「ごめんなさいね、いつも待たせちゃって」
養護施設から、徒歩五分圏内にある住宅街の一角。白い外観の一軒家のインターホンを鳴らすと、返答もないうちに扉が開いた。先に出てきたのは呼び出した人──の母親。菫色のウェーブがかった髪を揺らすその人は、昨日と同じような事を同じようなトーンで言っていた。
「ああ、いや、もう慣れてしもうたんで」
それを同じような回答を返すと、彼女は薄く笑っていた。しかし、毎日同じような事を言い続ける彼女にとっては、正解に近い答えだったのかもしれない。「待っている間は寒いでしょ」と差し出されたカイロは、ほんのりと暖かかった。
「あーん、ごめんねぇ待たせちゃって」
結局、待ち合わせから五分も遅れてやってきたアネッタは、ショモショモとしながら食パンを齧っていた。どうやら食べる時間すらなかったようだが、その割にしっかりと林檎ジャムを塗っているのだから面白い。
「まぁ、お前の準備が遅いのは今に始まったことじゃないしのう」
この間なんて、髪の毛がキマらないとかそんな理由で十五分も待たされた。だから、五分程度の待ち時間は可愛いものだ。
「あ!朝からお口が悪い!そんなお口は塞いじゃえ~」
「むぐ」
半分に千切った食パンを口に向けられたので、ありがたく頂く。ザフッとした表面を噛んだ瞬間、もったりとした林檎ジャムが口の中に広がった。林檎の酸味がほんのり混じった、ゆっくりとほどけていく甘さだ。普通のジャムよりも林檎がごろごろしている気がする。
手に残ったパンくずをぺろりと舐めると、アネッタは嬉しそうに尋ねた。
「どう?」
「どう、とは」
「美味しかった?それ、私が作ったの」
「おー……それをはよ言わんか。もう食ってしもうたぞ」
どうやら、彼女は料理が好きらしい。この間はバナナを入れたパウンドケーキをくれたし、少し前にはマフィンをくれた。だからこの林檎のジャムも、好きが高じて出来たものだろう。そういえば、三日ほど前に「おばあちゃんからいっぱい林檎を送られてきたんだ」と三つも林檎をおすそ分けされたんだった。
であれば、もう少し味わって食べるべきだった。苦情にも嬉しそうに笑うアネッタは、犬の尻尾みたいにポニーテールを揺らしていた。「じゃあ次の土曜日は、うちにおいでね。パンも焼いて、特製の林檎ジャムをつけて食べよう」──そうやって笑う声には、ひとり孤独に過ごしたであろう前世の色はない。
「……お前は、毎日楽しそうじゃのう」
「楽しいよー、カクは楽しくない?寂しい?」
「?なんでそこで寂しいが出てくるんじゃ」
「カクって、時々寂しそうな顔をするから」
前世の記憶がない彼女を、はたして本人だと言えるのだろうかと思う事がある。けれども、たとえ中の魂が違ったとて、瓜二つな彼女を手放すことなんて出来やしない。それを見透かしたように笑う彼女は驚くほど落ち着いていて、咄嗟に掴んだ手に指を絡めた。
「カクが何で悩んでるのか分かんないけどさ、私の楽しいが一緒だったらいいのにって思うんだ」
「一緒?」
「そう、私が楽しいとカクも楽しいの。そうしたら寂しいときは少なくなるよ」
「わはは……そうじゃの、……そうかもしれん」
そうしたら、“彼女”の事はきっと思い出せなくなるのに?
天邪鬼が耳元で囁いて、背中がヒヤリと震える。その瞬間、目の前のアネッタが足を止めてわしを見た。
「だから、カクは無理に笑ったりしなくていいからね」
「うん?」
「うーん……なんとなくそう思ったっていうかぁ……でも私のお父さんもよく言うの、無理に気持ちを閉じ込めなくていいって。まぁ、時々そのせいで私は家でもーもー!って怒っちゃう時あるんだけど」
「お前は感情に素直じゃからなぁ……」
「それが教育方針みたいだから……」
「わはは、なんじゃそれ」
もう一度歩き出して、手が引かれる。前を歩き出した彼女は太陽を背負って白く、眩しい。だからそれに目を細めて、一度目を瞑った瞬間。やけに近い声が意識を引っ張って、目を開いた。
「カクー、いつまで寝てんの?」
「………うん?」
「?、なんか寝ぼけてる?お父さんとお母さんのお墓参りの事なんだけどさ、今度の土曜日施設でイベントやるから別日にしたほうがいいかな?」
「……墓参り?」
「……ねー、寝ぼけてるの?それとも忘れてるの?」
呆れたような声。
ああ、なるほど。全ては夢だったのか。
これが現実であるかを確かめるように、顔を覗き込む彼女の頭に手を伸ばす。寝起きで距離感が掴めず、彼女に辿り着かない手はフヨフヨと彷徨うものの、アネッタは甘えただ。こちらがたどり着かずともその手に頭を寄せて押し付けてくる。
「わはは……犬みたいじゃ」
それも、ポメラニアンみたいな、ふわふわの。
「なにそれー、……って、わあ!」
あんまりにも可愛いものだから、頭にあった手を後頭部に向けて倒したままの身体へと抱き寄せる。普段はそんなことをしないせいか、彼女は上に覆いかぶさるように手をついて抵抗していた。でも、それを抵抗するのも変な話か?みたいな顔をすると恐る恐る胸板に頭を寄せて、「意味わかんない」と呟いた。
「わはは……わしも意味わからん」
「なにそれ……もしかして夢でも見たの?」
「んー……そうじゃなぁ、……フフ、どの世界線でもわしらは同じじゃと思うてのう」
「なにそれ?」
アネッタは「意味わかんない」をずっと繰り返していた。けれども、おかしなことに頭を撫でる間は大人しく、金色の瞳が心地良さそうに細くなっていく。
はたして、あの世界線でのわしらは、良い遠路<ハッピーエンド>を辿れたのだろうか。そんならしくない事を考えながら、ふわふわの髪を撫で顔を上げる彼女を見つめてキスをすると、甘えたが少しだけ笑って「意味わかんない」と呟いた。