彼の瞳に、私は映らない

 カクが前世の記憶を持っていると知ったことは特に言っていなかったが、あっさりと、そりゃあもうあっさりとカクに気付かれた。きっかけはおしゃべりなフクロウから。不在時の出来事だったので何がきっかけかも分からないが、後の祭りだ。だから別にそれ自体は構わないのだが、それ以降、明らかに彼の距離が縮まって、少しだけ困っている。


「ねぇ、カク君と付き合ってるって本当?」

 放課後、教室を出た先で尋ねられる。相手は三組隣の生徒で、ええと、名前はなんだったか。クラスが被った事もないのでうろ覚えだが、確か、アンナマリーとか、ルーマリーとか。とにかくなんとかマリーと名前だったと思う。つまり、彼女とはそれくらい関わりがないのだが、向けられた視線は敵意に満ちている。

「えー……っと?」

 思わず詰まる声。そもそも付き合ってもいないし、そんなことは公言していないはず。それに、噂の出どころだって分からない。一緒に居た姿を見てそう思ったのだろうか。しかし、ワナワナと震える肩を見るに、ただのあてずっぽうという訳でもなさそうだ。アネッタは腕を掴む手に視線を落とし、噂の彼が好みそうにないゴテゴテの爪を見て、ゆっくりと視線を合わせた。

「私とカクは幼馴染だよ」
「そして、恋人関係じゃな」

 突然、後ろの方から声が聞こえ、どきりと心臓が跳ねる。だって、この声は噂の彼だ。その証拠に、目の前の彼女が驚いている。「な、なんで、」「だってカクくん恋人はいらないって」「私の告白だって断ったじゃない!」続く言葉は初耳の事ばかりで、同じように視線を上げると、カクは愛想の良い笑みを向けて、アネッタの肩を抱きながら明言した。

「そう。こいつ以外、恋人はいらんということじゃな。……ワハハ、長い間片思いじゃったからのう、面倒でそう言っておったんじゃ」
「……、……ひどい、ひどいよ。私はずっと、前からカクくんのことが好きだったのに」
「たかだか二年じゃろ?」

 ひんやりとした冷たい言葉。それでも諦めきれずに出された言葉は恨み言で、アネッタに向けられる視線はどんどんと厳しいものになる。しかし、カクはそれでも肩を抱いたままで離そうとはせず、やがて生徒が走り去っていくと、彼は乾いた笑いを落とした。

「自分の思い通りにならないだけで酷い……か。……勝手な女じゃのう、全く」

 何もされておらんか。
 反して、柔らかい声が向けられる。アネッタは、少し不思議そうな声色で尋ねた。

「……ええと、……私たち、付き合ってたの?」
「うん?」
「だって、付き合ってるって言ってたでしょ?」
「あぁ……前世の記憶を持っていると全て理解した上で一緒におってくれるんじゃ、そういうことじゃろ?」

 離れる理由が無かったから一緒にいるだけで、まさかそこまで曲解されるとは思いもしなかった。向けられる期待に満ちた眼差しと声色は、どこか普段よりも明るい。それを見ていると、とてもじゃないがきっぱりと否定することも出来ず、まぁ付き合う相手がカクなのであれば良いかな、なんて軽い気持ちで「そっか」と言うと、カクは幸せそうに笑み、腰に腕を回した。

「はー……幸せじゃのう……」
「どうして?」
「そりゃあそうじゃろ、ワシャこの瞬間を二千年も待っておったんじゃぞ」

 言いながら、腰を抱く手にぐっと力が籠る。

「アネッタ」

 意識を引く声は柔らかく、長い睫毛が近づいてくる。アネッタはそれに一瞬身を強張らせて、たまらずといった様子で彼の口元を両手で抑えたが、彼は不満げだ。呟く言葉は、小さな子供のように拗ねている

