セントポプラを出て、そして、彼女が小さな竜になって暫くが経った。
光を通さぬ黒く尖った爪が、汗ばんだ指を掴む。普段より体温の高い手のひらに頬を摺り寄せると、いつもより血色の良い顔が此方を見て力なく笑う。だが其処に続く言葉は、歓迎でも、許容でもなく「ブルーノ、すまんがアネッタを連れて行ってくれ」という真逆の答えで、あぁと短く紡いだ言葉が、手のひらほどの体を持ち上げる。
小さな竜――アネッタは、いやだいやだと手足をばたつかせたが、ザリガニのように背中から掴まれた彼女が、手足をばたつかせたところで抵抗にはならないらしい。それならば、とピイピイ鳴いてみたが、カクならば兎も角ブルーノに効く筈はない。
結局、泣き落としも虚しく、呆気なく回収された体は、部屋を出てキッチンに降ろされることになった。
「………まだ怒っているのか」
それから暫くして。時間的にはあれから一時間が経っていると思うのだが、キッチンの隅でしょんぼりと背を丸めて座るアネッタの位置も、体勢も変わっていないように思う。どうにも出禁が効いているようで、声を掛けても返事をするように尻尾が左右に揺れるだけ。ブルーノは面倒臭そうに息を吐くと、部屋から持ってきたマグカップに珈琲のお代わりを注ぎながら「何かしてやったらどうだ」と提案をする。
随分と曖昧な提案ではあるが、こういったタイプは放っておくほうが面倒くさいとはじき出した答えがそれだ。曖昧なものにしたのだって、考えの放棄ではあるが曖昧な方が時間潰しになるだろう。だが、提案を受けて尻尾をピンと上に伸ばしたアネッタは、先ほどまでのしょんぼりムーブは何処へ行ったのか、クルルルと喉を鳴らしながらブルーノを見上げて「じゃあ、体に優しいごはんは?」と問いかける。
「……それはカクがまた起きたらでいいだろう」
「でも起きた時、お腹空いてるかも……」
「……自分で作れるのか」
「ブルーノに手伝ってもら」
「おれはまだ仕事が残っているから手伝えん」
「うっ」
言い切る前に断られた言葉に、アネッタが言葉を詰まらせる。この男は、先のとおり面倒見が良いというわけではない。むしろ面倒臭いからこその提案だ。それによって面倒臭い事になるのであれば、早いところ芽を摘んだ方が得策で、検討の余地なく断ると、アネッタは尻尾を垂らしてクルル…と喉を鳴らした。
だが、ここでブルーノの予期しないことが起きた。アネッタが「じゃあひとりで作る」と言い出したのだ。ああ、こういうところは末っ子らしいというか、なんというか。ブルーノは瞳を細めて何か言いたげにしていたが、はぁ、と息を零すと「完成したら声をかけろ」とだけ言って、面倒から逃げるようマグカップを手に部屋を出ていった。
「よし……じゃあ、何か作るぞお!」
そうして、意気込んだアネッタが取り出したるは、人参と玉ねぎと冷蔵庫に残っていた鶏肉のあまりと、今回の秘策である手動のみじん切り器であった。手動のみじん切り器は円筒形の本体部分に、刃物が取り付けられているだけのもので、外側にぴょろりと伸びた紐を引っ張ることで、刃が回転して入れたものをみじん切りにしてくれる作りになっている。ああ、まさかこの姿になる前に買ったものが此処で光るだなんて。アネッタは、自分の行いを褒めながら玉ねぎの皮をぺりぺりと剥くと、つるりと丸裸になったたまねぎと、それから人参をまな板に上へと並べた。
「包丁はないけどみじん切り器があれば大丈夫だもんね~」
手のひらサイズの己からしたら包丁は重たいし、何よりでかい。だから手動のみじん切り器を使おうと思ったのだが、人参やタマネギをそのまま入れるには大きすぎた。よって、並べたそれらに尻を向け、尻尾をクイと上げると尻尾を叩きつけてたまねぎを叩く。人参ほどの強度がないそれは、硬い岩を纏ったような尻尾により二等分、三等分と崩れ、崩れたそれを両手で持ち上げてみじん切り器へ。
「ヒイ……竜でもたまねぎは沁みる……っ」
たまねぎの汁が目に染みて目がしょぼしょぼとする。ごつごつ、とげとげの身体では目を掻くこともままならず、必死に瞬きを繰り返すだけで堪えると、次は人参へ。ただ、人参は固かった。尻尾を叩きつける程度ではべちべちと音を立てるだけで上手くいかずにころりと揺れる。
小さな竜はそれを見て「人参つよ…」と呆然と零したが、野菜スープに人参は入れたい。彩もいいし、何より野菜もあるし、美味しいし。そんなわけでまな板を蹴るようにして飛び上がったアネッタは距離を取ると、下にある人参に向けてくるりと前転するようにして勢いをつけて尻尾を叩きつける。その瞬間、バコン、という音と共にまな板が真っ二つに割れたが、人参もいくつかに砕けるようにして割れてくれた。
うん、なかなかいい作戦だ。この身体でも戦えるように訓練しておいてよかった。今度ジャブラが茶々を入れてきたらこれを試してみようかな。
そんなことを思いながら、割れた人参を一つずつ拾い上げてみじん切り器へ。多すぎるのか少しはみ出してしまったので、それはぐいぐいと無理に押し込めるとして。さあ、ここからが大変だ。なんせこれは手動なのだから。
