「カク……どういうこと……?」
カクは患部を抑えて、ゆっくりと身を起こす。しかし、その瞳は気まずさを隠せずに伏せられてしまい、彼女の両親に向けて地面へと頭を擦りつけるように頭を下げる。
「……すまんかった」
絞り出すような、掠れた声。
今の状況が理解出来ず、アネッタは言葉は詰まらせる。理解出来ない。いったいなにを土下座する必要があるというのだ。止めるべきか迷うものの、両親の顔には厳しさが漂い、特に母の表情には軽蔑の色がありありと浮かんでいた。
その冷たい確執は、割って入る隙を与えてはくれない。
「ああ、恨めしい……お前がアネッタを託すことを薦めたというのに、……なのに、お前は私の可愛い子供を殺してしまった!わしが見守り続けようと誓ったお前が…!」
「……烏天狗、お前は私たちのたった一つの願いを踏みにじったのだ」
怒りを露わにする母が言い、父が静かに言う。
沈黙。とてもじゃないが、この会話に割入るような空気ではない。重く冷たい、肌を突き刺すような空気。ヒリヒリと僅かな電流が走るようなその空気に、たまらずジャブラに視線を送ったが、ジャブラもこの行く末を見守っている。
「その通りだ。……本当に、……本当にすまかった」
もう一度、絞り出すような……仕方なしに呟くのとはまた異なる謝罪。
ふと、十数年前の記憶がよみがえる。
あれは今から十二年前のこと。交通事故により、車もろとも崖に落ちた彼女たちが死を迎える直後、偶然通りかかった烏天狗は意識が朦朧とする少女を見ていた。力無くダランとした体に、容赦なく降り注ぐ大ぶりの雨。心音はいまだ強く、放置されない限り死ぬ事はないだろうが……問題は隣の両親か。フウと吹けば消えるほどの弱弱しい灯に、赤黒く広がる血液。これから救助が入ったところで、助かる道は無いと烏天狗には解る。
ザアザアドウドウと雨が降る中、少女を一人抱き上げる。それからせめて雨除けになる木の傍へと移動しながら、残る両親に向けて、静かに告げた。
「……お前たちはじきに死ぬじゃろう。しかし、今ある心残りがあまりにも大きい。……このままではこの土地に縛られる事になる」
「……」
身体は喋らない。
けれども、思念が語る。
「ああ……本当に悲しい……」
「まさかアネッタを遺すことになるなんて。一人で残して逝くなんて出来ない。……どうか、傍に居る事は」
二つの思念が語る、大きな心残り。彼らの立場からすれば当然の話ではあるが、先のとおり大きな心残りは土地に縛られて、怨念に飲まれた地縛霊となる。ゆえに、彼らが終わりの間際に願うそれに応える事は出来ず、首を横に振ったあと烏天狗は少しの間を置いて呟いた。
「……方法はある。まずお前たち魂は天へ逝き、正式な手続きを踏むんじゃ。そうすれば近しい者に生まれ変わる事も、あるいは守護霊として共に生きる事が出来るじゃろう」
「……でも」
思念が言葉を濁らせる。
それが何故だか少女を気にしているように思えてならない。
「では、彼女のことはわしが見守ろう」
今となっては、その言葉がすべての始まりだった。最初は、ただの同情心からの軽い約束にすぎなかったが、その誓いを裏切ったことはない。彼は静かに、しかし、重い気持ちで認めた。
「……確かにあの時、わしはお前たちに約束をした。わしがきちんと見届けようと」
「ではなぜ…!お前にとってアネッタは適当な、…っ数多くの人間ひとりだったかもしれない…!でも私たちにはあの子がただ一人の子供だったのよ!!」
母の声は悲痛と怒りが交錯し、感情を押し殺すことができないまま叫び出す。
「だからこそ私たちは、お前に託したのだ!!」
その瞬間、ゴウ!と憎悪の炎が再び燃え上がり、周囲の空気が一気に熱を帯びる。だが、カクはその怒りを遮るように、強く返した。
