最後の記憶は何だったか。
目を覚ましたら、彼女は見慣れない部屋にいた。僅かに香る消毒液の匂いや、壁際を占領する薬品棚を乗せた作業机と、小さなキャビネットを見るに、此処は医療室だろう。壁には大きな黒板めいたボードがあり、何やら小難しいことが書かれた書類が貼りつけられている。だが、その一方で、消毒液の匂いも、目の前の景色は記憶に結び付かず頭を捻る。
一体此処はどこなのだろう。まるで不思議な夢の中にいるようだと彼女は思った。
「あ…!目が覚めたのか?!」
気が付くと、小さなトナカイのような生き物が立っていた。大きさは一メートルほど。二頭身サイズで、頭にピンク地の帽子を乗せたその生き物は、彼女の顔を見るや否や、安堵するように息を零した。
「よかった、二日も眠り続けていたんだ……あ…そうだ、おれのこと覚えてるか?」
心配を滲ませるトナカイとは対照的に、彼女は身体の上にかかったシーツを胸元まで引き寄せる。それは驚きと警戒を示した行動だったが、トナカイは「ああっ」と短く声を上げてカツカツと蹄で床を叩きながら駆け寄った
「まだ起きちゃ駄目だ!傷がやっと塞がったばかりなんだ!」
そう続く言葉は心配一色で、腹部へと視線を向けるトナカイを見た彼女は瞬きを繰り返す。「……トニートニー・チョッパー…?」問いかける声も、驚きに満ちていたように思う。だが、彼女は答えを受ける前に思い出す。ああ、そうだ。彼は麦わら海賊団で、船医を務めるトニートニー・チョッパーだ。確か懸賞金は五十ベリー程度。無害そうな顔で、金額こそ少ないが、あのクマドリを倒した油断ならない生き物だ。
しかし、首を獲るにも武器はない。その上、彼が言ったとおり、彼女は何らかの怪我を負っており、傷が塞がったばかりなのだろう。腹部に鋭い痛みが走り、その腹痛をきっかけに、忘れていた痛みが、熱と共にじくじくと疼き始めた。
「…っぅ……」
「アっ、アネッタ!動いちゃだめだ!」
彼は、敵であるアネッタを見て声を上げる。
彼女はそれがなんだか不思議で仕方が無く、「敵相手に不思議なことを言うのね」と言うと、チョッパーは少しばかり悩む素振りを見せたのち、立派な角を傾けながら「敵だとか味方だとか言う前に、おれは一介の医者だから……だからっ、医者が安静にしろっていうのは変じゃないだろ?」と問いかけた。
だが、彼女にはわからなかった。常日頃から、口酸っぱく海賊は敵だと言われていたアネッタには、答えが見つからなかったのだ。
「……どうだろ、……でも、それでも私が此処にいるのはおかしいだろうから帰るね。ありがとう、小さなお医者さん」
アネッタは長い睫毛を伏せる。答えが分からないからと誤魔化した言葉は、恩を受けた割に素っ気なかったかもしれない。だが、医者と患者の関係性はさておき、エニエスロビーにて彼らの命を狙っていたような敵が、恩を受けているというのは、あまりにもおかしいではないか。今日の敵は明日の友という言葉もあるが、海賊と世界政府にその言葉は当てはまらない。海賊と世界政府が仲良くなるなんて、許されないのだから。
それにしても、彼が医者として助けたことはまだ理解できるとして、どうして他の船員たちもそれを許したのだろう。海賊なんて、人々の命を狙い続けるような、どうしようもない奴らだとカクは言っていたのに。
なんにせよ、意図が理解できぬうちはどうにも落ち着かず、ご丁寧に揃えて置かれたブーツに足を通して立ち上がる。当然、立ちあがった際には腹痛が走ったが、死ぬほどの痛みではない。心優しいチョッパーは足元にまとわりついて「駄目だ!」だとか「折角傷が塞がったのに!」と、ワアワア言っていたが、彼は海賊だ。過去の教えの通りにするならば、彼がどんなに優しかろうと聞き入れてはいけない言葉になる。
僅かに抱いてしまった、申し訳なさが芽吹く前にゴクンと飲み込んだアネッタは、扉へと手を伸ばす。だが、その瞬間、予想だにしないことが起きた。誰かが扉の向こうにいるのか、扉がカタカタと軽く揺れだしたのだ。アネッタはびっくりして手を引っ込めると、予期した通り、扉がゆっくりと開いて、若い男が顔を覗かせた。
「おおい、チョッパー。飯が出来たぞ」
そんな言葉と共に。
「……っと、うん?きみは……?」
男と目が合った。さらりと金色の麦穂のように輝く髪を片方に流した青年は、アネッタと目が合うなり、少しばかり、いいや、えらく驚いたような顔をしたかと思うと、すぐに状況を理解したらしい。一度はエニエスロビーで対峙したことがある彼女を前にしても、警戒する素振りを見せずに「ああ、よかった……!ようやく目覚めたんだね」と言いながら目元を和らげるようにして笑った。
確か、彼は黒足のサンジと言ったか。彼もまた、あのジャブラに勝った男だ。動揺から、思わず後ずさると、彼は眉尻を下げながら「おっと……怖がらせちゃったかな」と申し訳なさそうな、そんな表情を見せる。その表情はジャブラが言っていたような乱暴者とは真逆に見える。
ジャブラめ、なにが兎に角脚癖が悪くて、口が悪いだ。全然違うではないか!
