「さっきのパフェ、おいしかったねぇ」
「そうか?そりゃあよかったわい。まさか全部食べるとはのう…」
「へへ……、あっ、アネッタがあげたバナナ、美味しかった?」
「あぁ、美味しかった。ありゃあ良いバナナじゃな」
「んへへ、カクはバナナが好きだもんね」
食堂を出て、冷たい石畳を歩いていた幼子が足を止めると、紅葉のような手のひらがカクの指を握り、くいと引く。見れば、うんと小さな幼子は此方を見上げて「抱っこ…」と可愛らしく甘えており、目線を合わせるようにして屈んだカクは優しく問いかける。
「どうした眠くなったか?」
「ううん……」
彼女は首を振る。眠くはないが、いまは抱っこの気分なのだろうか。
「……だめ?」
そう呟くと、彼女はもう一度だけ、甘えるように抱っこを求めて腕を開く。
抱き上げた彼女がアネッタではないと、すぐに分かった。なんせいま向かい合う五、六歳の彼女が持つ角は、現況の大人サイズまで伸びている。それに上から下に向けて小さくなっていく三つに連なる角も、上が小さく、中間が一番大きいと形も疎らで、金色の瞳に潜む縦長の瞳孔も、左右の長さが不自然に合っていない。
何より、朝早くにエニエスロビーを発ったアネッタを見送ったのは、他でもないカクだ。一見すれば瓜二つの彼女も、幼馴染で誰よりも彼女のことを見てきたカクには分かる。彼女は、アネッタではないと。
ただ、此処ですぐに突き放さなかったのは、その他の性格や思考は、殆どアネッタと同じだったからなのかもしれない。甘えるようにカクの頬に頬をぴっとりと寄せた瓜二つのアネッタは笑う。幸せそうに。楽しそうに。
もしも、この世界が平穏であれば、彼女が竜人族という立場の無い普通の子供だったら、こんな様子で泣くこともなくよく笑い、よくお喋りをする少女だったのだろうか。幼い頃、グアンハオという島のなかでいつも外に出ることを夢見ていた彼女は、こうやって笑っていたかったんだろうかと、そんなことを思った。
けれど、これをこのままにしておくわけにはいかない。カクは彼女を抱きかかえたまま外に出ると、さんさんと燦々と陽光が降り注ぐ中、どこかに遊びにいくのかな──なんて考えてそうなアネッタを見つめて、ゆっくりと足元に下ろした。
「……もう、お遊びの時間は終わりじゃ」
静かに、けれども優しくカクは言った。
この優しい時間はもう、終わりなのだ。
いや、終わりにしなければならないのだ。
「え?」
「……いい子じゃから、分かるじゃろう」
「…あー……そ、っかぁ…」
幼少期には劣等生と言われ、思考も遅かった筈の彼女が、すぐに察した様子で目を伏せる。彼女もまた、この時間が永遠に続くものではないことを知っているのだろう。小さな彼女は金色の瞳を伏せたまま、自分の胸元をぎゅうと握る。小さな手で力いっぱい握ったせいか、洋服はくしゃりと皺が寄り、暫くしてゆっくりとその場で息を吐き出した彼女は「ごめんねぇ」といって力なく笑った。
しかし、続く行動は予想だにしなかったもので、彼女は肩にかけた斜めがけの鞄に手を伸ばすと、迷いなく底に忍ばせていたらしい拳銃を取り出して、驚き目を見開くカクを見ながら引き金を引いた。
「ごめんね、カク」
言葉が途切れると共に、渇いた音が辺り一帯に響く。木々に止まっていた鳥たちが、驚いたように一斉にばさばさと飛び立って、鼻には焼けた金属と火薬の匂いが掠め、状況も理解出来ずに「なに、を………」と尋ねたが、彼の目先には、胸に釦飾りを開けた少女が、血を流し倒れていた。
彼女は、カクではなく、自分を撃ったのだ。
「……はー……へへ……、カク…は、気付いてた、でしょ?わた、しが…にせ、もの…だって」
「……、…何故、こんなことをする必要が」
「クロー、…ンがずっと、いちゃ、いけ、ないから……」
