時は来たる、時は来たる!
庭先からの、騒々しい鳴き声で目が覚める。小鳥のさえずりと蝉音を遮る鳴き声は、ヨゲンノトリによるものか。なんだかいつもより騒々しいような。空気を入れ替えるよう少しだけ開いた襖の先は明るく、差し込む白い光の筋は朝を報せるように布団まで伸びる。
アネッタは、ぼんやりとした意識のなかその光の筋を見つめた。
「……、……」
そういえば今は何時なのだろう。五時半には起きて養父母たちに食事を作らなければならないのに。朝ご飯ようの卵やハムはどれぐらい残っていたっけ。……ああ、目覚めたくないな。ぼんやりと思う事はどれも憂鬱な気持ちばかり。なのに目の前で揺れる光の筋があんまりにも美しいものだから、その明るさにあやかりたいと手を伸ばして光を受けると、光を映した手がやけに状態が良い。
丸く整え、磨かれたら爪に、傷のない手。そこまで見て、そういえば妖になったんだと思い出し、体を起こした。
「……そっか、……私、ちゃんと妖になれたんだ」
今まで感じていた気怠さが無くなっている事に気付く。なんだか憑き物が落ちたような、清清とした感覚。これが、彼らの言っていた魂の定着が完了したという事だろうか。アネッタは胸を摩ったあと、乱れの無い襦袢や、枕元にある皺の無い着物と瓢箪水筒にカクが看病してくれていたのかと息を落としながら、意味も無く体を倒した。
「もう一度、寝ちゃおうかなぁ……」
妖魂の定着化を目指して頑張っていた筈なのに、定着化をした今はわだかまりが心に在る。
なんだか、今は誰とも会いたくない。けれども身の回りが語る彼の気遣いを想うと、そんな不誠実な事を誰ができようか。
それに、そうこう考えている間にも、この屋敷に住まう善良な妖たちは目覚めた事を彼に報せたのだろう。どたどたと廊下が騒がしくなったかと思うと、襖が大きく開いて、普段は冷静な彼が息をきらしてやってきた。
「……っ目が覚めたか」
浅く、肩を上げ下げしながら息を落とし、安堵を見せるカク。僅かに眼元が和らいだように見えるが、顔を見ても気まずさは拭えない。それを人の心を読む神通力を持つ彼は察したのかもしれない。彼は近付きこそしたものの、むやみに触れる事は無く、静かに尋ねた。
「具合はどうじゃ」
「あ……う、うん、今までで一番具合がいいかも。気怠さも無くなったっていうか……」
「そうか、それはえいことじゃ」
沈黙。襖から入る光は白く、室内に朝を呼び込んでいるのに、空気が梅雨時期のようにじっとりとして重い。……なんだか喋りづらい。アネッタは枕元に置かれた小ぶりの瓢箪水筒を手に蓋を開け、ごくごくとカラカラに乾いた喉を潤して飲み干すとカクの袖を掴んで呟いた。
「ごはん、食べよう」
「うん?」
「……私のお母さんが言ってたの、大事な話をする前にはしっかりご飯を食べようって。どんなに怒ってても、悲しくても、食事だけはして心にも栄養をあげてやらないと、悪いことばっかり考えちゃうんだって」
「……、……」
「……だから、一緒にご飯食べよう」
両親と居れたのはせいぜい五年程度だが、母が食事の場を大切にしていた事は覚えている。遠い記憶の中で、悪戯をして怒られたあの日。泣きながら食べた母のおにぎりは暖かくて、大好きなシャケのふりかけが妙にしょっぱくて。美味しいんだか悲しいんだか分らないな……なんて米粒を取ってくれながら父は言っていたけれど、そのあとに何故いけなかったのかを説明された時には、不思議といつもより素直に受け止められたように思う。
だから、今こうやって話しているのは数少ない母からの受け売りで、自分も大切にしてきた習慣だ。真っ直ぐに彼の目を見て伝えると、カクは少しだけ眉尻を下げて膝を折り、前に座りながら手を取った。
「……そのあとは、わしの話を聞いてくれるか?」
「うん、ちゃんと聞くよ。ちゃんとお話ししようね」
「……あぁ」
天気で言うならば曇天。曇り空に見える彼の表情はどこか迷いがある。彼の話が一体どういったものかは分からないが、余程重い話にも見える。アネッタは暫くその表情を見つめたあと、取られたままであった手を握り返し「多分、大丈夫だと思うよ」そう呟いた。
「こんなに悩んでくれて、それで、誠実にいてくれるんだもん。きっと大丈夫だよ」
「アネッタ……」
「だからさ、今は美味しいご飯を食べよう。あ…でも、何を作ろうかな」