「違う!!」
「…ッ何が違う!お前は私たちの子供を……!」
「いいや、わしはきちんと見届けておった!!……毎日、彼女を見守っておった。……ずっと見ておったんじゃ」
瞳は一瞬揺れ、彼の頭が重々しく垂れる。その場には重い沈黙が続いて、息をすることさえ忘れるほどの圧迫感が漂ってくる。母も父も、言葉を詰まらせて、カクの言葉を待つ。カクは拳を強く握りしめるよう地面に爪を立て、震えるように押し殺した声で、胸の奥から込み上げてくる懺悔を絞り出した。
「……だが、彼女の心は清らかで、……気付けばもっと近くで見守りたいと、そう思ったんじゃ」
目を閉じると、あの子供の笑顔が浮かんだ。
無垢な瞳、透き通る声、ただ生きているだけで世界を明るく照らすような存在だった。家に帰れば厳しい現実が待っているのに、自分に会いに来る彼女はいつだって幸せそうに笑っていたんだ。……それに触れるたびに、人の心から忘れ去られていく存在である妖の心は次第に揺らぎ始め、同時に疑問に思った。なぜ彼女のような清らかな魂を持っている子供が、消耗されるだけの人生を歩まなければならないのだと。
彼女は痣を作って神社に逃げ込む事もあった。ある時は躾と称して殴られて、ある時は真冬に薄着姿で追い出されて。おそらく、妖たちの保護が無ければ、死んでいた瞬間だってあった筈だ。
「お前たちの頼みを忘れたわけじゃない…だが、彼女があまりにも…」
あまりにも不憫すぎたのだ。であれば妖の国で、幸福を約束する自身の隣にいた方がよほど良い。その反面で、カクは自分の言葉が出てくるたびに、介入出来ない自己嫌悪に苛まれた。自分自身に下した無力さが、両肩に重くのしかかる。
「なにを……あの時はたったの五歳だったんだぞ……?」
しかし、それに反して両親たちは意を唱える。
そんなバカげたことがあるのかと、あり得ないと。そんなことを言いたそうに。
「……わしら妖に年齢はさして意味をもたない。生命はあれど、わしらは長く生きる長命族じゃからのう。……だから、いっそのこと思うたんじゃ。こんな馬鹿げた場所にいるよりも、わしのもとで永く生きた方が幸せにしてやれると」
彼の瞳が寂しげに瞬く。けれどもその意志は今も変わらずに、静かに、けれども強い決意が滲んでいたように思う。
当然、父母はそれをすぐに飲み込むことは出来ない。いいや、親として飲み込むことがあってはいけないのだと、母は遮るように声を荒げた。
「……ッそれが、アネッタを、アネッタの人生を奪った理由だっていうの?!全てあなたの一人よがりじゃない!」
「ッお母さん!まって、カクだけを責めないで!!」
「アネッタ………」
「…違うの、私がカクに助けてって、命がなくなることも理解した上でお願いしたの……。……助けてほしかった。……学校も、家も、まわりも、助けなんてひとつもなかった」
彼女は語る。確かに彼ら父母からしたら、烏天狗から一方的に命を奪われたように見えるかもしれない。けれど、実のところは真逆で、彼はずっと選択肢を与え続けていた。心臓を対価に、烏天狗をその場に呼び出すことの出来る令命石<レイメイセキ>を渡してくれたあとだって、よく理解できずにその場で呼び出そうとする私を見ては「いかんいかん」と少し慌てたように止めて、理解するまで何度も教えてくれたのだ。
彼はなにも自分の意見ひとつで命を奪ったのではない。アネッタはそう伝えたかったけれど、父母の眼差しは静かであった。
「アネッタ、……お前は彼に騙されているとは思わなかったのか」
ひやりと背中を撫でるような静かな言葉。
父は、続けて言った。
「子供にはすべからく守られるための法律や決まりがある。……探せば方法だって他にもあったはずだ。それを彼は後戻りのできない選択肢を与えた。決して許されない行為だ」
