猫とハニートラップ

 左手の薬指に牙を立てる。ぎちぎちと牙を沈めるとカクが僅かに息を飲んだあと、「………わし相手に随分と珍しいことをするのう。」と責めるわけでもなく、ただ感想を述べるように言葉を落とす。
 その言葉を聞きながら、ただ、ゆっくりと肉に牙を沈め、牙を立てた其処に穴が開かない程度に力を込めた私は、痛みからか、僅かに表情を歪める様子にようやく満足感を得て口を離すと「………めちゃめちゃムカついてるからね。」そう酷く身勝手なことを言ったつもりだったが、その言葉を聞いたカクはどこか歪な笑みを浮かべるだけで、怒ることはなかった。

「……あら、怪我をされたの?」
「え?」
「ほら、その絆創膏」

 絆創膏を貼った左手の薬指を見て、毒々しいほどに真っ赤な紅を引いた女がどこか心配を滲ませて言葉を落としながら、ぶくぶくと太ったソーセージのような指で絆創膏をなぞる。指に栓をするように嵌った下品な指輪たちは、彼女が絆創膏をなぞるたびに煌めきを放って鬱陶しい事この上ないのだが、ターゲット相手に露骨な事をするわけにもいかず、そのまま指をなぞる気色の悪い手を取ってそのまま指を絡めては、肉厚な手の甲に口付けを落してにこりと笑ってみせた。

「……えぇ、まぁ、うちに躾のなってない猫がおるもんで。」
「あら、それは可哀そう。ご主人様に爪を立てるなんてよほど機嫌が悪かったのかしら。」
「……えぇ、だからわしは早く帰ってやりたいんですよ。」

 そう言って、慈悲もなく、躊躇もなく突き刺した人差し指は心臓を捕えたように思う。ただ、目の前の女は何が起こったのか分からなかったのだろう。目を見開いて胸に突き刺さる指を見た後、どうして、と唇が言葉を描くようにはくはくと動いたが、そこに音が乗る事はなく、心臓を貫いた女の体は早々に動かなくなった。

「……ああ、最悪な気分じゃのう。」

 ぼたぼたと、赤黒い不健康そうな血が垂れる指を女の着た質の良いガウンで拭い、いまだなぞられるような感触の残る絆創膏を剥がして、絆創膏が守っていた歯型に目を細めた。ああ、早くこの仕事を終わらせなければ。
 そうして最低限の報告などを終わらせた頃、扉を叩くような音が静寂を打ち破る。扉を開けば其処には小柄な従業員が立って「頼まれておりましたワインをお持ちしました」そう愛想よく笑みを携えて言葉を向けたが、それに被せる形で「もう報告まで終わらせたわい」と零すと、従業員にしては少しばかり目立つ、縦長の瞳孔を持つ瞳が愛想の色を消してわしを見つめると、「お疲れ様。」と少しばかり機嫌の悪い言葉を落とす。

「あぁ。…ブルーノはどうした?」
「カクなら大丈夫だろうってジャブラの方を対応してる。」

 目の前の彼女は不機嫌一色だった。まぁ、ハニートラップ任務に送り出す前にマーキングを残すほど嫌がっていた任務ではあったので、想定内といえば想定内なのだが、そんな態度の悪い彼女の姿にどうしようもなく癒される自分がいるのは、少しばかり想定外だったかもしれない。

 立ち話もなんだと彼女を中に連れ込むべく、手を伸ばす。しかし彼女はわしの手をすいと避けて「………シャワー浴びてきたら?」と言葉を紡いでじろりと此方を見つめた。匂いの残る身体に触れたくないということか。だが、残念ながら彼女の機嫌が悪いようにわしもまた虫の居所が悪く、そのまま彼女に向けて手を伸ばし首根っこをがっちりと掴むと、そのまま唇に噛みつくように唇を押し付けて胸を叩いて拒否を示す彼女の吐息を奪い取ってゆく。

「…ん、む………っ、………ぅ……ッ!」

 このまま廊下で見せつけるようなキスを続けても良いが、見られて困るというのが殺し屋稼業の辛いところで、彼女の抵抗が薄れてきた頃合いを見計らって唇を離して、そのまま彼女の手を引いて中へと連れ込んだわしは扉を閉めながら、「……少しは機嫌を直したらどうじゃ。」と多少怒りの色が弱まった彼女を見つめて呟いた。

「……別に機嫌悪くないもん。」
「……、……どれ、もう一度してやろうかのう。」
「け…っ結構です!」

 これだからハニートラップは嫌なんだ。そう思う反面、彼女からの心地よい嫉妬にどこか満足してしまう歪んだ己に乾いた笑いが落ちたが、目の前の彼女は「何笑ってんのよ」と機嫌悪くわしを睨むので、彼女の手を取って己の頬へと寄せながら「わしだってやりたくないことを頑張ったんじゃぞ。ご褒美をくれたって良いじゃろう」と可愛らしく甘えてみせると、彼女は口をへの字に噤んで言葉を詰まらせた。