三話:邪魔者はどっちだ?(🦒🥖)

 突然舞い降りた進学の話。スパンダムから渡されたパンフレットは二十にも上り、それぞれご丁寧に学部まで指定されているが、いまいちピンとこないのは、この状況が青天の霹靂だからだろうか。誰かに相談したいところだが、頼れる相手はみな受験を控えた三年生ばかりでどうにも気が引ける。かといってカクは昨日から不機嫌で、息苦しさからたまらず養護施設から飛び出して、ついでに散歩へと出たアネッタはWhite whaleと呼ばれる、隣町にあるパン屋でも頭を悩ませていた。

 そこは住宅街の一角にある小さなパン屋さんであった。従業員は恰幅の良い強面の男性たちで、初めてこのパン屋さんに入ったときにはその強面っぷりに驚いたものだが、そんな彼らが店内に並ぶかわいいこぐまパンであったり、チョコたっぷりカメさんパンを作ったのかと思うとホッコリとして仕方がない。

 ただ、施設育ちのアネッタにとって、パン一つ二百八十円とは、中々のお値段である。決して高すぎることはないが、安すぎることもない。だからいつもこのパン屋に訪れるのは割引が始まる十五時すぎなのだが、今日はひときわ繁盛していたようだ。店に残るパンの数は少なく、こうして眺めている合間も後から来た客が手にしたトレーに連れて買っていってしまう。

 手にあるお金は二百円。通常価格ならば厳しいが、割引価格ならば少し余裕のある手持ち金だ。アネッタはトレーとトングを手にパンへと向けて、トングを鳴らす。カチカチ。カチカチカチ。決してパンたちを警戒させたいわけじゃないけれど、どうしてカチカチ言わせたくなるんだろう。

 そんなことを思いながら、甘いものにするか、それとも総菜パンにしようかを考えて、残り数少ないパンの中から狙いを定めてトングを向けると、触れる寸前のところで視界にトングが飛び込んできて、横から奪われていってしまった。

「あ……」

 見ると、隣には随分と背の高い、髪の毛をリーゼントに固めた男の人が立っていた。目の横にある傷と、それから黒猫が覗いているような顎髭。特徴の多い男は視線に気付いたように目を瞬かせたが、恐らく悪い人ではないらしい。

「おっと、悪い。もしかして横から獲っちまったか?」

 そう零す声色には申し訳なさが滲んでいた。

「あ、う、い、いえ」

 しかしながら、言葉が思わずぎこちなくなるのは、身長で言うと、百九十センチを超えるカクよりも大きいせいだろうか。立派なリーゼントがより身長を大きく見せるが、なんとなく恰幅の良さに圧倒されて言葉を返すと、彼は「もう焼き立てが出るから、そっちにするといいぜ」と笑う。

 ただ、欲しいのはそちらではない。欲しいのは、半額のシールが貼られたホイップクリームたっぷりのホエールパンただ一つ。だが、厚意として進めてくれた相手に「いえ、欲しいのはシールが貼られたやつなので」と返せる勇気もないし、寧ろ厚意を前にしても割引品を狙う自分がひどく浅ましく思えて、「あの、えっと」と言葉を探したあと「だ、大丈夫です!」と言って店員さんに未使用のトングとトレーを謝って返却すると、店を飛び出した。

 ああ、こういう時お金のない自分がすごく嫌になる。あの時お金があれば、何も気にせずに私は新品を買って、トラブルに昇華せずにいられたのに。アネッタは暫く走った後、公園で足を止める。そこで誰もいないことを良いことにブランコに座り、地を蹴るようにしてブランコを揺らす。

 前に、後ろに、前に、後ろに。

「もう!気分転換にきたのにっ」
「ホエールパンも食べたかったっ」
「なんにも解決してないしっ」

 子供のような愚痴に、子どものような浅い悩み事。それでもアネッタにとっては大きな悩みで、なんだかもやもやして仕方がない。彼女は暫くひとりでブランコを漕ぎ続けていたが、かといってブランコを一往復することでそれが払拭されることもない。であれば、やはり。

「走って帰るかぁ……」

 どうせここまでも、ストレス発散がてらに走ってきたのだ。帰りに走るのも悪くはない。アネッタは思い切りブランコを漕いで、最高到達点で前へ飛ぶ。そうして、向かいにある柵を越えた先で綺麗に両足着地をすると、決まった…なんてドヤの気持ちで両手を上げるわけだが、近くで拍手が聞こえれば思わず瞬きが増える。あまりにも自分に都合の良いシチュエーションだ。思わず幻聴かと思いながら恐る恐る音の方向へと見てみると、そこには先ほどの男性が立っていた。