「……、……、でもね、……お母さん、お父さん。法律があったとしても、決まりがあったとしても、事故が起きてからずっと見守って支えてくれたのはカクだったんだよ。……お母さんたちと別れた五歳以降、十年以上ずっといてくれたのは、カクだった」
声が震える。
なんて惨いことを言うのだろうと、アネッタは分かっていた。
だってそうだろう。何も両親は好きで離れていったわけではない。不慮の事故で泣く泣く離れなければならなかった両親に対して、お前たちがいない代わりに別の男がずっといてくれたのだと言うのは、あまりにも惨い仕打ちだ。けれども、それは酷く突き放すような言葉である反面、事実でもあった。
ジャブラも一緒にいてくれたよね。とアネッタ。
ジャブラはそれがこそばゆいと鼻を鳴らす。
「……、……」
愛娘の言葉を聞いて、両親たちは押し黙る。それでも何か方法があったのではないか。親としてはどうしてもそれを考えてしまう。けれども、彼女から離れる事になった両親が何を言えようか。……否定出来る筈もない。
彼は、自分たちよりも長く一緒に居たのだ。約束を守って。
両親は全ての後悔と、寂しさと、怒りを飲み込んでアネッタに尋ねた。
「……後悔は、していないか」
こんな時、何を言ったら全てが丸く収まるのだろう。何を言えば、烏天狗も、両親たちも笑ってくれるのだろう。けれど、両親の真っ直ぐな瞳を見て適当な事は許されないとも思う。いまは真っ直ぐに、しっかりと伝えることが一番に思えてアネッタは酒呑童子のジャブラを見て、それから地に座ったままのカクを見て、笑みを浮かべた。
「……うん、後悔なんてないよ。私は幸せだもん」
その瞬間、ぐいと腕を引かれて両親に抱かれる身体。その体は不思議と暖かく感じて、今までに感じていた憎悪を感じない。そこにあるのは親からの愛情ただ一つで、見上げると暖かい涙が落ちてアネッタの頬を濡らした。
「おかあさ」
「ごめんなさい、アネッタ。あなたを一人にする気なんてなかったの」
「すまなかった……おれたちがあの日事故にならなければあんなに辛い思いをする事はなかった筈だ」
二人からの謝罪。けれど、両親に会って受けたかったのは、謝罪ではない。アネッタは二人の身体を力いっぱいに抱きしめると「大丈夫だよ」と微笑み、両親の身体をそっと離れた。その瞬間、これまでの緊張が解け、空気が柔らかく変わっていくのを感じる。
母はふと視線を遠くに向け、深く息を吐き出すと、まるで過去の重みを手放すようにゆっくりと口を開いた。
「……烏天狗」
その声は怒りではなく、静かな暖かさを帯びていた。母の眼差しも、もう憎悪ではない。空間には優しい温もりが満ち、まるで長い間閉じていた心の扉がそっと開かれるかのようだった。
「私たちはまだ、あなたを全て許す事は出来ないわ。……いいえ、娘を間接的に死へと導いたんだもの。……何がどうあっても、きっと許せない」
「…だが、私たちの願いも聞いてくれてありがとう。……それから、すまなかった」
許せないと、そう手厳しく零す一方で、彼らは背筋を伸ばしたあと深く頭を下げる。
烏天狗は首を振った。
「……あぁ、わしも親の立場じゃったら同じことを思うじゃろう。当たり前のことじゃ」
「……ありがとう。アネッタもごめんなさいね。……ちゃんと幸せになるのよ」
幸せにしてもらうではなくて、共に幸せになれるよう動きなさい。母は言い、あの日からうんと大きくなった彼女に零す。……出来れば、彼女たちの行く末、いいや、せめて晴れ姿だけでも見たかった。けれどもこんなことをしでかして此処にとどまる事は出来ないだろう。
現に腹を貫かれたカクは呻き、身体を崩す。その様子にアネッタは慌て今にも泣きだしそうな顔でどうしようと言うと、これまで静観していたジャブラが前に出て、近くにある瓢箪を差し出した。
