濡れたデッキブラシを擦りつけるなか、「パチン」という小さな破裂音と共に、三つ編みを留めた髪ゴムが落ちる。何かにぶつけたわけでも、触れたわけでもない。ただ、唐突に千切れたことで解けた三本の束は、緩やかに解けていく。
ああ、今日は綺麗に三つ編みが出来たのに。そう思ったのは初めてサンジが三つ編みを結って以来、三つ編みの練習を行っていることなのだが、何度練習をしたって初めて結ってくれたサンジほどうまくは出来ない三つ編み。だからこそ、今日は上手に出来たと気分が良かったのに、髪ゴムが唐突に切れるだなんて、不気味さというか、縁起の悪さを感じて腹の奥がずしりと重くなる。
「……ムギ?どうした、具合でも悪いのか」
デッキブラシを脇に挟んで、髪ゴムを拾うついでにしゃがみこんでいると、サンジの声が降り注ぐ。その声には、隠す気のない心配が滲んでおり、千切れた髪ゴムを手に立ち上がると「ううん、髪ゴムが切れたから拾ってただけ」とネタバラシでもするように、輪っかですら無くなった髪ゴムを見せる。彼はそれを見て少しだけ安堵したように息を吐く。
ただ、このゴムをくれたのは他でもないサンジだ。それをたった一カ月そこらで駄目にしてしまうだなんて、大事にしていたとはいえ申し訳がなくて仕方ない。
ぼくはサンジを見上げて「ごめんね、これサンジがくれたのに」と詫びると、サンジは口に咥えた煙草を指で挟んで、顔を横に背けながらふうっと紫煙を吐き出すと「別に、髪ゴムの一つや二つ、気にしねぇよ」と笑った。
「しかし…髪ゴムが千切れるだなんて珍しいこともあるな」
「うん……何かにぶつけたわけでもなく急に切れたからぼくも驚いちゃって……なんか縁起が悪いよね」
「うん?」
「え?」
「いや、別に古くもねぇ髪ゴムが切れるだなんて滅多にない事だろ?むしろ縁起が良いんじゃねえかとおれは思ったが」
どこか驚いたように話すサンジ。しかし、サンジはサンジで驚く僕を見て、「なんでお前が驚いてんだ」と肩を揺らして笑うと、一度視線を外して近くにあった木箱を足の側面で叩くと「結んでやるから座りな」と声を掛けてくれた。
木箱に腰を下ろしたあと、サンジは手のひらを上に、四本の指で毛束を取る。
サンジの指先は料理人とあって爪は綺麗に短く切りそろえられているものの、指先が地肌や耳に触れると妙にこそばゆく、不思議と耳がじわじわと熱くなるのが分かる。なんとかそれを「サンジって、三つ編みするの手慣れてるよね」という言葉で誤魔化すと、サンジはそれぞれ分かれた束を器用に結いながら「そうか?」と訊ねた。
「うん、ぼくなんかまだ三つ編みにするの下手だし……なのに三つ編みをするほど長くないのにサンジは上手だから」
そこまで言って、もしかしたら誰かにやってあげたのかもしれないという考えが頭を過る。その瞬間、食べたわけでもない魚の骨が喉につっかえたような感覚がしたが、少しの間を置いて「誰かにやってあげてたの?」と尋ねるとサンジは露骨に口をへの字に噤んだ。
「あー……、まぁ、ジジイにな」
「ジジイ……それってもしかして、レシピノートに挟まってた新聞の切り抜きの……?」
歯切れの悪い言葉。女性ではないとは分かったが、彼がジジイ呼ばわりする人物はこの船にはいない。不思議に思い、頭の中を過る心当たりを尋ねると、サンジは三つ編みに結った髪を替えのゴムで留めて「そうか、お前に見せたんだったな」と、まるで独り言ちるように小さく零した。
「うん、……あ、ごめん、もしかして見られたくなかった?」
「いや、まぁ、見られて困るわけじゃねえよ。……ただ、気恥ずかしいというか…まぁ、そのジジイがおれの育ての親みたいなもんで、変なヒゲだっただろ?あの三つ編みを時々結わせてもらってたんだよ」
「へぇ……」
気恥ずかしそうに語るサンジの言葉は、普段よりもどこかぶっきらぼうだ。ただ表情は驚くほど穏やかで、彼の眼差しが、大切な人なのだと言葉無く語る。
「……サンジ。もし、ゴムが切れなくても、お願いしてもいいかな」
それがなんだか羨ましくてついついて出た言葉。彼らの関係性を考えればなんと浅ましいことかと思ったが、サンジは瞳を瞬かせたのち、結ったばかりの三つ編みを掬ってそれに唇を押しあてると「なんなりと」と言って、穏やかな眼差しのままに笑った。
穏やかな日常の上で、海鳥たちが泳ぐように空の上を滑る。段々と登る太陽は暖かく、ぽかぽかで、気付けば腹の奥に感じた重苦しさは無くなっていた。遠くで、ルフィの「サンジ~~~!飯~~~!」という声が聞こえてくると、サンジは「朝から煩えなぁ」とボヤいていたが、いつもの日常が始まるような気がして、ぼくはひっそりと笑うのだった。