雷よ、もう少しだけ

 何をしても上手くいかない日もあるわけで。例えば、理不尽な事で叱責を受けてしまったとか、傘立てにあった筈の傘が盗まれたとか。例えば、恋人が可愛らしい女の子から告白をされているところを見てしまったとか。挙句の果てに、青一色の晴天だった空はいつしか鼠色の雲に覆われて、雷混じりのゲリラ豪雨に見舞われていた。

 ざあざあ、どうどうと大粒の雨が肌を打つなか、アネッタは学生鞄を入れた袋を抱えて、公園へと走る。このあたりは雨宿りが出来るポイントがなく、住宅街が続いている。暫く走った末に逃げ込んだ先は公園の中央にあるかまくら型の遊具で、この遊具には弧を描く上部と、横にそれぞれ穴が開いている。特に上部にある穴からは、滝のように雨が落ちてくるが、奥にもスペースが広い分、奥に入ればなんとか雨が凌げそうだ。

「ついてないなぁ………」

 雨をたっぷりと含んだ髪の毛から、ぽたぽたと雫が落ちる。
 此処まで濡れてしまうと、養護施設に帰らずに、此処に逃げ込んだことが最善であったのか分からなくなってしまう。ただ、なんとなくこれが最善に思えて、すっかり濡れ鼠となった彼女は、奪われゆく体温にぶるりと肩を震わせると、スカートが地面についてしまうことも承知でしゃがみ込む。

 辺り一帯は、白いカーテンを引いたように雨の白糸で白くなり、滝のようなゲリラ豪雨が雑音を遮断するように音を立てる。だから、そこで何かを呟いたとて、全て雨音がかき消してしまうのだが、何か呟いていないと心寂しくて仕方ない。

 それに、ゴロゴロと遠くで鳴り響く雷の音が怖い。ぴかっと予告なく光るのだって怖いし、そこから数秒遅れて音が鳴るのも怖い。同じ施設で暮らすブルーノは、空が光った後にどれぐらいで雷が鳴るかで距離が分かるから恐れる事は無いと、きちんとした理論をもってアドバイスをしてくれたけれど、段々と間が無くなっているいまは余命宣告のように思えて仕方がない。だって、光った瞬間に落ちる雷なんて、もっと怖いのだから。

「いいか。もしも、わしが居ない時に寂しくなったり、怖くなったらすぐにわしを呼ぶんじゃぞ」

 その時、何故だか分からないけれど、カクが言ってくれたことを思いだした。

 同じ養護施設で育った私たちは、幼馴染で、家族で、兄妹で。だからその言葉だって、買い与えられた携帯に、自分の連絡先をいの一番に登録するその行動だって、家族だからだと思っていた。なんせ彼は施設の中でも面倒見が良くて、私のことを出来損ないの妹と思っている節があった。その証拠に、彼は口癖のように「世話がやける女じゃのう」と言っていたし、初対面の人に私たちの関係性を問われた際には「妹みたいなもんじゃ」と言っていたし。その度に私は「誰が妹よ、どっちかっていうとカクが弟でしょ」なんて訂正をしてきたけれど、まぁ、恋人となった今考えると、彼なりのちょっとした牽制だったのかもしれない。

 ただ、今は助けを呼ぶにも携帯の充電は切れていて、お財布の中身も空っぽだ。ああ、こんなことなら十円ぐらい残しておけばよかった。そうしたら公衆電話で施設に電話するぐらいは、出来たかもしれないのに。

「助けを呼ぶにも……呼べなかったらどうすればいいんだろう……」

 その時、ぴかりと遊具の中が白く光り、追いかけるように雷の音が響く。確実に距離を詰める雷の存在が恐ろしい。彼女は咄嗟に耳を抑えたが、それでも恐怖は胸を打ち、心臓はどくどくと痛いくらいに跳ね続け、目の前がぼやけながらぐにゃりと歪む。

 どうしてこんなに雷が怖いのだろう。雷が怖いきっかけなんて覚えていないのに、体に染みついた恐怖は身体を蝕むように広がる。たまらず耳を抑えたまま瞼を閉じたが、これだけの雷雨だ。耳を押さえたところで完全に音を遮断することは出来ず、其処まで手を伸ばす雷から逃れたい一心で「怖い…、よう…」と独り言ちる。

「おう、じゃから迎えにきてやったぞ」

 聞き覚えのある声が、耳を抑えた指の隙間を通って届く。

 驚いて顔を上げると其処にカクの姿があった。どうして此処にいるのだろう。どうして此処だと分かったのだろう。疑問は浮かべど、不意の出来事に反応も出来ずにいると、カクは「はー、どっこいせ」とお爺ちゃんみたいにいって隣にどかりと座る。「凄い雨じゃのう。いやぁ、靴までずぶ濡れじゃわい」と零す彼は、驚きで目を瞬かせることしかできないアネッタを見て笑い、手を伸ばしてきゅと鼻を摘まんだ。

「なんじゃわしが幽霊にでも見えるか」
「だって、……どうして……」

 彼は確か告白を受けていた筈で、それに、今朝いっしょに登校したときには傘を持っていた筈だ。それが今やお揃いの濡れ鼠で、たまらず今日持ってきていた傘はどうしたのかと尋ねると「忘れた」と短く言葉が返ってきた。

「忘れた…ってこんなに大雨なのに?」
「それはお前もじゃろ」
「私は傘が盗まれて……って、あれ?」

 ふと、違和感に気付く。彼は制服姿で、靴だって学校指定のローファー履いている。しかし、其処に彼の鞄は無く、一体どこにやったのだろうかと思ったが、流石に鞄を忘れてくるほどのおっちょこちょいではないはずだ。

 だとしたら。

 だとしたら、彼は。

「………、……もしかして、探してくれてた?」

 アネッタが静かに問いかける。
 いや、静かに問いかけたつもりだったが、もしかしたら少しだけ、ほんの少しだけ、期待に弾んでいたかもしれない。酷い話なもので、恥ずかしそうに頬を赤らめながら告白していたあの女の子よりも、自分を優先してくれたのかな、なんて。そんなことを思ったのだ。

「……じゃなきゃ、家でゆっくりしとるわい」

 カクは暫くの間を置いて、ぶっきらぼうに言いながら、濡れて雫を垂らす帽子のツバに触れる。ただ、それが照れた時の仕草であることを知っているアネッタは、胸が掴まれたように苦しくなって「そっか」と返したけれど、アネッタがカクのことを知っているように、カクもまたアネッタのことをよく知っている。

 カクは額をデコピンで弾くと「心配させおって」と言いながら、アネッタの肩へと寄りかかる。触れた肩はお互いに濡れていてひんやりとしているが、不思議と不快感は無く、ざあざあどうどうと上部の穴から落ちてくる雨を見ながら、アネッタからもカクの肩へと少し寄りかかると「本当、お前は昔っから世話が焼ける女じゃのう」と穏やかな声が笑い、彼の大きな手のひらが濡れた頭をぐしゃりと撫でた。