「ったく世話のやける……おう、アネッタ。残りの酒を傷口にかけろ」
「え……?」
突然の指示にアネッタは瞬きをする。しかし、ジャブラはそれ以上の説明をすることなく、面倒くさそうな顔を向けるだけ。アネッタはぽっかりと蓋の無い口を見て思う。
本当に、酒をかけるだけでどうにかなるのだろうか――心の中で湧き上がる疑問。それでも、今は彼を助ける手段がこれしかないのなら、これに縋りたい。
「……わかった」
覚悟を決めたアネッタは、彼の衣類をそっと乱し、傷口が見えるように前を開く。露わになった腹部には、赤黒く痛々しい傷が広がっている。目を背けたくなるほどの凄惨な光景で鼻先をつくのは、鉄の錆びついたような血の匂いで、熱を帯びた空気に混じって漂い続ける。
「……カク、痛いかもしれないけど我慢してね」
アネッタは息を詰め、彼の痛みが自分にも伝わってくるような錯覚を感じながら、ゆっくりと瓢箪を傾ける。わずかに残った酒はトロリと口から滴り落ち、傷口に触れた瞬間――白い蒸気が勢いよく立ち昇り、焦げるような音が辺りに響いた。酒が焼けつく匂いと共に、まるで炎が肉を焼くかのように貫かれた皮膚が反応して音を立てる。彼は顔を歪め、喉から抑えきれない呻き声を漏らす。
「ぐ…ッ!」
痛みが波のように押し寄せる一方で、傷口が目に見えて再生を始めた。ぽっかりと開いていた穴が、細胞が再生していくかのごとく驚異的な速さで塞がっていく。皮膚が引き寄せられるように、赤黒かった傷が徐々に薄くなり、跡形もなく消えている。あまりの変貌に驚愕と安堵が入り混じった気持ちで、アネッタは息を呑む。
「傷が…塞がってる……」
その瞬間、アネッタの頭に、かつての自分が死んだ日の記憶が蘇った。養父から金も渡されずに酒を買ってこいと言われ、途方に暮れていたあの日。どうしようもなく、ジャブラに酒をねだったことを思い出す。だが、彼は断った。
その時はただ意地悪で断ったのだと思っていたが、今ならわかる。……あれは、きっとそうじゃなかったんだ。
「……っはぁ……」
カクがゆっくりと息を吐き出して、静かに呼吸を繰り返す。その顔色は先ほどよりも良く、じっとりと額に滲んでいた筈の脂汗が、今度は玉になって落ちる。……ああ、きっと、もう大丈夫だ。それを確信させてくれるように、手を撫でる彼のカサついた手がいまは愛おしくて仕方がない。
アネッタは唇を震わせて大粒の涙を落としながら、彼の手を握り返して頭を垂らした。
「よかった………ッ、よかったよう……」
「……心配かけて、すまんかった……」
耳元で聞こえる彼の声。穏やかなその声は少し掠れているけれど、これ以上の喜びはない。手を撫でていた手が、目元を撫でる。ぱたぱたと落ちる涙に息を漏らすようにカクは笑い、「いつまでたっても泣き虫じゃな、お前は」そう零したが、今だけは反論できそうにもない。ただ彼に甘えるよう頬を摺り寄せて、笑みを浮かべた。
「……しかしよォ、オメーの母ちゃんたちはすげぇな。お前のためにこの屋敷にいた全てやっちまうなんてなぁ」
空気を読まずというべきか、少しの間を置いて零すジャブラに、父母が表情を曇らせる。それに対して、カクは折角落ち着いたのに掘り返すなという目を向けたが……まぁ、いずれは掘り返さなければならないことだ。
ジャブラは構わずに答えを待つと、父母は後悔を滲ませながら返した。
「……私たちどうかしていたわ」
「すねこすりと、ヨゲンノトリは逃がすつもりだったんだが……」
その声色も沈み、途端にこの場にある一件落着の雰囲気は陰りを見せる。
しかし、アネッタひとりだけは違和感を覚えた。
「……ねぇ、じゃあ天吊るしは?」