蓋を締めて、みじん切り器からちょろりと伸びる紐を持つ。紐の先には丸い球体がついているので、それを抱きしめるようにして、そのあたりに寝転ぶと紐が伸びて中にある刃物が回る。しかし紐が伸び切ると動きは止まる。つまりはこれを何度も引っ張っては戻し、引っ張っては戻しを繰り返す必要があるわけだ。
「ふんっ!ふんっ!」
アネッタはみじん切り器にぴったりと足裏をつけて紐を引っ張って、戻す。それはさながら腹筋のようで、何度も何度も繰り返していくうちに体がじんわりと熱を持ち始め、アネッタは唯一のもちもちのお腹がバキバキになったらどうしようなんて思いながら紐を引き続けた。そうして硬かった紐が随分と緩くなった頃、アネッタはひいひいと言いながら身を起こすと蓋を開けて中を見た。
うん、うまくみじん切りになっている。
これから作るのは身体に優しい野菜スープだ。風邪の時にはこれに限る。そういえばクマドリが、おかゆというものがあると教えてくれたけれど、それはどうやって作るんだろう。明日以降もカクの熱が下がらなければ、それを作ってみるのも良いかもしれない。クマドリはブルーノと比べたらちょっとだけ面倒みが良いし、頼めば教えてくれると思う。多分。
相変わらず言い切れはしなかったが、兎にも角にも鍋にみじん切りにした野菜と、少しの鶏肉を入れると火にかける。程度は弱火で、焦げないようにヘラでかき混ぜながら。
だが、このヘラでかき混ぜる作業もまた大変だ。なんせ鍋は自分と同じぐらいの大きさで、ヘラなんか自分よりも大きいのだ。よってパタパタと翼を打ち鳴らしながら混ぜ続けることは当然で、腹筋地獄のあとだったこともあり、疲れ切った身体に鞭を打つような重労働に、アネッタはハヒハヒと言いながらかき混ぜ続けた。
なんだか、奴隷が回すなぞの棒のようであった。
ただ、そのかいもあって程よく全体に火が通ってきた。あとは鍋に水を少しずつ足して、ついでにコンソメキューブをぽいぽいと入れて、あとはそれが良い感じに溶け込むまで待つだけだ。ハヒハヒ、コトコト。浅い呼吸に合わせて小さな肩が揺れ動くように、鍋の中でみじん切りにした野菜たちが揺れ動く。ハヒハヒ、コトコト。
特製の野菜スープが出来るまで、あと少し。
「ん………」
久しぶりに熱を出した。原因はエニエスロビーで負った傷のせいだと思うが、あまりの高熱に移ることを恐れたカクは、ブルーノに頼みアネッタを外に出してもらった。筈だった。筈だった、というのは、隣でぴーぴーと鼻が詰まったような鼾をかきながら小さなドラゴンが隣に寝ているからで、はて、何故彼女はまたここで寝ているのか。
「また此処に来てしもうたのか……」
ああ、いや、確かに鍵までは閉めていなかったなとカク。布団に手をついて身を起こすと、カクの手を中心に布団が沈み込み、隣で寝ていたアネッタの体がころころと転がって彼の手の甲にこつりと当たる。それでも彼女は起きずに体を丸めるので、意味もなく指先で顎下をこしょこしょと擽るとクククク…と喉が鳴り、足がけりけりと動く。なんだか犬猫のようで、カクは思わず笑ってしまった。
「……フ」
彼女がこの小さな竜になって暫くが経った。彼女はそれを恐怖としているが、いつかは戻るだろうとのんびりと構えているカクにとっては、単なる可愛い愛玩動物でしかなかったのだ。
頭が覚醒するまで、カクは小さな竜を観察していた。愛でるように、その一時を目に焼き付けるように。
ただ、観察をすることで気付いたことがある。彼女の岩を纏わせたような、鰐に似た形状をしている尻尾に赤や白の斑点がついているのだ。不思議に思い目を凝らしながら尻尾をつうとなぞると、尻尾がしたんしたんと揺れて、それに合わせて赤と白の斑点がぽろぽろと落ちていく。
どうやら何かがついているだけのようだ。鱗の隙間にこびりついたそれを見るに、洗えば取れそうな気もするが、隙間に詰まったそれを取るには歯ブラシを使って、しっかりと風呂にいれることが必要そうだ。――が、一体これはなんなのか。
不思議に思い頭を捻っていると、どこからかコンソメの匂いがして、それを辿るようにして頭を揺らす。すると近くにあるテーブルに皿が置いてあることに気付いた。恐らくは誰かがこれをもってきてくれたのだろう。
小さな竜を起こさないようそっと起き上がったカクは、テーブルへと近付いて、虫除けに置かれた食卓カバーを外すとそこにある野菜スープに思わず頬を緩めた。冷めてはいそうだが、随分と気が利くじゃないか。
早速椅子に腰かけたカクはスプーンを取る。そしてその下に置かれたメッセージカードに気付いて、またふと笑みがこぼれた。そこには、普段よりも崩れた“アネがつくったよ!おきたらたべてね!”という文字が並んでいた。
「……そうか、わしのために……」
あの小さな体で、これを作るのは大変だったろうに。あの尻尾にある斑点はその努力の現れだろうか。まぁなんにせよ、風呂は必須だ。これを食べ終えたら彼女を起こして、一緒に風呂に行くのも良いかもしれない。ピーピーと響く鼾を耳に、野菜スープを啜ったカクは「美味いのう」と小さく呟いた。