「え、あ、いえ……お、お邪魔してます…」
そんなわけで、彼女が返した言葉はなんとも情けない、動揺を孕ませた言葉だったように思う。足元をちょこまかと動いていたチョッパーは相変わらず心配を重ねていたが、アネッタの足が止まったことを良い事に、足にしがみつくと、黒足のサンジを見上げて助けを求めた。
「サンジ…丁度よかった……!まだ傷が塞がったばかりだっていうのに、もう帰るだなんて言うんだ!!」
「うん?もう帰っちゃうのかい?」
告げ口を受けたサンジは、目を瞬かせて問いかける。
「え、あ、えぇ」
「急いで帰らないと駄目とか?」
「いや…ええと、……、……そもそも、エニエスロビーであなた達の命を狙った私が此処にいるのはおかしいでしょ?だから帰るんです」
「っだめだ!まだ…まだせめて一日は休んでもらわないとすぐに傷が開いちまう!」
「……小さな船医さん、大丈夫よ。この程度じゃ死なないもの」
幸いなことに、彼女は人間ではない。それを、医者の心配を他所に動くことの出来る体が証明をしている。
扉にある丸い小窓から空を映したように青い。太陽の位置を見るに、まだ正午だろうか。。現在地が何処かは分からないが、海の上だろうが、山の上であろうが、月歩を使えば竜の姿にならずとも港町まで行ける筈だ。
「レディ」
サンジは、アネッタの前に一枚の皿を差し出して、言った。
「……レディを否定する気はないが、おれも怪我をしたレディを行かせるわけにはいかないな。…なあに、一日も二日も代わりやしないさ。君に美味しい料理をご馳走するから、ちょっとお茶をしていく…ってのはどうだい?」
なんとも不思議な引き留め方であった。チョッパーのように足をしがみつく訳でも、必死で引き留めるわけでもない。あくまで決定権はアネッタに委ねながらもナンパじみたそれには、たくさんの心配が滲んでいた。サンジは「でも」と戸惑い視線を落とすアネッタに向けて、「ああ、麗しいレディ」と声を掛けると、「これを見て欲しい」と囁いた。
彼が示す皿は、その中心部だけが深く鉢のようになっていた。其処に注がれたスープはまるで穏やかな湖のようで、透き通ったスープの色や香りを美しく映し出している。ふわりと立ち上がる匂いは悪戯に鼻をくすぐって顎を撫でる。まるでお腹が空いているのだろうと囁いているようであった。
「どうだい、美味しそうだろう。近海で取れた魚をベースに、野菜を何時間も煮込んだスープだ。自分で言っちゃあなんだが自信作だ。……そう、これを名付けるならば目覚めた天使を癒すラブ・スープ……」
「……え、あ、う、うん。美味しそう……だね」
意図が分からない。けれど、彼が言うとおり、それは美味しそうだった。だからアネッタは多少の困惑を滲ませながらも頷くと、まんまと誘き出された腹の虫がぐううっと大きな声を上げる。アネッタは恥ずかしそうに腹を腕で押さえ、チョッパーは驚いたように目を丸々とさせていたが、サンジは馬鹿にするわけでもなく、寧ろどこか嬉しそうに白い歯を見せて笑うと「はは、腹はいつだって正直なもんさ。さ、決まりだな。其処に座れるかい?」と言って、空いた片手で椅子を引いた。
それから暫くが経って、お腹がじんわりと暖かくなって皿の底が見えた頃。あまりの美味しさに、まんまと胃が掴まれてしまったなとアネッタはひとり後悔をしたが、サンジとチョッパーはアネッタを見てにこにこと笑っていた。なんだかそれがこそばゆくて、お腹がむずむずして、彼女は誤魔化すように「お、おかわり…」と言ったけれど、益々二人は嬉しそうにするばかりで、アネッタは調子が狂うとピアスに指を沿えて、気恥ずかしさに目を伏せた。