「天吊るし…は、あの天井にいた坊やのこと?」
「そう!……えっと、なんか一歳とか二歳くらいの赤ちゃんなんだけど」
言葉に瞬く父母。
二人お互いに顔を見合わせた後、不思議そうに言った。
「……?私たちは何もしていないわ」
「え?」
「あなたのような子供を亡くした私たちが、同じような子供に手をかけられると思う?」
「おい待て、おれがこの屋敷にきた時にはもう天吊るしはやられてたぞ。……いや、そもそもアンタらがおれを封印したんじゃねえのか」
「何のこと?そもそも私たちは烏天狗だけを殺すつもりできただけで、ヨゲンノトリも、すねこすりも先に死んでいたわ。……まぁ、だから私たちは今が好機なのだと……動いたのだけれど」
「……じゃあ、あの輪入道たちは……?」
続く父母の反応を見て、抱いた違和感が確信に変わる。
つまり、
「お母さんたち以外の誰かがいる……?」
言い終えて、アネッタが周囲を警戒するように視線を巡らせた瞬間、とつぜん空気が凍りついたかのように張り詰めた。何かが、いや、誰かがこの屋敷に居る。ヨゲンノトリと、すねこすりと、天吊るしを殺し、ジャブラまでも封印した誰かが。
足音ひとつ立てずに粛々と動くだけのそれは、いったい何の目的があるというのだろう。
そのとき、風を切る音が背後から襲いかかった。アネッタが反応する間もなく、視界の端に鋭い閃光が走る。冷たい殺意が、背中に突き刺さるように感じて咄嗟に振り向いたが遅い。視界の端から現れた異物が、刃を振り下ろしていた。
「あ……!」
時が止まったかのような瞬間。アネッタの心臓が早鐘のように鳴り響く。しかし、その刃が彼女に届く前に、影が下から飛び出してアネッタの前に立ちはだかり刃を受けとめる。
「…ッ……っぐ……」
「カク!!」
なんで。どうして。背を向ける彼に深々と突き刺さり、鋭い音と共に、血が飛び散り、目の前の光景がやけにスローモーションに見える。カクは苦悶の表情を浮かべながらも、アネッタを守るために立ち続けていた。
「くく、ぅくくくく……!!!小娘を狙えばお主が来ると思っておったぞォ、烏天狗!!」
――ぬらりひょん。その外見は一見ただ腰の曲がった穏やかな老爺だが、実態はその正体は妖の国を裏で牛耳ろうと陰謀を巡らす狡猾な支配者。しわの深い顔に宿る瞳には、計り知れない狡猾さと殺意が潜んでおり、彼の動きはまるで影が滑るように素早く、冷酷な笑みが唇に浮かぶ。
「…ッ…ぐ……ぬ゛ら、りひょん……ッ!……ア、ネ゛…ッごほ…ッ、わ、しの後ろに隠れ、とれ……ッぐ、……酒…呑童……あとは……頼……」
「おう!」
両手を広げた酒呑童子がオオッと唸り、咆哮を上げて黒炎を纏う。額にある二本の角は雄々しく伸びて、ぎらりと目を赤く光らせた彼は地を蹴り腕を振るうが、ぬらりひょんは身軽に地を滑るように後方へ身を下げる。その顔にはいまだ興奮が滲み出ており、「酒呑童子よ、あの忌まわしき若輩者、烏天狗が今や姿を消し、この妖の国を守る力も弱まっておる。今こそ我が元に加わり、共にこの国を支配しようではないか。妖の国を統べる者どもを滅し、我らの手中に収めるのだ!」と声高らかに語るが、まったく反吐の出る話だ。
酒呑童子は纏う黒炎を揺らめかせたまま、「興味ねェよ」と吐き捨て、重心を低く構え、狼のように駆ける。それに舌を打つぬらりひょんは袖に控えた小さな妖たちを野に放つが、こんなもので一瞬の隙などは出来ない。右に、左に、目で追いつかぬほどの速さで避け、ついでに妖を踏みつぶして隆起した岩を駆け上がって飛び上がる。鋭く伸びた爪は枯れ枝のようなやせこけた腕を捥いで、ぬらりひょんは痛みに呻き、袖と腕を失くした肩を抱くものの、彼もまたこの好機を逃すわけにはいかない。
いったい何年この時を待ったというのだ!
