第五話:やっちまった!(🦒)


 驚くことに、熱が下がったのは三日後のことだった。
 早朝、朝ぼらけに家を出る。時刻は午前五時。この時間帯は、まだ町も眠ったように静かで、早起きの小鳥たちのさえずりが、普段よりも大きく聞こえる。

 家を出たのは特に目的のない、いわば暇つぶしの散歩であった。しかし、いくら見慣れた町であれど数日ぶりの外出となると、妙に真新しさというか新鮮さを感じる。私はそれを堪能するように両手を空に向けた後、ぐうっと伸びをして背筋を伸ばすと、ゆっくりを息を吐き出しながら手をおろした。

「……おにぎりでも持ってきたらよかったかなぁ」

 そうしたら、高台の方で街を見下ろしながら、最高の朝ごはんを食べることが出来たのに。
 かといって、コンビニで買うにもお財布は持っていないしと、ポケットを外側から叩いてみるが無いものは無い。ビスケットを叩くと…なんて夢のある言葉だって、増やすタネがなければ増えないのだ。仕方が無いので、私のポニーテールのようにふわんふわんと巻いた尻尾を揺らす柴犬・コタちゃん頭を撫でさせてもらう。

 お散歩中のコタちゃんは人懐っこく、いつもはピンと立った耳をヒコーキ耳にする。にぱっと笑う姿はたまらなく可愛くて、「コタちゃんは可愛いね~」なんていいながら両手で撫でると、飼い主のおばさんはくすくすと笑いながら尋ねた。

「それにしても早起きねぇ、今日は学校じゃないの?」
「あ……学校なんですけど、早起きしすぎちゃって……」
「あらぁ……いっつも昼過ぎまでぐうたら寝ているうちの息子にも聞かせてあげたいわぁ」
「それはそれで羨ましいかも……」
「もう!羨ましいことなんてないわよぉ!」

 そうして、暫くコタちゃんの頭や顎下、それからごろんと見せられたお腹を撫でながら、井戸端会議を楽しんだあとには、彼女たちと別れてもう一度歩き出す。ただ、住宅街を抜けた先にある河川敷をひとり歩いていた時に、背後から「こらーーーー!!!」なんて聞きなれた声が響けばヒクリと喉が震える。

 いやぁ、幼馴染って怖い。振り返りもしないのに、相手がカクだって分かるんだもん。

 ひとまず、どうして怒鳴られているのかは分からないが、捕まった後が怖いので逃げるようにして走り出す。しかし、そもそも私は数日ぶりの外出で、さらには運動能力も遥かにカクの方が上だ。だからいくら距離があるといっても一分とかからずに捕まってしまい、腕を掴まれるとカクは酷く動揺した顔で声を荒げた。

「っ病み上がりが何しとるんじゃ!」
「散歩ですけど?!」

 どうみても散歩じゃないか。別に大きな荷物を持っているわけでも、お財布を持っているわけでもない。ジャージ姿に運動靴と分かりやすく散歩ですって恰好をしているのに、どうしてこんなに動揺しているのか。私は、さてはいつもの過保護だなとにらんで「もう~、カクは過保護だよ!別に散歩に出ただけなのにさぁ」と反論すると、彼は眉間に皺を寄せて、不機嫌に返した。

「…っはぁ、……、……お前は病み上がりじゃろうが」
「そうだけど、でも……もう熱だって下がってるし、元気だから平気だよ」

 カクはいつだってそうだ。私より二日も誕生日が遅いくせに、私のことを出来の悪い妹扱いで、何かと口うるさくいってくる。朝はまず体調確認から始まって、登下校は当然のように一緒。自由時間に少し外に出ると言おうものなら、面倒くさいだのなんだのと言うわりにしっかりとついてくる。みんなはお兄ちゃんぶりたいんだろうと言うが、はたして兄とはここまで過保護にするものなのだろうか。