「なんじゃ、駄目なんか」
「……え、っと、だって、私の記憶は戻ったわけじゃないから、その」
「……あとはお前の記憶が戻れば、完璧なんじゃけどなぁ」

 代わりに肩にぼすんと頭を預け、残念そうに零す声。その声は明確な落胆を示し、なんとなく胸が痛む。
 記憶があろうが、なかろうが、私は私なのにな。けれども彼からすれば、完璧ではないらしい。熱を持って見つめている先だってきっと前世の自分であり、いまの自分ではないことが気になって仕方がない。なんだか、喉に刺さった小骨のようだ。


「帰ろうか」

 そうして子供の頃のように手を引いて歩き出し、つないだ手には指が絡む。彼とは小さい頃によく手をつないでいたけれど、その時とは全く異なる繋ぎ方だ。彼の長くしなやかな指はアネッタの指の合間を通り、包み込むように柔らかく手を握る。それがなんだか特別を示しているようで、少しだけ胸が暖かくなって、やっぱり彼女という立ち位置は悪くないのかもしれないなんて思ったが、物事というのはナアナアでいるべきではなかったのかもしれない。
 帰り道に立ち寄った先で、カクが呟いた。

「のう、覚えとるか?わしが迎えにきたことを」
「勿論!急にゲリラ豪雨になったときだよね」

 そこは、養護施設・グアンハオの森近くにあるタコ公園であった。公園の真ん中にはシンボルとなっているタコのモニュメントがあり、うねうねと伸びる足は滑り台になっている。

 アネッタは当時を思い出して公園内へと足を進め、久しぶりにタコのモニュメントへと近付いてみたが、なんだか小さくなったように感じる。いや、自分が大きくなっただけか。考えながら階段を上り、いまの自分には狭くなった滑り台を滑る。その下でカクはいつものように待っていて、そういえば、昔から彼はこうやって、ひとり滑り台の下で待ってくれていた。当時はどうして一緒に滑らないんだろうと不思議だったけれど、今なら分かる。あの時いっていた「ワシャ子供じゃないからな」という言葉の意味も。無理やり一緒に滑った時に、少し気恥ずかしそうな顔をしていた意味も。

「……ふふ、懐かしいな」

 立ちあがり、今度はタコの中心部に。中心部にある頭の部分は、空洞になっており下から入るとちょっとしたスペースになっている。中を覗いてみると誰かの忘れ物らしいスコップと、それからバケツが置かれており、ゲリラ豪雨でひとりだけ取り残されたときのことを思い出した。あの時も、あんなふうに持ってきた遊び道具を抱きしめながら、ゴウゴウと鳴り響く雷の音に震えていたっけ。

「……あのとき、カクが迎えにきてくれて嬉しかったなぁ」

 両親を亡くした時と同じような豪雨と雷。施設まではあと少しだったのに、どうしてもあの日のことをフラッシュバックさせる雷が怖くて動けなかった。心細くて、怖くて、寂しくて。でも、びしょびしょになったカクが迎えにきてくれた。「大丈夫か、わしがついておるからな」それが、どれだけ自分にとって嬉しかったか。どれだけ救われたか。あの時のことは、きっとこの先も忘れないと思う。
 でも、そうやって大切な思い出だと思っていたのは、自分だけだったのかもしれない。
 カクは穏やかに笑いながら、言った。

「……おまえは昔っから…前世の時から雷を怖がっておったからのう。……あの頃と変わらんな、お前は」

 眼差しが語る、愛情の色。
 その目は一体誰を見ているのだろう。思わず後ろを振り返りたくなるような感覚に、アネッタは言葉を失い、そしてじわじわと蝕む感覚に唇を噛みしめた。

「……」
「……アネッタ?」
「……ひどいよ」

 なんだ。彼は、私なんか見ていないじゃないか。私を前世のだれかに重ねているだけなのだ。そう気付いた瞬間、酷い不快感が走る。だって、この思い出は私が彼に強く惹かれることになったきっかけなのに――。カクも大切に思ってくれていると思っていたのに。
 アネッタは深い絶望感に立ちあがり、涙を落とす。カクもそれが喜びからの涙ではないとすぐに気付いたようで隣に立つが、それでも涙を落とす原因が分からない。カクはどうすればよいかもわからず声を掛けると、次の言葉に大きく目を開いた。