ぬらりひょんは声を上げる。
「集え!恨みをもった妖たちよ!この馬鹿どもを皆殺しにするのだ!!」
ジャブラは何を言い出すんだと鼻で笑うが、たちまち辺りが曇天に覆われたように影を落とす。見上げると、そこには烏天狗の結界が緩んだせいなのか、闇から這い出すように不気味な足音と共に、無数の妖が屋敷を取り囲む。
一つ、二つ、三つ――空を覆い尽くすほどの妖が押し寄せ、アネッタは息を飲んだ。……自分たちだけでは到底対処できる数ではない。これはまさに百鬼夜行だ。妖の圧倒的な数に瞬きを忘れ、立ち尽くす彼女の耳に、鋭い錫杖の音が響き渡るや否や、上空を覆う妖たちの間に裂け目が生まれて次々と妖たちが崩れていく。
生まれた裂け目から差し込む光は祝福か。豪快な笑い声と共に、一団が姿を現した。
「よよォい!随分と派手にやらかしてるじゃアねぇか~!そんな大勢相手に、ア・おいらたちを待たずに始めるなんて水くせぇ!」
先頭に立つ桃髪の男が白い歯を見せて笑い、錫杖を回しながら降り立つ。その後ろから次々と仲間たちが続き、闇に包まれたはずの屋敷が仲間たちの力で光を取り戻すように、圧倒的な緊張感が一転し、戦局が一気に変わり始めた。
「麻桶の毛…!!なんのつもりだ!」
「あ、ちょいとォ助太刀ってェわけだぁ~~」
麻桶の毛ことクマドリの背後に控えるは、これまでの友人たちだ。牛頭鬼のブルーノ、千鬼姫のカリファに、猫鬼のルッチ、たたりもっけのフクロウ。それらの姿にぬらりひょんは怯み、狼狽えたが、先に手を出したのは彼らだ。ルッチはスウと手を伸ばすと、闇夜に溶けて身を隠していた多くの猫妖怪が現れて、駆け出す。「――百猫夜行だ」誰かが呟いたが、それが誰なのかは分からない。とにかくそれほどまでに多くの妖たちがこの屋敷に集まっていたのだ。
「……数はこれで潰せそうか」
「そうね、ある程度は私たちでやればいいでしょうけど」
言いながら、カリファは袖口からボタボタと赤い液体が垂れ落として形を作り、茨の鞭を生み出す。女の生き血を啜り永久の美を得る千鬼姫――いつぞや若い女が特に好物だから気をつけろとカクは言っていたが、今ほど頼りになる存在は無い。
「ルッチ、大型はおれがいこう」
「チャパパ~おれもいくぞ~」
向かい来る妖怪たちに向けて、歩みを進めながらその姿を変えていくブルーノとフクロウ。ブルーノは重厚な気配をまとい、厳かで威圧感のある巨大な牛頭の鬼へと変貌を遂げる。その姿は、まさに名にふさわしい牛頭鬼――堂々とした角が天を突き、瞳には燃えるような怒りと決意が宿る。
一方、フクロウはその名にふさわしく、大きく広がる翼と鋭い三つの目を持つ巨大な梟へと姿を変える。その静寂の中に漂う威厳と冷静さは、まるですべてを見通しているかのようだ。彼の存在感は、空間そのものを支配し、誰もが息を飲まずにはいられない。
ブルーノはフクロウの足を借りて空へと上がると、ひときわ大きな妖の顎を蹴り上げて、喉を掴んで地面へと叩きつける。フクロウは小さな妖たちをその身に吸い込んで、再利用するように念破として飛ばすが随分と効率の良い方法だ。
後に控えるルッチもこれが好機だと下克上を狙い駆け寄る妖を足だけで払い、倒れた体を踏みつけて、カリファの血の鞭が当たり一体の有象無象を払う。アネッタや父母の周りに近寄る者々は桃色の髪をうぞうぞと揺らす麻桶の毛ことクマドリが髪の毛を絡めて妖を捕らえて払うが……兎にも角にも彼らは強かった。
数百の妖は数度の瞬きの内に倒されて、体が屋敷の中へと倒れていく。その間、彼らの顔色は涼しいもので、数人には笑みすらある。この状況にぬらりひょんは後退り、こんなことがあり得るのかとその身を震わせたが、根幹をこのまま生かすわけにはいかない。