食べたいものはある?とアネッタ。
その問いかけにカクの顔色は変わらなかったが、明確に食べたいものがあったのだろう。
「冷や汁が食いたいのう」
そう小さな言葉が、彼の欲を答えた。
「冷や汁?」
「あぁ、ありゃあええもんじゃ。サラサラーッと食べられるから、今のお前でも食べやすいじゃろう」
「……ごめん、わたし冷や汁って知らないかも」
「冷や汁……を知らん……じゃと?」
「え、あ、うん。だって給食にも出たことないし、お母さんも作ってくれたことはないような……」
「現世ではあまり食されなくなったのかのう…」
「さぁ……あ、でも、カクが教えてくれるのなら作るよ」
「……ん、じゃあ、一緒に作るか」
「いいねぇ、一緒に作ろう!」
共同作業だね。嬉しそうに微笑むアネッタに、カクが瞬いて僅かに笑む。
であれば台所まで移動が必要か。彼は気遣い、いまだ座ったままの彼女の膝裏に腕を入れてヒョイと持ち上げたが、アネッタはいつまでたってもウブだ。カァと赤く染まる瞳は動揺を示しており、過保護だなぁと紡いだ言葉が緊張し、震えている。…正直なところ、この騒ぎが無ければ口づけの一つや二つを贈ったところだが、誠実を向ける彼女にそのような事は出来ない。
カクは溢れ出る感情を堪え、そのまま台所へと下ろすと数日の眠りで衰えた体がよろけ胸の中へと戻る。アネッタは顔を赤くしたまま体を離したが足は震えたままで、カクは台所の隅で漬物石状態になっていた椅子を引き出して、其処に座るよう伝えた。
「此処に座っておれ」
「え、でも」
「その足で包丁を持たせるわけにはいかん」
スパンダムがこの西洋椅子を半ば無理やり押し付けてきた時には、西洋家具の無い屋敷には合わないからどうしたものかと思ったが、なるほど、良い使いどころが見つかったかもしれない。
そう考えるカクとは違い。その言葉にえらく悲しそうな表情を向けるアネッタ。もしかしたら怒られた、とでも思ったのかもしれない。手を引いて椅子に座らせると、しゃがみ目線を合わせながら頭に手を乗せた。
「ワシャ怒っとるわけじゃないぞ、アネッタ」
「……本当?」
「わはは……そんなことで怒るほど短気じゃあない。…それじゃあ、そうじゃな、座卓のある居間で一緒にやるとしよう」
「いいの?」
「料理は台所でなければいかんという決まりはないじゃろう」
そうして、言葉通りに場所を移して居間へ。確かに、彼の言う通りで座った状態であれば足の震えもふらつきもなく手伝いが出来そうだが、屋敷の中でも一等良い質の座布団を出してきたのは少し過保護すぎるように思う。
どうしよう、これを汚しちゃったら。流石に怒られるかな。ふかふかと触る座布団は厚みがあり、それでいて生地はつるつるで刺繍が凄い。四方向の端から飛び出た何のためにあるのかもわからない紐を触りながら、ひとまずその好意を受け取り座卓に視線を向けると、自分の目前には胡麻の入ったすり鉢とすりこぎが置かれる。隣に座る彼の前には焼いた干物ときゅうりや大葉、あとは木綿豆腐が並べられたザルが置かれるが、随分と少ない材料だ。
「これだけ?」
「あぁ」
クンと薫る焼き魚の匂い。サイズや見た目からして鯖だろうか。しかしこれだけの材料で作る冷や飯とはいったいどんなものだろう。アネッタは考えながらも手渡されたすりこぎを見て、「そういえば、すりこぎ使って胡麻をするのは初めてかも」そう言って大量の胡麻をすりこぎとすり鉢で潰す。
ゴリゴリゴリ。ゾリゾリゾリ。ゴリゴリゾリゾリと中にある細かな凹凸で立つ音は心地の良い低音で、暫くすると砂のような胡麻粉が出来上がるがカク曰く、これでは完成と言えないらしい。
「まだじゃ、もう暫く擦っておればまた状態が変わる」
「えぇ…?粉を擦っても粉じゃないの……?」
本当かなぁ。疑わしいけど。だって、小麦粉を混ぜたところで粉は粉じゃないか。……なんとなく揶揄われているのかもと思い、視線を向けるとカクはそれに気付いて笑う。揶揄ってどうすると言うのは、まったくその通りだが、粉を擦ってもいまいち手応えが無いというかなんというか。それとも、もっと細かくなるくらいに擦れということだろうか。大人しく職人になったつもりでごりごりと擦り続けると、暫くしてねっとりとし始めたそれを見て、興奮気味にカクの袖を掴んだ。
「わ、カク、ねっとりしてきた」