 私は不機嫌なままのカクを見る。彼の眉間には深い皺が刻まれており、それでいて此処までは恐らく走ってきたのだろう。彼は肩で息をするように浅い呼吸を繰り返す。何故此処まで必死になれるのか。それは分からないが、兎に角安心させたい一心で、両手をあげて元気もりもりってポージングをしたあと「別にそんな死ぬわけじゃないのにさぁ」と笑うと、その瞬間、掴まれた腕に痛みが走り、驚くほど静かな声が響いた。

「死ぬぞ」
「え?」
「人間は、簡単に死ぬんじゃぞ」

 静かなのに、熱の籠る声。まるで経験があったような口ぶりに、地雷を踏んだのだといやでも理解する。しかし、その静かな物言いはこれ以上の言葉を望んでおらず、腕に沈む指の力強さに呻き痛みを訴えると、カクはそっと手を離したあと、帽子のツバを下げた。そしてばつの悪そうな顔で「いいから、さっさと帰るぞ」と言ってひとり歩き出したが、彼はそのまま視線を向けてくれることはなく、ようやく目を合わせてくれたのは学校に到着して、教室の前で彼と別れたタイミングであった。

「それはさぁ、アネッタが悪いよ」
「だよねぇ……えーん…わかってる、なんか地雷を踏んじゃったのは私でも分かる……」
「なーんで心配してる人に死ぬわけじゃないなんて言うかなぁ…」

 引き出しに教科書類一式を入れたあと、前の席に座るコアラに話を聞いてもらうと、コアラはものすごく呆れたような顔で呟き、私は頭を抱える。そう、何かあの瞬間地雷を踏んだのは分かったが、まさかこうも空気が悪くなるなんて。
 あの時の、カクの切羽詰まった表情と、腕を掴まれた感覚が頭から離れない。

「……でも……だって、……あんなに怒るなんて思わなかったんだもん……それに私別に大病を患ったこともないしさぁ……」

 いつだってカクは、大人びて、どこか線を引いて物事を見るような冷静な子供であった。私に対してはよく口うるさく怒ってくるけれど、それでもあんな怒り方をすることは、そうはない。その時、そういえば最近サッチさんと公園で話した時にも随分と切羽詰まったような、鬼気迫るような顔をしていたことを思い出す。その時、なんだか自分の知らないところで彼が物事を考えすぎているようなと思ったが、彼は一体何をそんなに怯え、警戒しているのだろう。

 なんだか頭が追い付かない。ぐるぐるで、もやもやで、糸が絡まったようにうまく考えが出来ずに頭をごちんと机に預けると、「おはよう…って久しぶりに出席したかと思えば、一体どうしたんだ?」という言葉が襟首を引いた。

「あ、サボくんおはよぉ……」
「おはよう、顔色悪いぞ」

 隣の席にスクールバックを置きながら、サボくんが零す。確かに三日も四日も休んだ後の出席で頭を抱えていたら尋ねたくなるのも分かるが、今の自分では説明できそうにない。よって、問いかけにも応えずに「ああ」だの「うう」だのと呻いてうだうだとしていると、代わりにコアラが説明を加えながら、私の頬を突いた。

「それがねぇ、アネッタがカクと喧嘩したんだって」
「喧嘩?朝から?」
「そうでーす……朝一でやらかしました……」

 サボくんは不思議そうに聞き返しながら着席し、教科書類を引き出しに入れる。ただその間も彼は適当に流すわけでもなく、呆れるわけでもなく「珍しいな」と言って、私が頬を机にぺっとりと寄せたまま「そう~…でもきっかけは私だし、そもそも私が悪いのは分かってるの……」と零す様子を見た後、何か気付いたように一つ笑いを落とすと、私から視線を外し、隣にある窓に視線を向けた。