「ギャハハ…!おおかた烏天狗を殺して、おれたちの立場を危うくすることも考えていたんだろうが……ざまァねぇなァ!」
「……ぬらりひょん。裏で妖たちを従えているのは把握していたが、馬鹿な真似をしたものだな」
ジャブラが笑い、ルッチが冷徹に零す。その間にはぬらりひょんの命乞いが聞こえた気もするが、瞬く間もなく沈黙へと代わり、灰のように散っていくものを見つめた彼らは息を落とした。
「……これで終いか」
「へっ、数の割に弱ぇな。…まぁ久しぶりに暴れられたからいいけどよ」
「かく!!!カク、返事をして!!!!」
しかし、皮肉な事に終わりを告げたのは対峙した妖の事であって、いま此処で烏天狗の命が尽きようとしている現状は変わらない。状況は悪化を辿り、握りしめた手の先が透けはじめている。
「……う………」
「駄目、カク……ッカク!!」
透け始めたそれが、終わりの時であることは輪入道の最期で見た。
アネッタはただ子供のようにワアワアと泣き喚く。
「やだ、やだやだやだ、駄目、駄目だよカク、カク!!」
どうすれば、どうすればいいんだろう。
どうすれば彼を助けることが出来るのだろう。
そこまで考えて、アネッタは転がったままの瓢箪を取る。しかし先に使用したせいで残りは酒一滴たりともなく、ジャブラに「さっきのお酒を!」と縋ったが「もう無えよ」。それが、意地悪で言っているわけではないと、分かっているだけに言葉が詰まる。
であれば、以前ツノが薬になるといっていた牛頭鬼・ブルーノに角を強請るものの、彼は首を横に振る。
「……あれは魂を定着させる効果があるだけで、いまの状態には何の役も果たさない」
「そんな……!……っねぇ!ルッチ!ルッチは、猫鬼の最上位…ネコテラスオオミカミ……神様なんでしょ?!だったら、だったらカクを!!」
「……おれは名を貰っただけで神じゃねぇ」
「カリファ……」
「……血液を持っているだけよ」
「ッフク、ロウ…」
「チャパパ……おれも回復するような能力はないぞー……」
「クマドリ…」
「ヨヨォイ、申し訳無えが、おれたち妖に回復を持つものはそうはいねェ」
掴んだ手が、ずるりと落ちる。アネッタは目の前が暗くなったような気がして、途端にうまく息が吸い込めなくなる。ヒ、ヒ、と引きつるような呼吸に、落ちる涙。目の前にいるのに、何も出来ないのか。
こんなのって、こんなのってないよ。
あまりの無力さに、怪我もしていないくせに胸が痛む。
「お願い……みんな……私、カクを死なせたくないの……!彼を死なせるわけにはいかないの!」
透け始めた体を必死に抱きしめて、縋る。けれども消滅の進行は止められず、抱きしめる感覚が段々と薄れていくのを感じ、アネッタは必死に頭を動かしたあと顔を上げて妖たちを見上げた。
「……、……私がヒトの心臓を渡して妖になったように、いま在る妖としての心臓を渡したら、カクは生き延びることは出来る……?」
それは、あまりにも酷な選択であった。けれども、その一方で妙案であった。妖は魂を取り入れる事が出来る。であれば人が輸血をするように、失った心臓の一部を与える事で力を得る事が出来る筈。……だが、そうなった場合の彼女はどうなる。そこまで考えて妖たちは答えを返してやる事は出来ないが、アネッタにはこれしか選択肢が無かった。
「……カクには私の心臓をあげる。寿命でも、心臓でも、なんでも!……私はカクがいなきゃ駄目なんだよ。私はカクがいるから、……あの時カクに助けてもらいたくって願ったんだよ。………いなかったら意味がないじゃない!」
齢十七歳での決断は力強い。アネッタは薄汚れた着物で涙を拭うと、透けた手を握りしめる。