あまりにも急な出来事に、頭が思考を放棄したように上手く働かない。理解が追いつかない。だくだくと血を流しながらも会話を続ける彼女を見て、咄嗟に頭の下に手を入れて起こしてやるが、それをしたところで視線が絡むことはない。ただ、「裏切ること、できないようプログラムされて、るから……」と述べた彼女は、震える手でポケットに手を伸ばすと、其処から小さな蓋つきの試験管を取り出して、此方に見えるように緩く掲げた。
「これ……研究所、にあ……ったわた、し……じゃない、や、オリ、ジナルの細胞、……へへ、…いー…子、でしょ」
「……これを奪ってきたのか?」
「これ、がなくな、ったら……も、う…私、はつくられ、ない、でしょ?」
「……、……そう、………じゃな」
カクが呟くと、彼女は眉尻を下げたまま力なく笑う。
彼女はがアネッタのクローンであるならば、彼女は紛い物であるはず。なのに、「頑張ったんだよ」と語る彼女の笑みに胸が痛むのは何故だろう。
口端につうと垂れる血を拭ってやると、小さな彼女はそれだけのことを嬉しそうに笑って、少しだけ頬を摺り寄せた。
「……オリ、ジナル、はいい、なぁ…」
「……ん?」
「だ、って、カク、といれ、るもん……」
「……」
彼女は目を伏せる。痛みが酷いのだろう。彼女はゆっくりと息を吐き出して呼吸を整えると、視線が交わうことはなかったが、カクを見上げて、震える手でカクの裾を握った。
「いつか……いつ、か………わた、しも、ほんもの、じゃ、なくても、い、……から、カクの、……近くにいた、いなぁ…」
「……、……」
「……こど、も…とか……に、なれ……たら……おり、じなる、じゃなくても、いれ、るのに……なぁ……」
「……」
「そした、ら、…ぅ……ッ…、はぁ……っ、…また、遊んで、くれ、…る……?」
彼女は笑う。
まるで、それが最後の願いだと言うように。
「……い、……や?」
「…ああ……、……ああ……!……っ嫌なわけがないじゃろう。…お前には、……少なくともアネッタの細胞を使われておる。……であれば、またわしらは…形を変えて出会うことが出来るじゃろう……じゃから、……今度はお前が笑えるようにして待っとる」
「……へ、へ………や、……、……った、…ぁ……、」
そうして、彼女の幕が閉じる。
ゆっくりと、顔は横に垂れ、光を失った瞳からは涙が零れ落ちた。
「アネ…」
「………、……」
「……アネッタ」
「……」
「………ッ、……アネッタ」
「……」
この子はアネッタではない。けれど、彼女が不憫に思えて仕方が無かった。
彼女の小さな手のひらから、ころりと転がり落ちた、小さな試験管に入った細胞液。ただ、この細胞液はこの世で一人しかいない竜人族の細胞で、相手は何処ぞの研究所だ。彼女が持ち出したそれは、きっと全ての細胞ではないだろうし、こうやって持ち出された際のリスク分散化として細胞を隠し持っている筈だ。だから彼女が持ち出したところで、実験は滞りなく続くはずだ。それに世界政府の犬がこれを持ったところで、何かが変わるわけもない。だから、彼女の行動は全て取り越し苦労の無駄な行為であったと言える。
彼女も、こんな無謀なことをせずに研究機関にいればもう少し長生きすることは出来ただろうに。
この世界に全ての天変地異を変えるような魔法などはない。これが現実だ。カクは一度だけ少女の亡骸を抱きしめると、そのまま抱き上げる。
何処に行こうか。何処に行くべきか。いまだ頭は混乱を極めて、糸がぐちゃぐちゃに絡まっているけれど、一つ一つ紐解いていかなければならない。どうして彼女が生まれたのか。何をしようとしているのか。彼女の存在した意義を残すとすれば、何をすればよいのかを。
カクはゆっくりと歩き出す。
ざあと吹き荒れる風は、今後の道を示すようであった。