「おお、でかした。それが全体的にまとまるまで頑張ってくれ」
「はーい……でもなんでねっとりしはじめたんだろ、水なんか入れてないのに」
「胡麻には油分があってのう、擦り続けるとこうして油分が出て粉と混じることでねっとりするんじゃ」
「へぇー……あ、そうか。ごま油ってあるもんね」
そうして疑問が晴れ、粉っぽさが無くなって全体的にねっとりとした練り胡麻が出来ると、その間に隣で骨を取り除き丁寧にほぐした魚と、薄切りにしたキュウリ、それから出来上がったばかりの練り胡麻を持ってカクが台所へと立つ。その時、アネッタも当然行こうと思ったが、今は小鹿のように足が震える身。あとはわしが出来るから待っとれと言われると、アネッタはうなずくことしか出来ず唇を尖らせた。
「……やるか」
さて、ここからは烏天狗の腕の見せ所。妖とはいえ彼女よりもうんと長生きしているのだ。彼女にはきちんと食事をさせないと。
まずは彼女が練った胡麻をすり鉢の内面に塗りたくる。それをかまどにある米窯を取り出して代わりにかぶせる様に伏せて置き、灯した炎で軽く焦げ目をつけたあとは隣の鍋へ。そこには味噌と練り胡麻、それから水を入れて丁寧に解きながら味を調整していくが、この分ならば来客が来ても出す事が出来そうか。
カクはぐらぐらと煮立つ様子を見ながらほぐした魚の身と、手付かずだった木綿豆腐を手で適当にほぐし入れると、ぐるりとかき混ぜて火を止め、息を吐いた。
うん、なかなかの出来栄えだ。
あとは、この汁が冷めるのを待つだけか。
「…おおい、アネッタ、冷ますあいだ少し待つことになるが待てそうか」
背を向けたまま、ぐるりとお玉で鍋の中をもう一度かき混ぜて声をかける。なんせ彼女は数日ぶりの起床を果たしたのだ。そう多くは食べられないとしても、多少なりとも食欲はあるはず。
火を炊いたせいで、つうと滴り落ちる汗が目に染みる。袖で拭ったあと、そういえば返事がないなと違和感を覚えて振り返ると、庭を見たままピクリとも体を動かさない彼女に首を傾げ、近付いた。
「どうした。気になるものでもあったか?」
松の木にある松ぼっくりでも気になったのだろうか。あれは随分と大きく育ったし、秋になるまで二つ三つ取っておいて、芋でも焼くときに使ってもいいかもしれない。そうしたら令和生まれの彼女にも松ぼっくりがよく燃えると言う教育にもなるし、きっと面白いと喜ぶ筈。しかし、そうこう考えている合間にも返事はない。それどころか彼女の視線は庭に向いたままで、彼女の言葉が静かに落ちた。
「…ねぇ、カク……変なの」
「変?」
「……音がない」
袖を掴む。瞳は庭へと向けられたままで、アネッタはぽつりと呟いた。
「ヨゲンノトリがいないの」
確かに、先ほどまでぎゃあぎゃあと騒いでいたヨゲンノトリがいない。それどころか、すねこすりに、天吊るし、猫鬼と屋敷ではよく見かける妖たちの存在も見当たらず、こんなにも静かなのはあまり無い事だ。カクは縁側にある式台で草履に履き替えたあと、ずりずりと這うようにして近付くアネッタの身体を抱き上げた。
「……ちと屋敷に残すには不安がある。このまま連れて行ってもいいか」
「う、うん……それは勿論だけど、……その、重くない?」
「わはは、軽いもんじゃ」
そう、彼女の身体はいまだ軽い。だから、早いところお手製の冷や汁を食べさせてやらなければならないと言うのに、腹に積もる違和感は拭えずに、行く先の庭はしんと不自然に静まりかえっている。それは、ヨゲンノトリやすねこすりに好かれているアネッタが声を掛けても同じで、だれひとり、返事はない。
聞こえるのは、ザワザワとこの違和感を煽るような葉擦れの音ただ一つ。カクは彼女を抱えたまま辺りを見回したあと、「カク、あっちに何かが落ちてる」と指した方向を辿ると、薄く目を見開いた。
「……一体どういうことじゃ」
そこにはすねこすりと、ヨゲンノトリの死体があった。どちらも血を流して倒れており、ヨゲンノトリに至っては二つ顔があるうちの一つが身体から離れている。傷を見るに何か鋭利なもので切られたのだと思うが、結界を張った屋敷に入れる妖はそう多くはない。
それに、何かしら覚えのない妖が入れば感知するはずで、……それも無かったとなると随分と厄介だ。
「ヨゲンノトリ、すねこすり……」
