なんだか呼ばれたような気がして、蔵へと駆ける。齢五才。幼い審神者には広すぎる本丸を駆けると、一振り二振りと刀剣男士が何処へ行くのかと声を掛ける。しかし、小さな審神者はいつだって全力だ。走り出したら走ることに精いっぱいだし、頭の中も蔵でいっぱいだ。だから彼らに返した言葉は「くら!」なんて非常に簡素なもので、返された言葉を受け止めた刀剣男士たちは揃って「蔵?」と復唱しながら首を傾げていた。
ただ、此処で誰一人として審神者を諫めなかったのは、審神者の後ろを悠然と歩くへし切長谷部の姿があったからだろう。なんせ彼は自他ともに認める主のお世話係だ。そんな彼がついているのだから目的地がいくら蔵であれど、まぁ、大丈夫であろう。
蔵戸を引いて中へと入る。蔵は当番制で日頃から手入れをしてはいるが、多少埃っぽく、それから独特の匂いが漂っていた。窓の無い蔵は薄暗い。陽の光を受ける入り口こそ明るいが、奥に進むにつれて薄暗くなった其処は、五歳児からすれば多少不気味に見えるのだろう。幼い審神者は「はせべ」と隣に立つ近侍をちらりと見上げると、そっと白手袋を纏う指を握った。
「……こわいから、いっしょについてきてくれる?」
「勿論、主命とあらば」
幼い審神者は、長谷部のこの言葉が好きだった。
この言葉があれば、どこへだって行けそうな、そんな気がするのだ。
審神者は最後にもう一度だけ指をぎゅっと握り、その場で深呼吸をして、蔵の中に足を踏み入れた。まず目に入ったのは、広がる土間の感触だった。蔵の端には古い木桶が置かれ、米ぬかや麦わらが敷かれている。蔵の中央には大きな柱があり、その周りにある棚には漆塗りの箱や木箱が並び、試しに一つ開いてみると其処にはへたくそな絵が描かれた紙がぎっしりと収まっていた。
「はせべ、へたくそな絵がある」
絵は兎に角へたくそであった。とりあえず丸いものに目と口がついているのはわかるが、一体何を描いているものか分からない。審神者は眉間に皺を寄せて長谷部に尋ねると、長谷部は「とんでもない!」と前置きした上で「此方は全て主が書いたもの。とてもお上手だったので此方に閉まっているのです」と答える。審神者はそれを耳にするや否や視線をそれに落す。それから暫く見つめた後「まちがえた、じょうずな絵があるだった」と照れくさそうに笑った。
まるで宝探しでもするように、蔵にある物を一つずつ開く審神者はあれは何、これは何と問いかける。
審神者は一体何がしたいのだろう。まだ付き合いの浅い長谷部は審神者の意図をはっきりと理解は出来ていなかったが、彼女はまだ幼い子供だ。恐らく、意味なんて無く、ただ遊び事の一つとしてやっているのだろうと思った。
「あ、これだ」
と明確な言葉を落とすまでは。
「はせべ、これはなに?」
彼女が指したものは、棚の一番下に置かれた蓋のない木箱だ。其処にはこの本丸の歴史分、折れた刀身が乱雑に詰められていた。
一度完全に折れた刀は戻らない。それは現代技術を持ってしても、修復不可能なのだ。だから、つまるところこの木箱は同胞の墓場に近い。いつか、いつの日か、新たな技術でこの刀身を再利用できる日を願って入れられた、墓場であり、期待を込めた場所。それを何故この幼い審神者がこれだと言ったかは分からない。それでも主の問いかけを無視するわけにもいかず「これは」と口を開いた長谷部は言葉を詰まらせた。
なんと言う。
何と言えばよい。
彼女は審神者といってもまだ何も知らない五才だ。そんな彼女に、これは墓場なのだと。折れた同胞なのだと言って良いものか。まるで喉に小骨が刺さったように息が詰まり、言葉がつっかえる。
「これは、その」
「うん」
「これはですね」
その時、「長谷部!陸奥守が負傷した、少し此方に来れるか!」と声が響いて、審神者の意識が逸れる。声から察するに、相手は薬研藤四郎だろう。会話の途中ではあったが、五才の審神者に変わってこの本丸を管理しているのは他でもない長谷部だ。長谷部は「主、少しお待ちを」と断りを入れると、入り口に立つ薬研に向けて尋ねた。
「陸奥守の容態は」
「あまり良くはないな。いま鍛刀場にいるんだが……」
薬研の言葉尻が濁る。
二人の会話を聞いて、幼い審神者が零す。「むっちゃん……?」と。
その瞬間、零したものを長谷部が拾い上げる前に、審神者は走り出す。先のとおり、審神者は常に全力だ。一度走り出した審神者は止まらない。両手を大きく振って、短い足で地面を蹴って駆ける。蔵に行った筈の審神者が戻ってくると先ほどの刀剣男士は今度は何だと首を捻っていたが、審神者にはいまそれに反応を返す余裕はない。頭の中はむっちゃんと、先ほどの折れた刀身たちでいっぱいなのだ。
