バレンタインデーに休日を貰ったので、アップルパイを作った。理由は、なんとなくの暇潰し。前に幼馴染のカクがアップルパイを食べたいと言っていたことを思い出して、朝から家にある林檎を砂糖で甘く煮詰めてみたのだが、気まぐれで始めたにしては上手に焼きあがった。
「私、天才かもしれない……」
黄身を塗って艶を出した黄金のパイ生地に、可愛らしく飾り付けた編み込みとリーフの飾り。ふんわり香る甘酸っぱさは成功の証だろう。……こんなに上手に出来たのは、初めてかもしれない。だからカクに分けてやろうなんて考えで、一切れも食べずにバスケットに詰めて部屋を出ると、ガレーラカンパニーの敷地前で盛り上がる人影に気が付いて足が止まった。
「あのっ、カッ、カクさんこれ貰ってください!」
「おお、貰ってええんか?嬉しいのう」
「カクくん私のも受け取って!」
女の子たちに囲まれる、頭一つぶん背の高いカク。きゃあきゃあと弾む黄色い声に、この日のためにお洒落をした少女たちの手には、可愛らしいラッピングの施された贈り物があり、カクの両手はそれらでいっぱいいっぱいな様子。
対して自分はどうだろうか。 今が一番おいしいから!と、それだけの理由で、ろくに身なりも整えずに家を飛び出してきた。走ってきたせいで髪は普段よりもボサボサで、服装だっていつも通り。幼馴染だからと気楽に構えていたが、周囲を見れば、みんなは今日この日のためにきちんと準備をしてきている。
場の雰囲気にそぐわないのは、自分だけじゃないか――。そう思った瞬間、急に気恥ずかしさが込み上げて、思わず視線を落とすと近くに立つ職人の一人が「渡さないのか」と尋ねてバスケットを見る。これをカクに渡そうと思っていることを、目敏く気付いたらしい。
「……あんなに貰ってるから、いらないよきっと」
上手にできたし、カクが美味しいと言ってくれたらいいなと思いながら作った。だけど、彼女たちを前にすると、ちっぽけな理由に思えてならない。……それが何故なのかは分からないけれど、兎に角あしが前に動かないのだ。
「そうか?」
「そうだよ、カクって別にすごい甘いもの好きってわけじゃないし、あんなに貰ったら、……私のなんか」
言いながら、手にしたバスケットをぎゅっと握りしめる。そこまで口にしてしまったら、どうしようもなくみっともなく思えて、仮面を被るようにパッと笑みを浮かべた。
「ほら、これ差し入れ!みんなで食べてね!」
無理やり明るい声を作って、一緒に持ってきた差し入れだけを渡す。それから背を向け、バスケットを両手で抱えるようにして駆け出した。できるだけ遠く、あの黄色い声が聞こえないほど遠くへ。
どこへ行くとも決めずに、ただ無心で走った。人混みをすり抜け、石畳を蹴り、胸の奥で渦巻くもやもやを振り払うように走る。それでも心のざわめきは収まらず、足が重くなるまで走り続けて家とは間反対のところでベンチが目に入り、そこへ腰を下ろした。
「はぁ………っ疲れたぁ……」
バスケットを抱えたまま、肩で息をする。いまだ胸の奥がじんわりと苦しくて、パイの甘い香りだけが手の中に残っている。
すう、はあ、すう、はあ。呼吸を整えながら空を見上げる。空は憎たらしいほどの青天で、遠くで首の長い鳥たちが列をなして飛んでいる姿が見える。……どいつもこいつも、仲良さそうにしちゃってさ。最後にゆっくりと息を吐き出すと、自分の膝に置いたバスケットを見て呟いた。
「…………あ、これも渡してきたらよかった」
どうして差し入れだけを渡してしまったんだろう。アネッタはひとりで悔いを零す。どうせカクに渡さないのなら、みんなにあげたらよかった。そうしたら一番おいしいタイミングで食べて貰えて、あの上手に出来た飾りつけだって誉めてもらえたかもしれないのに。
なのに、あのときは渡す選択肢が出なかった。そうやって少しずつひも解いていくと、靄が掛かっていた答えが見えたような気がして、
「私、カクにあげたかったんだなぁ……」
そう零すと、突然目の前を影が覆って声が降りてきた。
「なんじゃ、わしにくれるんか?」
目の前には、カクがいた。彼は隣に座り、膝の上にあるバスケットを見る。それから中にあるアップルパイを見た彼は断りもせずに一切れを手で掴むと、先のとがった部分を頬張って頬を緩めた。
「んん、うまいのう!」
「へ、え、あ、カク、仕事は……?」
「ん、小休憩中じゃ。わしだけ遅くに入ったからのう」
「あ、そ、そう……」
「しかしこれは絶品じゃのう……もう少し時間があったら味わって食べられるんじゃが」
昼休憩で食事を取れなかったのだろうか。あんなに贈り物をもらっていたのに、彼は一つ、また一つとハイペースに食べ進めていく。あまりの勢いに事情も聴けずに呆けていると、カクは四ピースほどを食べたあと親指に残るパイ生地を舐めとると「あとはお前と一緒に食いたいから、持って帰ってくれるか」と尋ねた。
「え?」
「流石にこの量をわし一人じゃ食いきれんし、……何より一緒に食いたいと思ってのう」
駄目か?彼が不思議そうに首を傾げると、じわじわと空っぽに感じていた胸が暖かくなるのを感じて、つい彼の袖を掴んで「カクの部屋で食べても良い?」と言ったのは、ちょっとした甘えというか、勇気だったのだと思う。
他の女の子よりも優先されたいと、そう思ってしまったのだ。
「……わはは、勿論じゃ。……今日は残業できんのう」
瞬いて、目尻に皺を作るように目を細めて笑いながら立ちあがり、頭をぐしゃぐしゃと撫でる。それからポケットに手を突っ込んだ彼は船のキーホルダーを付けた鍵を手渡して「うまかった!」と「夜もこのアップルパイとうまい飯を期待しとるぞ」と言うと足早に走り出し、また街を駆け巡るように港へと向かった。