重厚な扉の前には、鋭い目つきをした警備員が立っていた。恰幅の良い男は存在感だけで一般人を遠ざける威圧感があり、彼らの背後にある扉の向こうには、華麗な装飾が施されたフロアが広がっている。そこから漏れ出る品のある音楽と柔らかい照明は内部の豪華さ引き立て、絢爛たるシャンデリアが天井から光を降り注いでいた。
そこは、会員のみが入ることが許される、クラブ・キアラ。政財界など多くの大物たちが一堂に会するこの場所は、表向きの華やかさとは裏腹に陰鬱な空気が漂い、違法薬物や酒、そして女が入り乱れ、様々な情報が飛び交っている。内容も政財界を揺るがすほどの噂や裏取引と様々で、声を潜めた会話の一つ一つが不穏な影を落とす。
そんな中、席を立った嬢の一人が美しいドレスを揺らして真紅のカーペットを歩く。その顔色は悪く、フロアを出た先で廊下を一人進むと横から伸びた腕がとつぜん彼女を捕らえたが、抵抗の声すらなかったのは、相手が身内であると分かっているからだろう。彼女は倉庫に引きずり込まれたあとも抵抗を見せず、手を引かれるがまま配膳係の胸板に身を寄せると、具合の悪そうな顔で呻いた。
「うぅ……」
「顔色が悪いと思ったら、随分と余裕が無いのう。……アネッタ、あらかた目星はついたか?」
「……五、六卓の、……、……」
「卓の?」
「百、合のブロー…チ、なみだ…ぼく、……ろ……あとは、カイゼル、髭の、人」
顔色が悪いとは思ったが、どうやら本当に余裕が無いようだ。
しかし、彼女に任務を与えた以上はそれをきっちりこなしてもらわないと。カクは体重を預ける体を抱いたまま、耳元で語る重要情報を聞き、あらかじめ用意しておいた無線でその情報をフロア内に点在する仲間に発信すると、彼女に向けて許可を落とした。
「…よし、よくやった。もうええぞ、アネッタ。身体のサイズを考慮すれば竜にも戻っても構わん。」
お前が楽な姿になるといい。その言葉を聞いた途端、美しく着飾った女の体はするすると体格や骨格を変えて、小さな竜へと変わる。その手のひらほどの小さな体は最早身を起こせないようで、差し出されたカクの手に体を倒し、ぐるぐると喉を鳴らす音が不気味に響いていた。
「……フロアは違法薬物や香水、葉巻の匂いが酷いからのう、お前のように鼻が良い獣にはきつかったか」
「頭がぐわんぐわんするよう……」
言いながら、けぽ、と少量の嘔吐を見せるアネッタ。
おっと、予想以上に無理をしていたらしい。お陰で手袋は濡れてしまったがカクは特に嫌がる素振りも見せずに手袋を外して、配膳の為に持ってきた配膳車に手を伸ばす。そこから袋に入れて縛った後には少しのあいだ休憩させてやろうかと思ったが、どうにもこうにもそうはいかないらしい。
突然、この倉庫に繋がる扉がごんごんと叩かれたのだ。
「アネッタさん、大丈夫かい」
「ここに立ち寄る姿をみかけたんだ」
「大丈夫、僕だよ。アルバートだ」
聞き覚えの無い声に、不愉快な声かけ。アルバート。アルバート。カクは記憶頼りに名前を復唱したあと、そういえば彼女の隣に座って、随分と熱心に話しかけていた男がいたことを思い出す。
「アネッタさん、此処にいるんだろう。一体どうしたんだい、具合が悪いのかい」
なんともまぁ、熱心なことだ。一体どうしてあれだけの短時間でのめり込めるのだ。まさか追ってきているとは思わなかったが、さすがにこの状況を見られるわけにはいかない。カクは少しの間思案を巡らせると、十秒とかからずに扉を開く男に向け、首を傾げた。
「あ?」
「おや、どうなさいましたかお客様」
間抜けな男の声に続く、柔らかい物腰の――若い男。服装から見て恐らくボーイだと思うが、まさか嬢が入った筈の倉庫に別の男が居るとは思わなかった。男は顔を真っ赤にして激昂し、彼女はどこだと騒いだが、彼自身この倉庫に隠れる場所が無い事をすぐに理解したのだろう。男は確かにこの部屋に入る様子を見たのにと困惑を示し、一方的に配膳車に敷かれた目隠し布を捲ったがそこにはタオルや袋などの資材が積まれており人の姿は無い。加えて一段目もワインを出す際に使われるワインバケツが伏せておかれているだけで、到底人が隠れているようには思えず、男は正気に戻った様子でごほごほと咳ばらいをすると気まずそうに呟いた。