だからきっと、鍛刀場にたどり着くまでにそうは掛からなかったと思う。鍛刀場の扉を両手で力いっぱい引いた審神者は、大きく肩で息をして、鍛刀場の端にある火床に寝かされた刀身を見ると顔を青くして、叫んだ。
「だめ!!!!」
火床とは鍛冶のための炉のことだ。つまりはそれだけ熱を扱う場所であり、火床の最高温度は千三百度から千四百度に上ると言われている。其処に血相を変えて、動揺した幼子が駆け寄ってきたのだ。当然辺り一帯は大混乱。なんせこの刀鍛場で鍛冶を担う妖精は身体が小さく喋れない。意思疎通も身振り手振りが主流だ。其処に妖精よりも大きな身体の幼子がやってくればろくに止められる筈もなく、妖精はせめてと伸びる手を避けるよう振り上げた鍛冶槌を避けたが、審神者の手はよりにもよって火床に寝かせた手に伸びた。
「主!!触ってはいけません!!!!」
あと少し、あとほんの数センチというところで、破裂するような音が審神者の体を引いた。
それは後を追ってきたへし切長谷部のものだ。長谷部は審神者の襟を掴み、引き剥がすようにして己の方へと引くと乱暴に抱き寄せる。審神者は短い手足をばたばたと動かして「はせべ!だめ!だめなの!かんかんしたらこわれちゃう!!」と暫くの間癇癪を起すように長谷部の言葉も聞かずに泣きわめいていたが、それも暫くすると収まって、審神者は長谷部の腕の中で顔を埋めて、小さな肩を震わせていた。
「……主、あれは陸奥守を壊しているわけではありません」
「でも、かんかんするとこわれちゃう……」
「あれは歪みを直す作業で、一度ああして叩く必要があるのです。我々にとって歪みとは人間で言う骨折のような、怪我ですから」
「……かんかんしてもこわれない?」
「えぇ、うちの刀工が優秀なのは主が一番知っているでしょう?」
「うん……」
「……確かに主が気にされているとおり、一度完全に折れたものは戻りません。折り紙を折ったときに、折った跡を消せないように完全に戻すことは出来ないのです」
刀の材料である炭素鋼の溶接は非常に難しい。仮に、折れた刀を元の形に戻すとしたら、金属を溶かして一度材料に戻し、はじめから鍛え直す必要があるのだ。ただ、これは一から刀を打つのと殆ど変わらず、仮にそれで仕上がったとしても金属組成が変わる影響で、前と同じ切れ味の刀に戻るとも言えない。だから、一度折れたものは二度と戻らないのだ。
「だからこそ、我々は主と居るこのひと時を誰よりも大切にしているのです」
ぽつりと呟いた言葉は、はたしてこの幼い審神者に届いただろうか。
審神者は相変わらず顔を埋めていた。しかし、長谷部の服を握る手に力が籠り「はせべも、みんなも、おれないでね」と小さな言葉が返ってくれば、長谷部はゆっくりと瞼を閉じ「主命とあらば」と穏やかに言葉を紡いだ。
夜の帳が降りた頃。審神者の入眠を見届けた長谷部が襖の開く音に、薄く目を開いて、「……もういいのか。」と尋ねる。審神者の眠る部屋はとうに灯りを消して、暗く、入ってきた者の姿が見えないのにも関わらず、一瞥もせずに問いかけたのは確かな信頼があったからなのか、それともこの長谷部が群を抜いて優秀であるからか。
「ああ、お陰様でのう。歪みもどうにか治ったぜよ。主は寝ちゅうのか?」
声の主、陸奥守吉行は機嫌良く笑い、自身が無事であることを示すように胸元を叩く。長谷部の視線は得られなかったが、眠る主の隣で背筋を伸ばして隙もなく正座をする長谷部の隣に腰を下ろすと、スウスウと規則正しく寝息を零す主を見て目元を緩めた。
「……あぁ。今しがたな」
「……いやぁ参った、まさか鍛刀場にやって手を出すとは思いもせざった」
「……主はお優しいから、お前が折られると思ったようだ」
「おん。こんまいのに、まっこと勇敢ぜよ。…本当、暫くは目が離せんぜ」
陸奥守吉行もまた、この幼い審神者大好きであった。
弱く、脆く、儚い小さな生き物が。
「ああ。無論、もう目を離す気はない。」
「お、主のお世話係に火が付いたか?にゃはは!」
「煩い。主が起きるから静かにしろ」
「おお、そうやった。そうやった」
「陸奥守、明日は主の起床に合わせて声を掛けてくれ」
「うん?えいのか?」
「いいも何も、主はそれを望んでいるからな」
「嬉しいこと言うてくれるのう。ははは、あいたが楽しみじゃ」
肩を揺らしてカラカラと機嫌よく調子で笑う陸奥守は、眠る審神者を見る。審神者は眠るまで泣いていたのだろうか、彼女の頬には涙の跡が残っていた。陸奥守は暫くそれを見つめた後、手のひらで頬を撫で「わしらが傍についちゅうき、安心してよう眠りや」と静かに呟いたが、お世話係から物凄い顔で睨まれたのは言うまでもない。