四話:ねぇねぇお兄ちゃん(🐺)

「………ろ、くじゅってん……は、悪い?」
「悪すぎるということはないが、良くはないじゃろうな」
「ですよねぇ……」
「しかし、分かっておったことじゃが、特に数学が酷いのう……。大学に進学するにもこのまま数学が伸びんようなら、試験科目に数学が無いところを受けた方がいいかもしれんぞ」
「んー……でもさぁ、苦手って理由で選択を狭めるのも勿体なくない?」
「勿体ないというよりも、戦略じゃろ」

 珍しく、そんな真面目な事を話していたせいなのか、熱を出した。その日の体温は三十八度を超えて、職員たちからお休みの許可を得たアネッタは、部屋で大人しく寝ていた。しかし、二度寝をしても、三度寝しても回復の傾向は無く具合が悪くて仕方がない。目覚めると体はぐっしょりと汗をかいていた、汗をかかないよりはマシだと思えるがこれでは汗で体が冷えてしまう。

なにより、気持ち悪いとシャワーを浴びて、おろしたてのパジャマに着替えてみたが、やはり具合の悪さが払拭する事はない。とてもじゃないが携帯を見る気にもなれずにベッドへと寝転んで、ゆっくりを息を吐き出した彼女は、ぼんやりと天井を見上げ、そして呟いた。

「……時間はあるけど、…こんな感じでいいのかなぁ……」

 頭の中に、まだ時間はあるんだし、というサッチさんの言葉が響く。
 しかし、わざわざ呼び出しての進学を薦めるあたり、少なからずスパンダムは自分に対して期待と関心を寄せている筈だ。であればその期待に添いたいところだが、いかんせん初めての事だらけだ。何を考えてもどれもが不確かなものに思えて、空回り感が拭えない。

 アネッタは、枕元にあるパンフレットを一つ手に取ってそれを見上げながら「一歩、ずつ、未来を、描く」とそこにある文字を読み、もう一度深く息を吐き出した。

「わかんないよ~………そもそも人生設計すらざっくりだったのに……!」

 昔から、子どものころの夢はふわふわとしていた。ケーキを買って貰った日にはパティシエになりたいと言っていたし、絵本で童話を読めばプリンセスになりたいと言っていた。だから数年も頭に残り続けるほどの夢は無く、自分の譲れない条件はなんだろうかと考えてみたが、皆とずっと一緒にいたいとか、あんまりカクと離れ離れになるのもやだなぁとか夢にも繋がらないことばかりで、結局頭を抱えたことになった。

 が、それが終わりを告げたのはそれからすぐのことであった。「なーに一人でブツブツ言ってんだよ」と、ジャブラが部屋を訪ねてきたのだ。

「ジャブラ!」
「よお、もう熱は下がったのか」
「ううん、普通にあるよ」
「あるのかよ……」
「ジャブラは学校行かなくていいの?三年生って今日お休みなんだっけ」
「普通にサボり」
「いっけなんだぁ」
「へっ、結局進学だの卒業が出来りゃいいんだよ」

 言いながら、ジャブラは此方へと近付くとアネッタの手にあるパンフレットを取って、ペフと顔面を叩いてから下に腰を下ろす。「熱があんだから見てんじゃねえよ」と零すのは純粋な心配に思えるが、彼の視線はパンフレットに落ちて暫くそれを眺めたのち「お前にしちゃ随分と難易度高えとこじゃねえか」と呟いた。

「スパンダムさんがチョイスした大学なんだけど、やっぱり私じゃ無理かなぁ」
「あ~?…んなのは、これから次第だろうよ。ここに行きたいのか?」
「まだ決まってなーい。……、…ジャブラも、大学に行くの?」
「あぁ?あー……おお、お陰様で勉強漬けだわ」
「じゃあサボっちゃだめじゃん」
「息抜きだ狼牙」
「ものはいいよう」
「へ、うるせぇよ」

 パンフレットが頭の上に落ちてくる。ぺふっと優しく叩くそれが痛みを生むことはないが、ジャブラはもう興味が失せたようだ。「爪切り借りるぜ」と言って、言葉を返す前にサイドチェストから爪切りを取っていくが、いくら同じ施設で育った幼馴染といえど此処には一応性別の違いだとか、そういうものがある。というか、そもそも許可も得ずにとっていくのはどうなんだ。

