謎の多い男

「黒岩って何食べんの?草?」

 穏やかなジャズメロディが静かに流れ、赤みを帯びた柔らかな照明が店内を包み込むバー・テンダーにて、阿呆なもの言いに呆れ、手を止めたのは黒岩満であった。手の中にあるグラスの中で、カランと音と立てて氷が崩れる。小気味良いその音はやけに大きく響いて、終わりに近い酒を一口煽った黒岩は、一瞥もなく冷笑を零す。

「可哀そうに、ついに頭がイカれたようだな」
「その口の悪さはどうにかならないわけ?」
「お前の発言ほどじゃあない」
「何よお……」

 ちょっとした雑談じゃない。女はそう言いながら、手元にある小皿からチーズを取って口へと運ぶ。むぐむぐと咀嚼を繰り返すうちは当然会話などなく、試しに爪楊枝で刺したものを彼の口元へと寄せてみたが当然拒否だ。これが海藤だったら「お、いいのか?」なんて言いながらニッコニコで機嫌よく受け取りそうなものなのに、なんて可愛げのない男だ。まぁ、だからと言って、海藤のようにニッコニコで受け取られても、逆に怖いのだが。

 ひとまず口元に寄せたものを引いて、もう一口と自分の口へと運ぶと、黒岩は「質問の意図は」と訊ねた。

「うん?……あぁ、ほら、最近アドデック9…抗認知症薬の話題がニュースに出てるでしょ?そのニュースの中で認知症の原因は虫歯とか、そういった歯の病気が関係しているかもしれないって言ってて……」

 先端創薬センターで開発が進められている新薬、アドデック9。 これは世界初のアルツハイマー型認知症の治療薬として、全世界に期待されている代物だ。
 これが本当に日本で実用性が認められたら。それこそノーベル医学・生理学賞レベルの開発だ。ゆえにアドデック9は期待の星だなんだと言われて連日ニュースに取り上げられているが「それが、俺と一体何の関係が?」。

「あ……いや、だって黒岩とはよく飲むけど、何かを食べてるところは見たことがないから、…っていう、……そういう連想ゲーム的な」
「……ハ」

 冷笑。
 この男、人に説明させておいて冷笑で終わらせたよ。

 そりゃああまり頭の良い理由ではないけれど、少しは会話を弾ませる努力をしてくれたっていいじゃないか。そもそも会話を楽しみもしないのなら、さっさと帰ればよいのに。××は声にも出さずに毒を吐き、零れ落ちそうな感情を酒を煽ることで飲み込んだが、一方でグラスを置いた黒岩がバーテンダーに向けて次を頼む。

「マスター、同じものを」

 どうやら、口が悪い割に、話しの延長を望んだようだ。

 バーテンダーが手慣れた様子でシェイカーに酒を入れて、小気味よい音を立てながらシェイクをする間、手持無沙汰の黒岩が伏せた掌にある人差し指でトントンと机を叩く。神経質な動作と言うよりも、思案のそれだろう。彼は暫くの無言を続けた後に静かに尋ねた。

「お前はどう思う」
「何が?」
「アドデック9のことだ。あれだけ騒いでいる話題だ、お前も少しは思うことがあるだろう」
「…っていっても別に当事者じゃないしねぇ……、……、……ただ、少しやるせないとは思うかもしれないわね」
「…、………やるせない?」

 黒岩が、薄く目を開く。
 彼女の回答は、彼のような隙の無い完璧超人の頭をもってしても、予想出来なかったようだ。××はグラス手に、手首を捻るようにして底を回して、呟いた。

「だって、そうでしょ。アドデック9には確かな効果が出るのか治験が必要になる。その治験を受けるのはいまアルツハイマーで困っている人だけど、結局完成品になるには時間がかかる。……つまり、その人がその人であるうちに完成する可能性は少ない」
「……」
「……風邪みたいに患者数が多ければ治験から完成までの期間は短いでしょうけど、治験を受けられるほど元気なアルツハイマーはそうは多くはない。……ましてや若年性アルツハイマーともなると、病気と付き合って仕事をしている人も多いでしょ?だから治験に参加できる人も限られてくると思うのよ。……だから、治験の人数を集めるのも、それから完成までも、きっとまだかなりかかると思うのよね」

 勿論素晴らしい発明であることは間違いないが、いくら頑張ったとて、いまアルツハイマーの人が浮ける恩恵は少ないように思えて、少し複雑に思う気持ちがある。自分のようにアルツハイマーを患っていない身からすれば、楽しみだなぁと呑気に構えられる話題だが、当事者は果たして同じ気持ちなのか。なんだか考えれば考えるほど口の中が苦くなるような感じがして、「あぁ、でも、勿論素晴らしい開発だとは思う」と、最後にそのようなフォローて話を締めると、彼女は黒岩を見て、そしてゆっくりと首を傾げた。

「……」
「……黒岩?」
「……、……」

 返答が返ってこない。彼はただ此方を見つめるように眼差しを向けたままで、なんだか少し物珍しく思えて「ちょっとぉ……人に意見を求めておいて黙るのやめなさいよね」と返すと、彼は視線を落とし、もう一度人差し指でテーブルをタップすると「そうか、……それで?何かそのアドデック9で情報を掴んだのか?」と訊ねた。

「うん?」
「そういうことじゃないのか」
「……だから、いま話したのはあくまで世間話よ。それに、病院関係は何かと面倒なことが多いから自ら面倒ごとに首を突っ込みたくないの」
「……」
「…なによ、また変なおかしなこと言った?」
「……いいや、懸命な判断だな」

 そう言って、黒岩は立ち上がる。視線はもう××に向けられる事もなく、バーテンダーは完成したばかりの酒を前に少し困惑した表情を見せるが、それは「此奴に」と言って、××は酒を受け取ることになった。
 目の前にはウイスキーを作ったカクテル割が一つ。度数の高い酒に、ゆっくりと飲むことになりそうだと思ったが、奢りなのであれば悪い話ではない。よって、立ち上がった黒岩に向けて「奢り?」と声を掛けるとまた鼻で笑われることになったが、きっちり一万円を置いていったので、まぁ、無礼な態度は許してやろうかと思う。