赤ん坊と私

 休日出勤をしたことで、振り返り休日となった月曜日の午前八時。いつもならばもう出勤している時間だが、なんせ休みだ。このままたっぷりと二度寝をしてやろうと布団にくるまっているとプルプルプル…という音が静かに響く。なんだか途端に嫌な予感がして、出ようか出まいかと伸ばした手は暫く彷徨っていたが、意を決して受話器を取った私は「へ、ぇ?」と間抜けな言葉を落とした。

 そうして五分後の午前八時五分。いつもの出勤時間と殆ど変わらない時間にガレーラカンパニーの事務所に訪れた私は、小さな小さな赤ん坊を抱いていた。
 色々と理解は追いついていないものの、久しぶりに抱っこした赤ん坊は、小さくて、軽くて、それでいて柔らかい。きっと、世界で一番無防備で、弱い生き物なんだと思う。そんなことを思いながら視線を落とすと、赤ん坊は自分の手を見て不思議そうな顔をしていた。

「…ふふ、自分の手に気付いたの。利口だね、きみは」

 自分の手に気付いて見つめるハンドリガードと呼ばれるその仕草は、視認する力が備わってきたという成長のあかしだ。だからそう呟いただけなのだが、赤ん坊は相変わらずきょとんとしていて、暫くして私を見つめたかと思うとにぱりと笑う。それがまた、たまらなく可愛くて、眩しくて。私はついつい頬を緩めていたらしい、近くにいたカクが「やっぱりアネッタが適任じゃったのう」と笑った。

「私お休みなんですけどねぇぇぇ…」
「ううっアネッタちゃんごめんなぁ…うちのが病気でよぉ…でもおれも今日はどうしても外せなくって……そうしたらうちのがアネッタちゃんなら安心して任せられるつってよ」
「あ、いいのいいの。ロッドさんやレッタさんから頼って貰えるのは嬉しいし。…そうじゃなくて、私が怒ってるのは、暇人だと決めつけて5分以内に来いと呼び出したカクだから」
「うん?暇じゃないのか?」
「暇だが???」
「何を怒っとるんじゃお前は」

 わけわからんって顔をするカク。休みの日なのに5分で呼び出された身にもなってほしいのだが、カクからすれば、暇人なんだからいいだろという考えなのだろう。ああ、腹立たしい。ムカついたので目の前にいるカクの脛を蹴ると「赤子の前じゃぞ」と叱られた。

 なんたる理不尽。なんたる不条理。

卑怯だぞ、そう言いたかったけれど全て赤子の前じゃぞという一言で一蹴されそうなので口を噤んで、それでも堪えられなかった腹立たしさは溜息として落とせば、それが余程面白かったのか、私が抱いている赤ん坊はキャハキャハと楽しそうに手を動かして笑っていた。

「…ま、いいや。とりあえず外はいい天気だし、少し歩いてくるよ。だからロッドさんも気にしないで、お仕事頑張ってね」

 そもそも、他所様の大事な赤ん坊を、こんな妻でもない他所の女が面倒を見てよいものかとも思ったが、レッタさんご指名なのであれば大丈夫だろう。私はロッドさんから受け取った抱っこ紐を片側の肩にかけて、たすき掛けのようにして赤ん坊を包んで、抱き上げる。赤ん坊ははじめこそ体勢が変わったことに驚いていたようだったが、すぐにウゴウゴと手を動かして、機嫌よくうにゃうにゃと何かを喋っていた。

「あ、アネッタちゃん…!アンタいい嫁になれるぜ」
「え?!……、……うぇへへ……そ、そうかなぁ……」
「ああ…!アネッタちゃんが本気を出したらすぐに男たちも――」

 其処まで言って言葉が途切れる。

それはロッドさんに割り込むような形で「アネッタ」とカクが私の名前を呼んだからで、視線を挙げようとするとカクの白い帽子が私の頭に被せられて、「ほれ、帽子被っていけ」と言葉が続く。

