「日本、ねぇ」
つるりとした紙面に、インクの滲みや掠れもなく均一に印字された文字。色鮮やかな写真。この世にはまだ出回っていないような技術で製本された高品質な本には、日本という聞いたことのない国の歴史が詳細に綴られていた。本のタイトルは、歴史。彼女が言うには勉学で使う教科書らしいのだが、彼女の妄言や小説という言葉では片付けられないほどのボリュームだ。
とくに科学技術部分に関しては夢物語のようだと思ったが、彼女の手にはそれを証明できるスマートフォンがある。それらは異世界人であると証明するには十分すぎる材料で、これがあるからこそ彼女を頭のおかしな女ではなく、異世界人として保護をしたのだが、であれば保護をした者として、まずは何から始めるべきか。
ひとまずはよく寝て、よく食べて、よく勉強しろと、仕事を割り当てない代わりに此処での生活基盤を整えるための任務を与えてみたはいいが、自分たちと異世界人では体の構造自体が異なるのか随分と脆い。船に乗り始めて一週間はやれ船酔いだ、水の問題だで体調を崩していたし、漸く体調が落ち着いたかと思えば、今度は体調不良に伴う体重の減少だ。
正直、彼女を受け入れて手間ばかりが増えてしまっているのだが、かといってあの場で助けなかった方が良かったのかというと、そうではないようにも思う。
「マルコ、どうしたの?」
体調管理のために毎日行っている検診を終えた後、食事が遅れるだろうからと持ってきてもらった食事に手をつけるアネッタが問いかける。本日の昼食は小さめのケバブサンドに芋の皮を使ったポタージュとサラダ。野菜が多く、健康に気を遣ったメニューではあるが、彼女の場合はもう少し体重を増やしてやりたいところ。サッチには彼女専用に特別メニューでも考えてもらおうかと思案を巡らせたあと「いいや、なんでもねえよい」と返したマルコは、彼女の口端についたソースを指の腹で拭ってやると、アネッタはふうんと鼻を鳴らしながらもう一口ケバブを頬張った。
「ん~…っふっふ、美味しい。ケバブ食べたのって初めてだけど、期待通りの味だなぁ」
「へぇ、元の世界にはなかったのか?」
「ううん。ケバブは出店とか、キッチンカーとか……見かける事は多かったんだけど買えるほどのお小遣いがなかったんだよね」
だからサッチたちコックさまさまだね。そう言ってニコニコとうれしそうな顔で頬張り、味わう様子に、思わずマルコの目元が和らぐ。体重を増やすにあたり、好き嫌いが無い事だけは救いか。日に日に顔色のよくなる彼女を見て船医としても保護者としても嬉しく思うが、それにしたって見つめすぎていたのかもしれない。
アネッタは少しばかり気恥ずかしそうに笑ったあと、仕方ないなぁって顔でケバブを口元へと寄せた。
「うん?」
「食べたいんでしょ?一口どうぞ」
「いや、そういうことじゃ……」
そう言う事ではないが、純粋な厚意なだけに断りづらい。それに、折角の厚意だ。これを無下にするのはどうにも気が引けるが、自身が食べることで彼女の食事量を減らしたくはない。マルコは彼女に目線を合わせたまま、少しの試案を巡らせる。それから試案の末に「じゃあ、一口貰うよい」と言い、ケバブを持つ小さな手を包み込むように上から握る事で固定をすると、大きく口を開いてケバブのほとんどを食らった。
「へ?」
「ん、今日もうまいねい」
これにはアネッタも呆然である。目を丸々と見開いた後、手に残ったほんのわずかなケバブを見る姿は笑えるほど滑稽で、マルコは思わず吹き出しそうになりながらもなんとか飲み込むと、そこでようやく我に返ったアネッタが彼を見上げて「酷いよ!」と声を上げた。
「はははっ、ちゃんと一口だったろうがよい!」
「ひっ一口だったけどっ限度ってものがあるじゃない!」
わあわあと怒るアネッタ。こういって全力で怒るあたりが子供らしくて微笑ましいと言うのはマルコの談。マルコは彼女の怒る様子にひとしきり笑ったあと両手を前に出して降参だってポーズをしたあと、「ほら、じゃあこれやるから許せよい」と言って、あらかじめサッチから支給されていた通常サイズのケバブサンドを差し出した。
「これ、って……」
もちろん、これはまだ手をつけていない状態のものだ。ただ、彼女のものとは違って、通常サイズのそれはずしりと重い。なんせアネッタに支給されたケバブの二倍はあるサイズだ。交換と考えれば旨い話ではあるが、流石に倍のサイズを食べられるだけの自信はない。よってアネッタは露骨に言葉を濁らせて「こ、これはちょっと…」なんて言っていたが、マルコは一人ほくそ笑み「頑張って食うんだなァ」と体重が少しでも増えることを願いながら呟いた。