「……ごめん、…カク、と、つきあ、うの……無理だぁ……」
「は……?なに、言って」
「……だって、私記憶が戻ってない、……なんにもわかんないんだもん……」
「っアネッタ、わしは、わしはお前であれば、それで」
「っじゃあ私が!…私がこのまま一生記憶を取り戻さなくても、今の私だけを見てくれる……?」
「それ、は……」

 一瞬の落胆。ほら、これが答えだ。これが答えなのだ。彼はアネッタを見ているようで見ていない。前世と重ねているだけなのだ。アネッタは心臓を直接握られているような痛みに呻きながら体を離すと、分かりやすく瞳を揺らすカクに向けて涙を落としながら言い、肩を震わせた。

「……、……ほら、ね?……駄目だよ、私は、カクと違って記憶が戻ってないんだもん、完璧じゃない私じゃ、駄目なんだよ……」

 それにね、何より、私じゃない人を見て比べているカクは、つらいよ。
 これって、とても辛い事なんだよ。
 そう言いたかったけれど、これだけは言えなかった。二千年も待ち続けているというカクのことを思うと、とてもじゃないが言えなかった。ただ、この場でカクと話を続けていることも、顔を見ることもいまは耐え難い状況で、アネッタはあの日を演出するように降り出した雨をきっかけに後退り、

「ごめん」

 そう小さく呟いて、制止も聞かずに走り出した。


 走って、走って、走る。行先なんて考えていない。ただ、とにかくいまは走ることしか出来ず、気付けば両親が眠る墓石の前にいた。

「……っぅ……うう………」

 雨が強くなり、白糸のように幾線も降り注ぐ雨が、全身を濡らして沈黙を奪う。
 どうしてこうなっちゃったんだろう。全部、全部知らなければ。全てを知る前に戻れたらよかったのに。
 アネッタは応えもしない墓石の前でしゃがみこみ、表情を歪めながら嗚咽を漏らした。

「う…っ、…おか、あさん……おとー…さん……」

 養護施設に帰っても、このことを話せるような人はいない。でも、目の前にある墓石だって喋らない。どうして、こんなに泣いてるのに返事をしてくれないのだろう。雨に濡れても分かるくらい花を萎びた状態にしていたからだろうか。それくらい、墓参りが出来ていないからだろうか。いや、いいや、分かっている。彼らは死んでいるからだ。けれども、どうしようもなくいまは恋しい。誰でもいいから話を聞いてほしい。アネッタは濡れ鼠まま、制服のスカートが汚れることも厭わずに座り込み、頭を垂らした。

「……かえ、りたくないなぁ……」

 こんな時、いつもだったらカクが迎えにきてくれるのに。馬鹿じゃなぁお前は。そんなことを言って、笑って迎えにきてくれるのに、今日はこない。いいや、きっと、もう迎えになんかきてくれない。そう考えると、たまらなく悲しくなってきて、嘘でも全てを受け入れていればよかったと後悔が溢れたことで下から浮かび上がったそれに気付いて、小さく笑いを落とした。

「……ああ、そうか……私はカクのことが、好きだったんだ……」

 だから、こんなにたまらなく悲しいんだ。
 今になって、ようやく彼が好きだと気付いたのに、彼はもういない。それどころか、ずっとずっと、自分ではない人を見て、重ねていただなんて。なんと虚しいことだろう。私はいつかの誰かにならないと、完璧ではないと言われて愛を受けられないだなんて。
 適当な考えで頷いて、思い通りにならないと突き放して。「自分の思い通りにならないだけで酷い、か。……勝手な女じゃのう、全く」学校で言っていた彼の言葉が、いまになって首を締める。

「ぅ…っ……うう……ッ、……カク……、カク……」

 白糸のように降り注ぐ雨が、身体を濡らし体温を奪う。頭もぐっしょりと濡れて、なんだか体が鉛になったように重く、目の前にある墓石が雫を流し続けて早く帰るよう語り掛けるが、聞き取ることの出来ないアネッタは恋しさと、胸を締め付けるような辛さに頭を垂らすことしか出来なかった。


