視界がぼんやりと霞む、霧のかかった朝。路を流れる水の音と、小鳥のさえずりを耳に向かった先は、職場であるガレーラカンパニーであった。時刻は午前五時。仕事を開始するには、まだ何時間と早い時間帯である筈が、正面の入口は既に開いており、バックヤードへと足を踏み入れた白い靴は、キュッと摩擦を起こして止まる。視線の先に、早起きすぎる鍵当番の姿を捉えたのだ。
「アネッタ」
その一言で、鍵当番の肩がびくりと揺れる。なんせ人が居る筈の無い時間帯だ。したがって鍵当番であるアネッタが驚くのも無理はなく、此方を見た彼女は驚いたように唇を開いた。時刻は午前五時。外の音を遮断したバックヤードは驚くほど静かで、しんと静まり返った空間に、机の上から転がり落ちた彼女の鉛筆が弾む音と、「あっ」と短い驚きの声がよく響く。
彼女の視線は床下の鉛筆に。しかし、鉛筆は伸ばした手から逃れるようにころころと転がって、やがて白い靴にコツンと当たると動きを止めた。
「ほれ」
「あ、ありがとう……」
鉛筆を拾い上げて差し出すと、彼女は少々戸惑いながらも鉛筆を受け取る。それから「どうしてこんな時間に?」とわかりきったことを問いかけるので、カクは肩にかけた鞄を下ろしながら「誰かさんが心配でのう」と言葉を返した。
「あ……ご、ごめん」
途端に濁る声色。別に責めているつもりはなかったが、少々厭味ったらしい言い方だったのだろうか。カクは表情変えずに寝ぼけたままの頭を回転させると、机に置いた鞄から紙の茶袋を取り出して「一緒に飯でも食うか」と笑って差し出した。
茶袋にはなんてことない食パン二枚にハムとレタスとトマトを挟んだだけのサンドイッチと、バナナが二本。見てのとおり、なんてことない、特に凄いと言えるものでもないのだが、アネッタは茶袋の中身を見て表情を綻ばせながら「これ、カクが作ってくれたの?」と問いかける。
それに対して、カクは肯定を返しつつも大したものじゃないと首を振ったが、アネッタは矢張りニコニコとしたままだ。
「そんなことないよ。ありがとう」
そう言って、サンドイッチを手に取った彼女は一口頬張ってみせる。それも、大きくガブリと噛みつくように食らう様は見ていて気持ちが良く、つい、サンドイッチに対する評価が気になって顔を覗き込んだカクは「美味いか」と問いかけたが、すぐに聞かなくても良かったなと息を落とす。何故ならアネッタの顔は美味しいを全面に出していた。
いわばただのBLTサンドで、別にこだわったポイントなどもない。なのに彼女は世界一美味しいって顔で美味しいと繰り返すので、カクは妙に腹がくすぐったくなってしまい、それを誤魔化すように自分と彼女の間に置いた茶袋からバナナを一本取り出すと、皮を剥いて頬張った。
「んふ、カクはバナナが好きだねぇ」
「バナナはうまいからのう」
「このサンドイッチも美味しいよ」
「そうか、そりゃよかったわい」
「一口食べる?」
「いいや、それはお前が食べていい。わしゃもう一本バナナがあるからのう」
言いながら、茶袋の中にあるバナナを取り出すと、アネッタは肩を揺らして笑う。それ、私の分じゃないんだと笑う表情は、初めて声を掛けた時よりも力が抜けていたように思う。
「カク」
「うん?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
そうして茶袋の中身が包み紙やバナナの皮でいっぱいになった頃。茶袋をくしゃくしゃに圧縮をして丸くしたところでアネッタの口数が減っていることに気付いた。会話が途切れた事を機に、ふとアネッタを見ると、頭が前に倒れては起きてを繰り返し、こくりこくりと船を漕いでいた。
多少は腹が膨れて安心したのだろうか。ただ肩を貸して寝かせるには熟睡は出来んだろうと肩を叩いて「ほれ、アネッタ。わしの膝を使って良いから横になれ」というと、半分眠ったままの彼女は目も開けずに唸り、長椅子に体を倒す。ついでに招かれるがままカクの膝に頭を乗せたアネッタはむにゃむにゃと寝言を言うように「カクの足かたぁい…」と贅沢なことを言っていたが、カクが突っ込む間もなく、直ぐにすうすうと寝息を立て始めた。
さて、彼女は一体いつから寝ていないのだろう。
彼女の様子がおかしいことには気付いていた。普段は溌剌としたムードメーカーな彼女がやけに落ち着いていたり、明らかに食事の量が減っていたり。それを指摘してもダイエットだなんだと言っていたが、彼女の出勤時間もどんどんと早くなっている。それに比例してか、小さなミスも増えており、違和感に違和感を重ねた彼女を見て一般人であるパウリーでさえ「最近アイツどうしたんだ」と首を傾げていた。
健康的な肌色に線を引く隈を見るに、一日程度ではなさそうだ。線をなぞるように親指の腹で目元を撫でると、眠る彼女は「んう」と漏らす。それがなんだか可愛らしい反面、眠れていないのであれば起こすのは可哀そうかと手を離して、代わりに上着を脱いで彼女の肩にかけてやる。
時刻は午前五時三十分。終業時間まであと三時間。当然睡眠時間としては短いが、無睡よりかは良い筈だ。アネッタが、上着を布団代わりに口元まで上げて、身を丸くするように膝を折り曲げる。まるで猫のようだと思ったが、彼女のふわふわのくせっけ頭を撫でていると、なんだか本当に大きな猫のように思えて少し笑えてしまった。
薄れ、消えていく霧が朝を呼び込んで、暖かな日の光が二人の足元を照らす。窓から差し込む陽の光はきらきらと光り、次にやってきた従業員たちは眠る二人を見てどうしたんだと頭を捻る。しかし、心地よさそうに眠る二人を前に起こすことの出来なかった従業員たちは、次々に出勤する同僚たちの挨拶を「しー!」と遮っては、眠る二人を指さして笑った。
彼らが目覚めるまで、あと少し。穏やかで、暖かな時間は続く。