「失礼、ここに探している人がいると思ってな」
「あぁ、いえ、見てのとおり、此方には誰もきとりません。……もしかしたらこの奥かもしれません。この奥は化粧室があるので」
「……なるほどそっちと見間違えたのか…きみ、ありがとう。これは間違えてしまったお詫びだ。取っておきなさい」
言いながら、少しのお札を握らせて倉庫を出る男。ただ教えただけで三万ベリーとは随分と気前が良いではないか。カクは小さく息を落としながらも配膳車を押して同じように倉庫を出ると、上の階にあるホテルの一室へと入る。
ああ、待機のためにホテルまで予約してもらって良かった。伏せたワインバケツを持ち上げて中から適当に丸めたドレスを回収し、皺になる前に広げて椅子の上にかける。
煌びやかな衣装や宝石たちを用意したカリファが見たら卒倒しそうな光景ではあるが、嘔吐物がつかなかっただけマシだと思いたい。ひとまずは配膳係の制服を脱ぎ、帽子を取って頭に乗せたままであった小さな竜を抱き上げると、二人部屋とだけあって矢鱈とでかいベッドに腰を下ろした。
「もうええぞ、アネッタ。戻れそうか」
「む、りい……」
「おうおう、此処までとは珍しいのう……しかし嘔吐した以上は水分を取らんといかんぞ」
膝の上に乗せてやると、うつ伏せでへちょりと垂れる小さな竜が、尻尾を揺らす。試しに頬あたりを指先ですりすりと撫でてやると喉がクルクルと鳴り、心地よさそうに瞳を細めるが、それが妙に愛らしく思えて仕方が無い。
頬を撫で、左右に伸びる縹色の角を撫でる。それから頭の頂点を覆う石を撫で、鼻筋をツウと撫でると、鼻の通りに溜まった匂いを入れ替えているのかフスフスと鼻が小刻みに空気を吐き出している。
それを見て、背中をグウッと丸めて鼻筋にキスをしたのはただの気まぐれ。しかしアネッタは尻尾をピンと立てながら驚きを示していたが、ゆらゆらと揺れ出すあたり嬉しかったようだ。クフクフと笑い、クルルルと喉を鳴らす彼女は目を細める。それから一体誰が気を利かせたのかベッドサイド近くに置かれたフルーツの盛り合わせから小さな粒が実るブドウを一つ取ると彼女の口元へと寄せて、もう一度頭を撫でた。
「フフ……可愛い奴じゃのうお前は」
クルクルと、グルグルと、喉鳴りは続く。果物を食べて大人しくしていれば少しは良くなるだろう。カクはフルーツの盛り合わせが入った皿をベッドの上へと招き、ついでにふかふかの枕を引き寄せて彼女を寝かせると、横にゴロンと寝ころんだ。
「あ、悪いんだぁ…ベッドの上で食べちゃダメなんだよ……」
「緊急事態じゃろ、それに此処はわしが片づけるわけじゃないしのう」
ブドウを一つ彼女の口に。自分は端の方にあるイチゴでも食べようか。全く、こういったお高いフルーツの盛り合わせには決まってバナナが入っていないのだから腹立たしい限りだ。カクは一つ、また一つと苺を口に放り込み、彼女が次を強請れば次を口元に寄せていたがそういえば強請る声が無くなっていることに気が付いた。
見てみると、いつしか小さく寝息を立てて眠る小さな竜が一匹。おそらく、気疲れに嘔吐などで体力的にも消耗していたのだと思うが、まぁひと眠りすれば体調もよくなっているだろう。最後に一つ差し出そうと思っていたブドウを口に放り込むと皿をサイドテーブルへ戻す。それから隣でぷうぷうと眠る彼女を見ていたが、彼女を黙って見守るのもつまらない。彼は大きく口を開いて欠伸を零すと、眠る彼女を見る。さて、彼女はどのタイミングで元の姿に戻るだろうか。いま戻ったら素っ裸だが、まぁ、彼女のことだ。大して気にせずにおはようと言いながら瞼を擦るのかもしれない。
ひとまず今の彼女には大きすぎるタオルケットをかける。小さな竜は夢でも見ているのむちゃむちゃと口を動かして、それを見ていたカクもいつしか睡魔に誘われることになった。グウグウと、ぷうぷうと二人分の寝息が響く。途中、仕事を終えた仲間たちが部屋に訪れたが彼らは息を落とすだけで声を掛ける事は無く、ふたりが目覚めたのはとっぷりと日が暮れたあとのことであった。