「……アネッタちゃん?」

 その時、明確に自分へと向けられた言葉が降り注ぐ。アネッタが顔を上げると、そこには傘を差した黒ぶち眼鏡のサッチが立っていた。彼は目が合うや否や驚いた顔で、膝が濡れることも構わずにしゃがみこみ、肩を掴む。「どうした」「体がこんなに冷たくなって」「何があったんだよ」そう尋ねる声は続いたが、此処は寺併設の墓地であり、目の前にある墓を見て、何か並々ならぬ事情があると察したようだ。彼はそれ以上追及することもなく、優しく声を掛け続けた。

「……ひとまず、場所を変えようか。このままだと風邪ひいちまうよ」
「……、……ほっ、といてください」
「……君らしくないぜ」
「……、……」
「それとも、お嬢様抱っこをご所望か?」

 彼の持つ傘が雨を拒み、大きな手が頭を撫でる。あーあー、こんなに濡らしちまって。呟く言葉はどこまでも穏やかで、アネッタはぐっしょりと濡れたスクール鞄を手にゆっくりと立ちあがると、彼もいっしょになって立ち上がる。そうして向かった先は寺の本堂で、彼いわく、昔からの知り合いとのことらしいが、其処で受けたもてなしは暖かい。
 結局替えの服まで貸してもらい、ついでにお風呂まで入らせてもらったことで風邪を引くことなく済んだが、落ち着いた後も寺の本堂からざあざあどうどうと地面を打つ大雨を眺めるサッチはひとり帰ろうとはせず、何も言わず隣に座っていた。

「………、ごめんなさい」

ぽつりと、アネッタが呟く。

「うん?」
「迷惑かけて」
「…はは、……ま、誰にだってそんな日はあるさ」

 スン、鼻をすする。肩にかけられた彼の上着は素人に見ても上質だと分かるもので、ふわりと香る落ち着いた香水が自分を落ち着ける。その一方でなんだかそれを借りているのは申し訳なくて、もう温まったからと返そうとしたが、サッチは笑いながらもう一度差し出されたそれをかけなおす。

「いいんだよ、風邪ひかないように羽織っときな」

 そのまなざしは、子猫を見守るような、暖かいものであった。

「なぁ」
「え?」
「……あの墓は、ご両親のものかい」
「え、あ、……、……はい。交通事故で亡くなって」
「そうか、……っと、いや、あんまり聞くもんじゃねぇな、悪い」
「いえ、亡くなったのも私が五歳の時…だからもう十二年前の事ですし」

 もう随分と前のことですよ。
 言いながら、視線を落とす。それからアネッタは胸に残るものを吐き出したいという気持ちと、彼ならば聞いてくれるのではないかという淡い期待感から、小さく呟いた。

「あの、その、……そ、相談してもいいですか?」

 それは、アネッタなりの精いっぱいの我儘であった。

「はは、勿論。おれでよければ」
「……、……あの、…その、………」
「……もしかして、恋の悩み?」
「っ!、ぁ、いや、あの、その!」
「いいねいいねぇ、おれっちコイバナとか大好きなんだよ!」

 口ごもるアネッタとは対照的に、弾む声に弾ける笑顔。あ、この人ほんとうにコイバナが好きなんだ。とは思ったが、彼があんまりにもウキウキとしてくれるから、此方もなんだか話しやすい。しかし、さてはてどう話したものか。もちろんここで素直に話すのもいいが、前世の話なんかを持ちだしたら頭の可笑しい女だと思われてしまう。
アネッタは胸に手を当て、一度だけ深呼吸をして呟いた。

「えっと、あくまで物語の話なんですけど、」
「お?いいね。いいよ、漫画や小説の話でも」
「ええと、その主人公が好きな人に告白されたんですけど、実はその好きな人は……ええと、前世の記憶を持っていて……んと…好きな人は前世で好きな人と重ねてる…というか」

 自分で言っていて、なんだか胡散臭くなってきた。それでもこれまでのいきさつを物語に変えて話すと、サッチはなんだそれと笑うこともなく、特徴的な顎髭を触りながら息を零した。