「ははっ、すげぇ運動神経いいな」

 そんなことを話す男性は、愛想の良い笑みを向ける。しかし、偶然にしては、妙な違和感がある。思わず不審者ではないかと警戒から両手を下ろしながら見て、ポケットに突っ込んだ携帯を取り出して耳元へと当てる。男はそれに気付いたように手を前に出してワタワタと慌て始め「あ、悪い、怪しい者じゃあなくって!」と零すが、怪しい者すぎる。

 アネッタは視線を外すことなくさり気無く距離を取ると、男は益々慌てた様子で「おれ!さっきの店…white whaleで働いてるんだよ!」と声高らかに主張した。

「……white whaleって、さっきのパン屋さんの……?」
「そ、そう!普段は別拠点にいるんだけど、たまたま店舗の様子を見に来てよ」
「……いや、でも、そういう詐欺かも…」
「全然信じてくれねえじゃん……」

 どうしたもんか。男は暫く視線を空中に彷徨わせたあと、思い出したようにポケットに手を突っ込んで、取り出した財布から紙を取り出して、差し出す。なんだか怪しいものではと思うと取る気にはならないが、「名刺だよ、名刺」と言われてみてみると、確かにそこにはwhite whaleと書かれた名刺があった。

 名前は、ええと。

「どうして、その従業員さん……ええと、サッチさんが此処に…?」

 受け取った名刺を見て、男を見上げる。従業員スカウトではなさそうだが、であればわざわざ声を掛けてくる理由が分からない。アネッタは不思議そうに尋ねると、サッチは少しばかり視線を外に向けながら頭をかいたあと、「うちの従業員に言われちまったよ、あの子は焼き立てが欲しいわけじゃないって」と零した。

「?」
「君、よくうちの店にきてくれてるんだってな。従業員が喜んでたよ、あの子はいつも熱心にパンを選んで、これだっていうものを買ってくれるんだって」
「ヒエ……」
「ヒエ?」
「あ、いえ、あの、ばっちり顔を覚えられていたんだなぁって」
「はは、まぁ、それだけ印象深かったんだろうよ。……ただ、それなのにあの場で焼き立てを持って行かなかったのは、まぁ、色々あるんだろうと思ってな」
「あー……」

 思わず、うまく返答が出ずに言葉が濁る。ポケットのなかにある二百円玉がいやに主張をするようで、アネッタは視線を外したけれど、サッチはそれを見てまた申し訳なさそうにすると「まぁ、それで、おれがそれを取っちまったんでお詫びにと思ってな」と場の雰囲気を変えるよう明るく言って、袋を差し出す。

 袋には可愛い白いクジラの絵が印刷されており、中には買えなかったパンが入っていた。しかし、袋を持ってみてもわかるが、これは焼き立てのように思う。アネッタはそれに気付いた後「でも、これ、」と零すと、彼は「まぁ、ほら、お近づきの印的な……あぁ、いや、いつもごひいきにありがとうっていう奴だよ」と笑った。

「……ありがとう、…ございます」
「いいえ、どういたしまして」
「……」
「……?」
「あ、あの…私、ここのパン凄く好きで、嬉しいことがあったときのご褒美だったり、あとは元気だしたいぞーって時に食べるんです。ただ、…でも、お小遣いが全然なくて、今日もその、割引しか買えなくて」
「……そっかそっか、じゃあ今日買えなかった分はまた今度買いに来てくれよ」
「割引しか買えなくても?」
「廃棄にするわけにはいかねえから割引にしてるだけで、焼き立てじゃねえパンもうまいよ、うちのはな」

 そう言って、茶目っ気たっぷりにウインクを向けるサッチ。アネッタもそれには驚いたように目を丸くしていたが、すぐにふにゃふにゃと力を抜いたように笑みを溢した。

「……へへ、ありがとうございます」
「……それで?」
「え?」
「今日は、良い事と悪い事、どっちだったんだ?」
「えぇ、と」

 突然の問いかけに、アネッタは戸惑い、言葉を濁して足元にある砂利を転がす。さて、彼に話しても良いものか。勿論全てを話す気はないけれど、彼はいま出会ったばかりの大人で、縁の薄い人だ。ただ、それでもチラリと見たサッチの眼差しはどこか穏やかで、暖かい。だからするりと「進学のことで、悩んでて」と悩みの種が零れ落ちたのは、ちょっとした甘え行動なのかもしれない。
 サッチはそれでも嫌な顔は一つも見せずに、「そうかぁ、進学問題ってのは結構大変だよなぁ」と太い腕を前で組みながら息を吐き「勉強が難しいとか?」と訊ねた。