「あぁ、ありがとう」

でも仕事中なのに貸してもらっていいの?と見上げると、カクは言葉なく目元を和らげる。構わんということだろう。

「それから、入口まではわしが見送ろう」
「?別に一人で行けるけど」
「赤ん坊がおるんじゃ、危ないじゃろう」

 確かに、考えてみればガレーラカンパニーの敷地内は危険がいっぱいだ。礼儀もなっていない海賊が肩で風をきって歩いている事もあるし、礼儀がなっていない故に偶然角材をぶつけてしまう人や、海賊目掛けて大砲の練習をウッカリ始める人もいる。普段は統率が取れているが、それでもこの小さいいのちを預かっていると思うと今更ながらに怖くなってしまい、暫くの間を置いて「ああ、うん…ぜひお願いします」と頭を下げた。
「ん、そういうことでパウリー、ルッチ、少し席を外すぞ」
「あぁ、気を付けていってこいよアネッタ。くれぐれも馬鹿するんじゃねえぞ」
「クルッポー、赤ん坊がいることを忘れるんじゃないぞッポー」
「馬鹿しないし忘れないが…?」

 そうしてみんなに見守られて(?)事務所を出た私たちは、一番ドッグのゲートへと向かう。その間もカクは口うるさいもので、「いいか、いくら赤ん坊の前とはいえ月歩をしようと思うんじゃないぞ」だとか、「それから赤ん坊を連れておるのだから、トラブルには首を突っ込むな」とか「雨が降ってきたらどこかで雨宿りさせてもらうように」と注意を重ねてくる。
 過保護というのか、信頼していないのか。そんなに心配ならなぜ私に頼むのだ。

 流石に注意を重ねられると気分が悪くなるわけで、「あのさぁ、信用してないなら他の人に頼めばいいじゃない。なんで私に頼んだのよ?」と言うと、カクは私の機嫌の悪さに気付いたようで、「ああ、いや、信用しておらんというわけじゃ」と言葉を濁らせながら、短く刈り上げた襟足を掻いた。

「……じゃあ何よ」
「…………いや、まぁ、……赤ん坊を見たとき一番にお前のことを思いだしてのう」

それで、その。カクはどこか言葉を濁らせる。それから帽子のツバを下げるつもりか額あたりに手を向けたが、彼の帽子はいま私が被っている。カクの手が空を掴むと「あ…」と我に返ったような顔で拳を握り、それから顔を背けた。

 成程、彼の言いたい事は良く分かった。つまりはこういうことだ。

「………それって……やっぱり私のこと使えるって思ったんじゃ……」

 そう言いながらカクを見る。
 一方で、カクは私の言葉を受けてなにか驚いたように瞬きを繰り返したかと思うと、数秒の間を置いて、そりゃあもう深いため息を吐きながら額を押さえた。

「……、…馬鹿、違うわい。」

 零れた言葉の呆れっぷりといったらもう。

「あれ、違うの?」
「はー……ここまで鈍いと考えものじゃのう。…ほれ、さっさといけこの鈍感馬鹿女」
「な、ぁ……ッ?!」
「本当お前は……。……あぁ、そうじゃ。何かあったらわしに連絡寄越せよ。迎えにいってやる。」
「ンン……色々なんか納得いかないけど、どーもありがとう」

 彼の感情がよく分からない。何故彼はあんな目で見るのだろう。いくら考えても答えは出なかったけれど、赤ん坊は外の世界に興味津々だ。そんな赤ん坊を前にモヤモヤを抱き続けるのもなんだか勿体ないように思えて、私は小さく息を吐き出せば、紅葉よりもうんと小さな赤ん坊の手を握って「よーし、お散歩行こうか」とゆっくりと歩き出した。

 水路沿いに並ぶたくさんのお店に、水路を進むヤガラブル。弧を描いた白の大橋。このウォーターセブンにはたくさんの魅力が詰まっていて、今日一日でこれら全てを見せることなんて到底出来ないけれど、なんせ代理お世話人の一日は始まったばかりだ。
 赤ん坊と私の、小さな小さな物語は続く。