寂しく落ちる、彼女の声。彼女はいまだ何が起きているか理解できていないようで、その声は恐怖というよりも、困惑や驚きが占めている。
「どうして、……喧嘩しちゃったのかな」
「……」
「……妖は、死なないよね」
「……」
「カク」
不安な音が袖を引く。見れば不安に揺れる瞳には恐怖が入り混じりはじめて、「そんなことないよね」と震えた言葉が意識を引くが、先のとおり、彼女相手に不誠実なことは出来ない。それに、彼女は死を迎えて天へと発った輪入道を見て、妖にも死がある事を理解してたはずだ。だからこうして尋ねたのは、希望を持ちたかったのだと思う。けれども、辛くても、それが心に傷を与える事があったとしても、誤りは正してやらなければいけないのだ。
大人として、長く生きたものとして。そして、夫として。
カクは、静かに呟いた。
「……いいや、妖は死ぬ。わしら妖も、みな人間と同じように生き物の一つじゃ。……ただ、寿命が違うだけでな」
「そんな……」
十人十色とはよく言ったもので、妖とは古来より様々な姿形があり、それぞれに性格も、能力も違う。けれども魂を持っている事は人間と同じで、生命はみな寿命というものを持って生きている。
彼女を抱えたまましゃがみ、そっと手を伸ばしてすねこすりの頭を撫でる。ふわふわとして、柔らかかった体は硬く硬直しており、ひんやりとした冷たさが手に広がって閉じた瞼を撫でても眠ったままの猫は目覚めない。
すねこすりは死んだ。死んだのだ。
「……生命があればその逆もまたしかり。……しかしまァ、今回ばかりはなにか厄介なことが起きておるようじゃが」
よって、感情を昇華させてやるだけの時間も猶予が無い。となれば彼女を屋敷に戻す事が先かとも考えたが、天吊るしの声も聞こえなくなったあの屋敷が安全かは懐疑的だ。万が一を考えると彼女を抱えたままの方が安全だろうか。深い悲しみと困惑の狭間に立つアネッタを近くの岩へ下ろしてやると、ただ一つ、完結に尋ねた。
「もう少し、頑張れそうか」
この先は何が起こるか分からない。このまま単なる妖同士の喧嘩だったと小さな騒ぎで済めばよいが、抱いた違和感が拭えずにいる。おそらく、何か別の妖の仕業だと。
カクはアネッタを真っ直ぐに見つめると、アネッタは頷いて拳を握る。
「……、……うん。このままには出来ないよ」
その声色も、顔色も。とてもじゃないが大丈夫には思えない。けれども彼女は気丈にふるまっている。であればそれを汲み取ってこの騒動の原因を解き明かす事が夫の勤めだろう。
カクは彼女の頭を撫でた後、改めて状態を視るべく膝を折り、今度はヨゲンノトリの首を掬いあげたその時、瞼を閉じたはずのヨゲンノトリがパチリと目を開けて、嘴を大きく開いた。
「と゛き…っはァ゛来゛…たる゛、時、…は、来た……恨み嫉み持つ者ォ…、いざ…いざ…いざ…」
掠れた淀んだ声。ばたばたと翼を動かすその姿はもがき苦しむようで、予言を言い終えたヨゲンノトリはまた頭を垂らし、今度こそ力が尽きたように瞼が閉じる。身体が硬直するように伸びていくその様子は、凄まじい絶命を示す。
……最後の言葉は、懐いていたアネッタへの警戒か。
時は来たる、恨み嫉み持つ者。アネッタに向けた言葉だと考えると、彼女への恨み嫉みを持つ者だと考える方が良いかと思うが、アネッタはもともと善良と言える人間であった。十年程度しか視ていないが、幼い頃から困った人を放っておけるタチではなかったし、たまの気まぐれで与えられたおやつは必ず神社に持っていって、小さく小さく分け与えてくれる子だ。そんな子が、ましてや十七年しか生きられなかった彼女が恨み嫉みを持たれるものだろうか。
考えられるとすれば、自分と同じように彼女に恋い焦がれた妖怪か。それともまた別のものか。ああ、いや、本当に厄介なものを招いたのかもしれない。他に手がかりはないかと辺りを見回す傍らで考える。その間も、アネッタも出来うる限りであたりを見回して何かを探っていたが、勘が鋭いのかもしれない。
何かに導かれるように「そこにジャブラの瓢箪がある」そういって岩の後ろにある酒呑瓢箪に手を伸ばしたその時。なにかそれに言いようのない力を感じて彼女に手を伸ばした瞬間、背後から両者の袖を引くように「ああ、恨めしい」と声が聞こえ、振り返るほどの暇も無く、背後から迫った刃物がカクの腹部を貫いた。