「……でも案外大丈夫なんじゃないか?」
「え?」

 サボくんを見て、視線を辿って右側にある窓を見ると、そこにはカクが立っていた。私は一体どうしたのだろうと考えるよりも早くに身体を起こして、ぎこちなく尋ねる。

「ど、うしたの?」
「少しいいか」
「ん……」

 どうにも落ち着かない。もしかしたら怒ってるのかもと思うとうまく見つめ続けることが出来ず、視線を落としながら彼の袖を指でつまむようにして引くと「カク、ごめんね」と呟いた。

「うん?」
「朝の事……」

 しかし、意外にもカクはあっさりとしていた。「別にええわい」なんて一言で話題を終えてしまい、であれば私の悩みはなんだったんだと思ったが、きっと彼なりの配慮だとかそういうものなのだと思う。

「その代わり教科書を貸してくれ」
「え、あ、教科書?」
「あぁ、国語の教科書を忘れてしまってのう。持っとらんか?」
「持ってるけど、カクが忘れ物するなんて珍しいねぇ」
「おぉ、朝は頭に血が上っておったからな」
「ウッ、…わ、私のところも三限目にあるからすぐ返してもらうことになるけど、それでもいい?」
「終わったらすぐ返すわい」

 少しずつ融解するような緊張感。私は内心どこかで安堵しながらも、引き出しから国語の教科書を取ってぱらぱらと捲る。それは小テストが挟まっていないかの確認だが、特に挟まったものはなさそうだ。私はすっかり安心してカクに向けて差し出したが、此方に手が向けられるとその手をつい避けてしまった。

「や、やっぱりやだかも……」

 空中で、差し出されたカクの手が空を掴む。

「は?」
「いや、えっと、あの、その」

 そういえば、最近この教科書に落書きをした気がしてならない。それも、彼には見せられないようなものを。それを見られるのはどうにも恥ずかしいというのは私の談ではあるが、もうそろそろ朝のホームルームが始まる頃合いだ。カクはちらりと教室内にある時計を見た後、息を吐き出して声を掛けた。

「………そういえば、あの三角のヘアピンはどうした?忘れてきたんか?」
「え?うそ、忘れた?……あれ?」

 直角三角形みたいな形をしたヘアピンは、私が一等大事にしているものであった。ゆえにそれがないと指摘をされると朝は確かにつけたはずだと片手を抑えていた場所へと向けるが、爪先にカツンと硬いものがあたる。いや、どうみたってあるじゃないか。不思議に思い顔を上げると、カクはその隙に教科書を抜き取って笑い、「わははっ、こいつは借りていくぞ!」というと、こちらの制止も聞かずに走って行ってしまった。

「ちょっとぉ!!」

 しかし、カクは止まらない。その後ろでコアラとサボが「やっぱり仲いいわね」「あぁ、全くだ」なんて聞こえたが、私はそれどころじゃないと彼の名を叫んだが、先生から怒られてしまい頭を垂らすことになった。

 そうして、アネッタから借りた教科書にあるへたくそな落書きを見て笑う。吹き出しにある「~じゃ!」という話し方を見るに、これは自分をキリンに模したものだろう。なぜ彼女が自分を模すものとしてキリンを選んだのかは分からない。思い出してもらいたいという一心から、十年以上キリンが好きだと言い続けてきたからだろうか。

「……、……」

 前々から思っていたことではあるが、彼女の教科書は自分のものと比べて遥かに色鮮やかで賑やかだ。まるで性格を映し出したそれは綺麗な蛍光色のマーカーで彩られ、それでいて端の方には吹き出しだの、落書きが多い。カクはそれを見て指を這わせた後、自分のノートにも書いてくれるだろうかと思ったが、一つ笑いが落ちるのは彼女が真っ赤な顔で「ぜったい嫌!」と怒る姿が想像に容易いからか。胸が暖かくなる感覚に愛おしく思う胸の弾み。カクは緩む口元を隠すよう顎に手をつくと、ふっと息を落とした。