「勉強は……勉強は難しいけど、それよりもどこにいこうかなぁって」
「あぁ、そういうこと。就職とかは?」
「最初はそのつもりだったんですけど、ええと、その、進学を考えなきゃいけなくなって」
「ほー……」
「ただ、今まで…あ、いま二年生なんですけど、今まで進学なんて考えてなかったから、……そもそも私ってどこの大学の、なんの学部に行けばいいんだろうって。というか学力とか大丈夫そ?!みたいな……」
「自分の立ち位置も、これからどうすればいいかわからない…ってことか」
「はい…」
「あぁー……でも志望校決めるのって冬までにすりゃいいんだろ?なら、まだ全然余裕じゃねえの?」
「そうなんですけど……頼みの綱というか、仲の良い友達は大学行くっていってから、その」

 言葉が濁る。それからアネッタが「少し、怒っちゃって」と言いづらそうに零したのは、五秒ほど開けたあとのことで、受け取った袋を握る手に力が籠る。しかし、それを受けたサッチは理解出来ないといったような顔で問い返した。

「えぇ?なんで」
「うーん……」

 彼女はもう一度考える。なぜあの時カクは難色を示したのだろうと。別に就職したって、離れ離れになるというわけではない。それどころか大学に行けば、拠点は変わらず最低三年間はゆっくりすることだって出来る筈だ。ゆえに、そこに怒りを見せるほどの理由は見つからずに視線を落としたあと、考えることで生まれた沈黙に気付く。アネッタはとにかく何か喋らなければと口を開くも、それを遮るようにして「アネッタ!」という切羽つまる声が響き、同時に体が強く引かれて手首に痛みが走った。

 そこには、考えるまでもなくカクがいた。カクは珍しくも余裕のない表情で、肩で息をしており、グイと手を引かれた体は彼の胸元へと寄せられるが、一体何があったというのか。

「海賊風情が」と落ちてきた嫌悪の言葉に、アネッタは目を丸くしてカクを見上げた。

「カク…?どうして此処に……」

 しかし、見上げたままの彼がアネッタを見つめることはない。カクは眉間に皺を寄せて、恐ろしいほどに機嫌の悪い表情で、サッチを睨みつけた。

「オイ、……そこのお前一体なんなんじゃ」

 その声は、地を這うような、警戒を滲ませたものであった。

「おっと、お前さんが……、……あぁ、いや、おれは嬢ちゃんが買ったパンを販売したwhite whaleの店主だよ」
「店主?……その店主がどうしてまたアネッタと」
「いやぁ、おつりを渡しわすれちまって。なぁ、アネッタちゃん」

 サッチの弾む声がアネッタを向く。それから茶目っ気たっぷりに二度目のウインクをされると、アネッタもハッとしたような顔で何度も頷き、ポケットに入ったままであった二百円玉を取り出してみせた。

「え、あ、うんっ。そうなの、えっと、おつりを忘れて」
「……、……、……じゃあパンは買ったんじゃな?」
「う、うん。ほら」

 言いながら手にある袋を見せる。そこまでしてようやくカクも納得したようで、彼はその場で息を吐き出すと「……はー…、勝手に施設を出るんじゃない、わしに何か言ってからいかんか」と言いながら体を離し、彼女にも不機嫌そうな声色で溢した。

「だってカク怒ってたし…」
「それは別に、お前に怒っておったわけじゃない」
「そうなの?」
「あぁ、じゃからもう帰るぞ」
「え、でも」
「……、アネッタ」

 怒鳴るようなものではないが、不機嫌を訴える声。アネッタはそれに戸惑いを見せたが、これ以上不機嫌な彼が縦に頷くことはないことをよく知っている。ゆえに彼女は頷き、それからサッチを見ると一転して申し訳なさそうな顔で頭を下げた。

「……え、っとサッチさん、これありがとうございました、大事に食べますね!」
「……ん、おう!気をつけてな、それからまたご贔屓に!」
「!、っはい!」

 ぱっと表情を明るくして、アネッタが嬉しそうに笑む。その一方で、彼女が此方に笑みを向ける間、後ろで此方を射殺さんばかりに睨む青年を見て、ふっと息を吐き出すように笑ったサッチは、愛想よく少女に向けて手を振ったあと、背を向けて歩き出した姿を目に双眼を細めた。

「ほーんと、嫉妬深い男は嫌んなるね。……邪魔で仕方ねぇ」

 小さく落ちたそれは、一体なにを意味するのか。不機嫌なそれは、誰に拾われることもなく、硬い革靴の底で踏まれて地に還ることになった。