「はぁ…成程なぁ。でもその主人公も悲しいよなぁ。いくら前世の自分とはいえ、記憶にねぇ女と重ねられてるんだもんな」
「そ、そう…!そうなんです、だって記憶にないのに、全部昔はよかったとか昔話絡みにされて」
「……いやぁ、こいつは難しい話だよ。本当。おれはどっちの気持ちも分かるっつーかさ」
「え?」

 予想外の言葉に、驚きの声が落ちる。
 サッチは構わずに続けた。

「確かに主人公も重ねられて、悲しい気持ちは分かる。でも好きな奴からしても、二千年だっけか。生まれ変わるのを待って、やっと自分のことを意識してくれたわけだろ?そりゃあ、感情が溢れちまうよなぁ」

 おれだったらどうかな。もっと溺愛してたかも。そう語る言葉は小馬鹿にするようなものでもなく、真剣に考えて弾き出した言葉のようで、アネッタはそこでようやく、彼が幸せそうに笑っていたことを思い出した。
 そうか、普段はいつも冷静で大人びているから分からなかったが、彼もまた、浮かれていたのか。そう気付いた瞬間、確かに同じ立場であったら同じことをするかもしれないと、あのとき彼がキスをしようとした理由もなんだかわかったような気がして、あれだけ悲しかった気持ちが気付けば薄くなっていた。

「……まぁ、でも、前世のことを知らない主人公からしたら、しんどいよなぁ。どちらの気持ちも分かるだけによ」
「……もしもサッチさんが、主人公の立場だったらどうしますか?」
「え?」
「だって、これじゃ好きな人はきっと、どうあっても重ねちゃう。でも二千年も一途に想い続けてくれた人に重ねるな、と言うのも、言われるのもきついと思うんです……」
「……そうだなぁ」
「……やっぱり、もう主人公と、好きな人はダメなんですかね」
「お互い想い合ってるんだろ?ならダメってことはないさ」
「でも……」

 アネッタは視線を落とす。人生経験の浅い彼女には、最善の策が思い浮かばなかったからだ。サッチはその様子に、ふっと息を漏らすように笑いドライヤーでふわふわに仕上がった髪の毛を撫でると白い歯を見せて笑った。

「……何も白黒つけるばっかりが正しいことじゃねぇよ、大人だって、なんとなくモヤモヤを抱いたまま生きてるし、むしろ明け透けに全てを離す事の方が稀だ。……だからよ、せめて思い出を重ねて話さないとか、そうやって話をしながら落としどころを見つけるのさ」
「落としどころ…」
「…好きなんだろ?好きな人のこと。…あ、主人公が」
「………はい、とっても」
「そっか、じゃあそれも伝えた上で話していけるといいな。自分たちがどうやったらうまくやっていけるかを」

 気付けば、ざあざあどうどうと降っていた雨がやんでいた。雲の切れ目からは眩しいほどの光が差し込み、青空が広がって、遠くの方には虹が見える。それがなんだか自分の心情を語るようで、なんだか眩しいなと見ていると怒鳴り声が辺りの静けさを破り、アネッタは瞬きを繰り返す。

「ッアネッタ!!」
「カク?!」

 視線の先にある本堂の下には、カクが立っていた。雨のなか傘も持っていない彼は先ほどの自分と同じように濡れ鼠状態で、彼は雫を垂らしながら本堂へと靴のまま駆け上がって腕を引くが、その力強さと言ったら。あまりの力強さに骨が軋み、痛みが走る。たまらずアネッタが呻くと間に仲裁に入ったものの、どうやら逆効果だったらしい。カクはサッチの手を弾き、乾いたばかりであったアネッタの体をグイと引いて抱きしめると、牙を向けるように睨みつけた。

「……っ白ひげ一家……!」
「おお怖い。なんだよ、おれは彼女を助けてやったんだぜ、坊主」
「……どうだか」

 口元を緩めておどけるサッチと、睨みつけたままのカク。まさに一触即発の空気だ。アネッタはぐっしょりと濡れたカクに抱き寄せられたままウゴウゴと身を動かす。

「あ、ま、まって、違うの、サッチさんがずぶ濡れでいたところを助けてくれたの」

 訂正をするには言葉だけでは弱いか。彼女は少しばかり湿ることになったオーバーサイズのシャツを見せると、カクは聞き返し、アネッタはもう一度真っ直ぐに見つめたまま、頷いた。

