指先に細かな刺繍の凹凸が感じられる。アネッタは受け取りもせずに見ていると、彼は着物を広げながら静かに告げた。
「しかし……まさか家を抜け出すとはのう……。かすり傷で済んだから良かったものの、大怪我をしたらどうするんじゃ」
着付けをする傍らで語る彼の声には、いつになく棘がある。腕を通す際に肌が痛むのは、彼の言葉通りいたるところにかすり傷があるからなのだが、彼は結果論を語り咎めるばかりでこれまでに至った理由を聞いてはくれない。
申し訳なさと後悔、それから少しだけの、蟠る感情。アネッタは彼の言葉を遮るように「でも」と口を挟み、帯を留める彼を見ると、彼は存外余裕の無い顔で独り言ちるよう呟いた。
「……お前は」
「え?」
「……お前を失った未来もあったかもしれないと、……わしが見ていないところでひっそりと命を落とすようなことがあったかもしれないと、胸が痛くなるほど心配したとは考えてくれんのか?」
力ない言葉。眉間には皺が寄って険しい顔をしているのに、何故だか彼が泣いてしまうのではないかと思えて、そのとき初めて自分の過ちに気付いた。そうだ、自分のことばかり考えているのは私の方ではないか。彼だって、あのとき良い子通り留守番をしている筈だと思っていたはずの自分の姿を見て胸を痛めたと言うのに。
「着付け、終わったぞ」
リボンの形で留められた後ろ帯を叩かれて、アネッタは彼に向きなおり、手を伸ばす。もしかしたら払いのけられてしまうかもしれない。そう思ったけれど、向けられた手は払われることもなく頬が寄せられて、彼の長い睫毛が伏せた。
「……お前が無事でよかった」
「……ごめんなさい」
「わしに何も言わずに家を出る奴がおるか」
「……うん……」
手の平に伝わるひんやりと冷たい頬。それが妖であるからなのか、それとも心配ゆえなのかは分からない。けれども彼の語る声は酷く安堵をしているようで、頬を摺り寄せた後の彼は、存在を確かめるように手のひらへと口付けて、そっと腰を抱き寄せた。
「……それで?おてんば娘はどうして此処へ?」
額に寄せられた唇。こそばゆくて視線を落とすが彼は腰を抱いたまま近くにあった椅子へと腰を下ろす。「どっこいせ」なんて言いながら着物の姿のまま招かれたのは彼の足の上で、そんなに子供じゃないんだけどなと思ったが今日のことは彼にとって大いに傷となったようだ。
腹に回された腕にはがっちりと腕が回されて、頭の上には彼の顎が乗せられる。
「あ……えっと、……屋敷の庭に松の木があるでしょ?」
「ああ、あの縁側にある奴か」
「そう、そこにヨゲンノトリが留まって烏天狗と姫が会う~って…」
「ほう」
「……それで、そのぉ………き、気になって」
沈黙。
カクは長い沈黙の末に尋ねた。
「まさかとは思うが、浮気と勘違いしたんじゃなかろうな」
「エッ」
「……」
「……、……」
「お前~~~、わしがお前のためにやれ草履だ、やれ下駄だと選んでおったのに、浮気だと思っとったんか!」
薄情な奴じゃの~~、ワシャ悲しゅうて悲しゅうて仕方ないわい。わしはこんっなにも一途なのにの~。その着物だってわしがお前のために選んだものなんじゃぞ!先ほどの雰囲気を吹き飛ばすように、大げさに厭味ったらしく向けられた言葉。これにはアネッタも言葉を詰まらせることになったが、元を返せば彼だって原因の一つじゃないか。だって、「聞いても教えてくれなかったじゃない!」。
その言葉にカクはウウッと露骨に呻くと、負けじと吠えた。
「そりゃあ驚かしたいじゃろう!」
「自分都合じゃん!」
「そ、そ、そりゃあっ、け、けどわしは待っとれと……」
其処まで言ったあと、コンコンと戸を叩く音が遮る。
「カク、ちょっといいかしら」
戸の向こうから尋ねるのは恐らく女性だろう。アネッタは無意識にも腹に回された手を控えめに握ると、カクはそれを見て、彼女の手を包むように摩り、そのままの体勢で答えた。
「あぁ、ええぞ。もう着替えとる」
「……あら、随分と仲が良いのね」
少しの間を開けて入ってきたのは、絹のような金糸を持つ麗人であった。切れ長の瞳に、厚みのある唇。鮮やかな花紋着物に映えるその顔立ちは、誰もが足を止め、見惚れるような美しさを持っている。アネッタは彼女の登場に驚き、反射的に立ち上がろうとしたが、彼は腕に力を込めたままでそれを許さず、足袋を摺るようにして近付く女を見上げた。
「体は温まったかしら」
「あ、は、はい。ありがとうございます、あの、この着物もありがとうございました」
「?、その着物は私のものではないわよ」
「え?」
驚き瞬く瞳。カリファは間も空けず尋ねた。
「カク、自分で購入したものだと言っていないの?」
「……流石に分かっておると思ったんじゃ、鈍いのう」
お子ちゃまにはどうやら分からなかったらしい、とカク。その言い方があんまりにも小馬鹿にしているようだったので、アネッタも眉間に皺を寄せると、向かい立つ彼女が手を叩く事で雰囲気を払い、「夫婦喧嘩は犬も食わないわよ」と続けた。
「その調子じゃ、私のことも事前に紹介してなさそうね」
「おお、そうじゃった。そうじゃった。いいか、アネッタ。こいつが姫の正体じゃ。千鬼姫、…名はカリファと言う」
「へ……」
続く驚き。
アネッタが驚き呆然とする傍らで、カクとカリファは話をしている。
「姫の正体?」
「あぁ、いや、ヨゲンノトリに余計な事を言われてわしらの仲を疑っておったらしい」
「あら」
そうして始まる初めましての交流会。彼女・千鬼姫は一時的に貸し切ってもらった湯屋と、それからいくつかの商店を営んでいるようで、ヨゲンノトリが話していた事は浮気ではなく、単なる買い物だったらしい。「いい商売相手なの、彼」そう語る彼女の表情は柔らかくこっそりと耳打ちされた額はほんの一瞬、宇宙猫になるほどの衝撃であったが、これも甘やかされている証拠だと思うと少しだけ気が晴れるような気がした。
ただ、やけに千鬼姫・カリファはボディタッチが多かった。
するりと頬に触れる手のひらに、目元を撫でる指先。……やっぱり若い子はいいわね。そう話す彼女の眼差しは何か単純な褒め言葉だけには聞こえずに首を傾げると、カクは「わしのに手を出したら殺すぞ」と口をへの字に噤みながら伝え、抱きしめる腕に力を込めた。