深夜帯。眩しい白光を背に帰還したわしらは、報告を終えると長官室の前で別れた。それぞれの行き先は分からないが、深夜帯であることを考えると大方自室であろう。ならば自分も自室へと。そう思いはしたが、不思議とわしの足は言う事をきかなかった。それが疲労なのか眠気なのか、はたまた別のことが原因なのかは分からない。とにかく足がもつれて上手く動かすことが出来ず、まぁこんな日もあるかと仕方なしに窓際に凭れかかって少しばかりの休憩をしていると、普段は先頭を歩いていの一番に去っていくような男が「おう、どうしたよ」と声を掛けてきた。なんだ、らしくもないことを。
「なんじゃジャブラ……別に、何もないわい。」
「あァ?人が心配してンのに可愛くねぇなぁ、このガキは」
「余計なお世話じゃ」
言ってしまえば、この男も年こそ離れているが、アネッタと同じように幼馴染に近い関係性だ。だから付き合いが長い分、察しが良いようで、わしの顔を見たジャブラはハァッと大きく息を吐きながら「お前は何年この仕事をやってんだよ」とぼやいて頭を掻いた。
「嫌味なら受け付けておらんぞ」
「嫌味じゃねぇよ、正論だろうが」
頭に降りかかるジャブラの正論とやらが酷く不愉快だ。しかし、頭を掻いていたジャブラの手がぴたりと止まり「ああ、お前…アネッタが大怪我したこと気にしてんのか」なんて言葉を落とせば話は別だ。わしは目を大きく見開く。
「……は?」
落ちたそれは、存外低い音だったかもしれない。
アネッタが怪我?確かアネッタは昨夜別の任務に出た筈で、もう帰還している筈だ。
其処で怪我をしたなんて、わしには何も。
「ああ、お前ら喧嘩してるんだっけか。あの馬鹿、昨日任務にでた時に子供を庇って切られたんだよ。」
馬鹿だよなぁ。アイツも何年殺し屋稼業をやってんだか。
嗤うジャブラを他所に、気付けばわしは走っていた。先ほどまではあんなに足がもつれて、上手く動かすことが出来なかった筈なのに、足は驚くほどによく動く。階段を駆け下りて、途中詰みあがった木箱にぶつかって倒してしまったが、そんなものを気にしている暇なんてなかった。兎に角いまはアネッタの安否しか頭になかったのだ。
そうして彼女の部屋に辿り着いたわしは、肩で息をしながら内ポケットに忍ばせていた合鍵を使って中へと入る。室内は物音一つなく、しんと静まりかえっており、そんなの寝ている時間帯であることを考えると当たり前のことなのに、今この時だけは酷く恐ろしかった。なんだかとても嫌な予感がして、手にした合鍵が手のひらからするりと抜け落ちたのに、ちっとも気にならなかった。
「アネ…」
此処からベッドに眠る彼女の容態は見えない。無意識下に落ちた消え入りそうな言葉は、誰にも拾われる事無く冷たい床に落ちたが、わしは脇目も振らず足早にベッドへと駆け寄って、そこで体を倒して眠るアネッタの姿を見て、わしは崩れるようにベッドへと腰を下ろした。
ああ、してやられた。
アネッタは枕を抱いて、よく眠っていた。枕を抱く腕も、布団を蹴飛ばした足にも、当然顔にも傷なんてものはなく、全てジャブラのでっちあげた嘘だったのだと理解した。ああ、ジャブラがまともなことなんて言う筈がなかったのに、どうしてわしは信じてしまったのだ。
「……カ、ク」
突然、自分の名前が呼ばれて意識は彼女へと引き戻される。
起こしてしまったかと彼女に視線を向けたが、どうやら寝言だったようでもぞりと寝返りを打ったアネッタの手がベッドについたわしの手のひらに重なって、わしよりも細い指がわしの手を捕えた。そういえば彼女と顔を合わせるのも、こうして触れるのも一週間ぶりだろうか。久しぶりに触れた彼女の手は僅かにだが暖かく、たったそれだけなのにじわりと心に染み入るような感覚にわしは乾いた笑いを落とした。
「はー……、…わはは……勝手な女じゃのう。……先に逃げたのは、お前じゃろうに」
どうせ彼女は目覚めない。眠っていることをいいことに、わしは彼女の耳元であの日の仕返しを囁いて、そのまま解いた手を掬って指先に唇を押しあてたけれど、彼女はやっぱり目覚めることなく、すうすうと規則正しい寝息だけが小さく響いていた。
そうして彼女が起きる前に部屋を後にしたわしは、「本当、参るのう」と零して、いつのまにか重くなった足を引きずるようにして自分の部屋へと戻ると、仲直りのきっかけも思いつかぬまま、冷えたベッドへと体を倒して瞼を閉じた。