「……本当か?」
「うん、本当。本堂に入れるよう交渉してくれた上に、着替えも貸してくれて……あ、お、お風呂だって入らせてもらったんだよ」

 ほら、髪もちゃんと乾いてるでしょ?
 沈黙。敵意を見せた後ではしまらないとカク。当然サッチもそれをよく理解していたので彼が謝罪なり礼を言うことはないだろうと期待はしていなかったが、彼は誰よりもアネッタのことを大事にしている。カクは彼女が示すふわふわと揺れる髪の毛を見つめると眉間に皺を寄せたまま、小さく息を吐き出し、そっと体を離した。

「……、……、…………礼を言う」

 まぁ、宣言だけで実際にありがとうとは言わなかったが、それでも彼が感謝を伝えたのは初めてのことだ。サッチは目尻に皺を作りながら笑みを浮かべて笑いを落とすと、手を引かれた際に落ちた上着を拾い、胡坐をかいた膝をぽんと叩いてから立ち上がった。

「……はは、じゃあおっさんは帰りますかね。あ、アネッタちゃんも、あとはよーく話すんだぜ」
「あ……、……はいっ」

 じゃあ、また。その言葉にアネッタは頭を下げる。それから続く言葉は「サッチさん、さよなら!」と別れを告げる言葉で、サッチはそれに気付かずに手を上げた。

 そうして取り残された二人。アネッタはカクの手を引いて本堂に入るように言い、そこでバスタオルをかけてやったが、カクは普段よりも大人しく頭を垂らしている。
 アネッタは静かに問いかける。

「……、……探しにきてくれたの?」
「……当たり前じゃろ、わしがお前を探さないと?」
「……酷いこと言ったから、もう、迎えにもきてくれないかも、って」
「わはは……馬鹿な女じゃのう……記憶があろうとも、なくとも、わしにとって、お前はこの世でたったひとりだけの存在じゃ」

 すまんな。もっと、しっかりと言ってやるべきだった。カクは自分の過ちを認め、頭にかかるバスタオルの合間から瞳を覗かせる。その瞳は真っ直ぐにアネッタを見つめており、あれほど自分の背後が気になっていたのに、いまは気にならない。いつもと変わらない彼が、其処に立っていた。
 あ、たぶん、気持ちを伝えるならこの時だ。
 アネッタは大きく瞳を揺らし、カクの濡れて冷たくなった手をとって、涙を落としながら言った。

「……っ…………わ、私、」
「うん?」
「好きなの、………カクのこと」

 沈黙。多分、これだけで言葉を終えればカクは喜び、ハッピーエンドだと思う。
 アネッタはそれを理解しながらも、好きだからこそきちんと腹を割って話さなければならないと、言葉を続ける。

「……でも、私は前世の記憶を持っていない。……だから、カクが知っている私にはなれない。それに、大好きなカクが前世の私と比べるのも、辛くて」

 もう少し、カクみたいに二千年待てるような辛抱強さがあったら。
 冷たい手を包み込む、小さな手。その手は暖かいが、言葉は緊張で震えている。

「アネッタ……」

 カクは一瞬、言葉を失う。それから改めて自分がこれまでに行ってきた愚かな行動や言動を悔やみ、静かに謝罪を重ね、時には涙を拭ったが、決して彼女は頷いてはくれなかった。

「……、…………すまんかった、アネッタ、……」
「…っぅ……ごめ、…ごめん、ねぇ……」
「何を謝ることがあるんじゃ……、……のうアネッタ、わしはお前のその気持ちだけでええんじゃ。お前がわしといてくれるのなら、わしは、それだけで」
「ちが、…っちがうの、十分、じゃない、の。だって、これじゃあカクは幸せになれないじゃない!」