 アネッタは寝返りを打ちながら「ちょっとぉ」と零したが、勝手にティッシュを一枚とって足の下に引き、パチパチと足の爪を切っていく様子を見ていると、なんだか注意するのもバカバカしくなってしまった。

「ちゃんとゴミは捨てていってね」

 アネッタはそれだけ言うと、ジャブラは生返事を返して視線を落とし、そしてぱちんぱちんと音を響かせた。
 年季の入った壁掛け時計の針の音に混じり、ぱちぱちと、時折ぱちんと音が響く。なんだかそれが妙に心地よくて欠伸をしながら、小さい頃にカクからプレゼントされたキリンの抱き枕を抱きしめる。そこから続く沈黙は心地よくもあり、つまらなくもあり、ジャブラを見ながら「哥哥」とアヒルの鳴き声みたいにグァグァと話しかけてみた。

「あぁ?」

 ジャブラの手がぴたりと止まる。アヒルッタも、もう一度グァグァと鳴いてみたが、ジャブラは眉間に皺を寄せると「なんだって?」と言い、そして「誰から聞いた?」と訊ねた。

「スパンダムさんから」
「……チッ、あのバカ成金野郎……というか誰がお兄ちゃんだ」
「言っちゃダメだった?」
「あぁ?いや、別に、駄目ってこたぁねぇが」

 不機嫌さが滲む言葉。彼の様子を見るに、余り良い思い入れのある言葉ではないようだ。アネッタは暫くの沈黙の末に、抱き枕に回した腕に力を籠めながら言った。

「ジャブラ、中国に帰っちゃうの?」
「あぁ?なんでそうなんだよ」
「スパンダムさんが、中国がどうたらっていってたから」
「……別に帰る気はねぇが、働きに出るようになったらおれの一存で決められるものでもねえし分からねぇな。……ただ、わざわざテメェを捨てた家に帰るほどノータリンじゃあねえわな」

 まぁ、でも、お前からしたら嬉しいんじゃねえの。
 ぶっきらぼうな言葉が帰り、瞬く。

「なんで嬉しいの?」
「あぁ?なんでって……、……逆に嬉しくねえのか」

 ジャブラからすれば、自分が居なくなることで空き部屋が生まれ、色々と接触やしがらみも無くなるだろうとおもっての発言だったらしい。しかし、アネッタの問いかけには訳が分からないといった感情が籠っており、彼女は足で抱き枕を挟み込みながら試案を重ね「え~?普通にやだよ。寂しいじゃない」と実に単純な言葉を返した。

「………」

 しかし、折角返したというのに、ジャブラが反応を返してはくれなかった。いまだ爪も全て切りそろえていないだろうにティッシュの上にある爪をティッシュごとまとめてから捨てると、引き出しに爪切りを落として、そこでようやく自分の後頭部を掻き、「え、なに?どしたの?」と相変わらず訳が分かっていないようなアネッタから視線を外す。

「んでもねぇよ、馬鹿ッタ」
「あ!わーるいんだぁ、そういうこといって」
「うるせぇなぁ、さっさと寝ろよ。おれぁコンビニでも行ってくる」
「お小遣いあるの?」
「高三にもなりゃあ、案件の一つや二つあるからな、懐はあったけぇんだわ」

 そう言って意地悪に白い歯を見せて笑った後、「なんかいるか」とジャブラ。アネッタは珍しいこともあるものだと思いながらも彼を見上げて、精一杯の可愛い顔でおねだりをしてみせた。

「じゃあプリン。おたかいやつがいいなぁ?」
「一番安い奴な」
「話聞いてた?」

しかし、彼はいつものようなお小言を言うこともなく部屋を出たあとには.しっかりとそれなりに高いプリンを買ってきてくれた。これは普段ならば高いからと手が出ないようなやつだ。いつも買っている物とは違い、たっぷりとホイップクリームが乗ったそれは見ているだけで心が弾むようで、アネッタは、たまには熱もいいものかもしれないなぁと頬を緩ませた。