 カクからすれば、彼女が居ないことの方がよほど不幸だ。
 だから彼女がいてくれるのであれば、今までのように前世の話などをせずに生きていけると、そう思えたのに、彼女はそれを認めない。「だってこんなの悲しすぎるじゃない。ずっと待ち続けたのに、カクだけ幸せになれないなんて」そう訴える言葉は、心の底から想うからこその言葉だと思ったが、報われない。自分ではいけないと続けるアネッタには違和感を覚える。
 まるで、少しの感情もいまのアネッタには向いていないと言っているようではないか。カクは子供のように泣きじゃくる彼女の意識を引き付けるように、手を包み込む彼女の手に、唇を押し付けた。

「…アネッタ」

 見つめた瞳は、涙で濡れている。

「……いいか、アネッタ。ワシャたしかに前世のお前が好きじゃ。……夫婦じゃったからな。……でも、お前はお前で、好きなんじゃ」
「え?」
「わしは、ちゃんとお前が好きじゃぞ」
「……」
「……昔、覚えとるか?川に入って怒られたこと」

 カクの瞳は、真っ直ぐにアネッタを見つめている。

「あ……っと、カクの帽子を取ったとき、のこと…?」
「そう、あのときお前は久しぶりに新品の靴を買ってもらったと大喜びで履いておったのに、わしの帽子が川に飛ばされたのを見て、まったく躊躇せずに入ってずぶぬれの泥まみれにして取りにいったじゃろ」
「……うん」
「あの時、お前は新しい靴だったのにその状態で川に入って、わしの帽子を取って嬉しそうに笑っておったんじゃ。カク、とれたよ!って。……わはは……それがえらく嬉しくてのう……」
「……」
「……自己犠牲と言うのか、こうやって誰かのために我慢してしまうところは考えものじゃが、…けどな、お前のその心優しいところが好きなんじゃ」

 普段は我儘で、泣き虫なくせに、彼女はあっさりと誰かを優先してしまう。あの時だって、その日買ってもらった新しい靴を自慢げに見せては「いっしょうだいじにするんだ!」なんて言っていたくせに、一つの躊躇もなく川へと入ってしまった。そのとき、きらきらと日差しを受けて光る水面が、彼女の笑みが重なって「カクとれたよ!良かったねぇ!」と笑う顔はやけに胸を弾ませた。
 まぁ、そのあとは職員に相当怒られることになり、幼い彼女は鼻水を垂らしながらワアワアと泣いていたが、それでも彼女があのときの行動を後悔することはなかった。
 その、いつだって馬鹿みたいに人を想う気持ちが自分にとっては眩しかったし、たまらなく泣きたくなるほど、嬉しかったのだ。

「カク…」
「だから……わしの幸せを考えてくれるのなら、わしと一緒におってくれ」
「……っず……わ…私、でいいの?何も、覚えてないんだよ?」
「言ったじゃろ。お前がわしといてくれるんなら、それだけで十分じゃ」
「………えへ」

 彼女は知らないのだ。どれだけ彼女のことを愛しているか。どれだけいまのアネッタのことも、同じくらい愛し、可愛くて仕方が無いと思っていることも。
 まぁ、それを表現してこなかったのは、怠慢でしかないか。カクは頬を紅潮させて気恥ずかしそうにはにかむアネッタを見て、涙を拭いながら小さく尋ねた。

「……、……、……のう、キスしてもええか」
「えっ」
「……駄目なんか、わしのこと好きじゃ言うとったじゃろ」

 驚き、瞳を揺らすアネッタ。その煮え切らない態度に唇を尖らせると彼女は「いや、そ、そうだけど」「その、…ねぇ?」「その、恥ずかしいと言うか」とかなんとか言っていたが、こればっかりは昔から変わらないし、昔も、それから今の彼女も可愛くて仕方が無い。

「じゃあわしの勝手にする」
「へ」

 そういった瞬間、ひんやりと冷たい指が顎を掬い、少しの沈黙が訪れる。それから彼は少しだけ嬉しそうに笑って「好きじゃぞ」と普段よりも落ち着いた声で囁いたが、色々と感情が追い付かずに「ひゃい…」と零れ落ちた言葉は、間抜けに響いた。