そこへ声を掛けたのは、他でもない彼女の両親であった。
「………アネッタ」
「お母さん止めないで、私は」
「アネッタ、よく聞きなさい」
「……お父さん」
「………いいか、私たちの心臓を使いなさい」
「え…?」
「どのみち私たちは許されないことをしたわ。だから、その償いでもあるし、何より可愛い娘の願いをかなえるのも、親の務めでしょう」
「っでも、そうしたらお母さんとお父さんが…!」
「……ねぇ魂に相性はあるのかしら。拒否反応とか」
動揺するアネッタをよそに、母は冷静に妖たちへ尋ねる。それに対してカリファは「……いくつかはあるけど、アネッタの魂を受け入れた彼の身体なら、血族関係のあるアナタたちの魂は大丈夫と思うわ。でも、……無いとはいいきれない」と答えてみたものの、あまり無い事だ。決して断定する事は出来ない。
カリファは心臓の継承を行ったとて、どちらも死んでしまうかもしれないことを暗に伝えると、母は少し悩んだ素振りを見せたあと、一つの提案を向けた。
「そう、………じゃあアネッタに一度わたしたちの魂を移管して、アネッタから移すというのはどうかしら」
「……それはいい考えかもしれないな、例がないが危険性はかなり下がる筈だ」
ブルーノが難しい顔で答える。
確かに、人間であったアネッタの心臓はカクが受け入れた。であればアネッタから新たに血縁者の心臓を渡したとて、拒否反応はない筈だ。
「……お母さん、お父さん」
「……もっとあなたと居たかったけど、きっとこれが最善であるはずよ」
勝手ばかりでごめんなさいね。と母。
「アネッタ、お前があのとき最善を選んだように、私たちにも最善を選ばせてほしい」
父の声は、彼女のざわついた心を抱きしめるような、酷く優しいものであった。
アネッタはその言葉を耳に、選択肢が覆るものではないと悟る。
「……、……また会えるよね」
最期の言葉にしては、少し子供っぽかっただろうか。
父と母は顔を見合わせたあと、息を漏らすように笑みを返した。
「あら、それどころかずっと一緒よ。彼がいる限り」
「……さぁ、急ごうか」
アネッタ、おいで。父が手を開いて駆け寄る子供を抱きしめる。母もそれに身を寄せて腕を伸ばして小さなころと変わらない愛情を向けた後、別れの言葉を言ってその姿は二つの魂へと変わる。めらめらと強く燃える青い炎。アネッタはそれを見つめて胸が酷く痛くなってしまったが、此処で無しにするわけにはいかない。
抜け落ちた魂を食らう。……口の中が熱い。でも、あつくて、暖かくて、心がぎゅうっと苦しくなる。めまぐるしく脳裏を駆け巡るのは二人の思い出だろうか。それとも暖かな愛情であろうか。アネッタは溢れ出る涙を抑えきれなかったけれど、それを飲み込んだ後、「帰っておいでね、カク」そういって少し前に彼がしてくれたように、そっと口づけた。
*
松の木に止まった蝉が鳴いて、三毛猫が足の合間を擦り寄って通る。最近生まれたのだと紹介されたそのすねこすりは、人懐っこくそれでいてうんと甘えん坊であった。後追いしてミャアミャアと鳴く様子に縁側で膝に抱き上げると少し離れたところから声が掛かる。
「なんじゃ、浮気か?」
最近はそのすねこすりにお熱じゃのう。彼はもう数百年と生きている筈なのに、随分とやきもち妬きであるらしい。いじけたように唇を尖らせる彼はどこか幼く思えて笑うアネッタに代わってすねこすりがミャアと鳴くと「お主じゃない」と冷静なツッコミが向けられる。
「ん、ふふ……そんなすねこすりに敵対しなくとも」
「いやぁ、こいつも妖で…しかもオスじゃからな。十分浮気の対象になるじゃろうて」
「えぇ?」
まだ生まれたばっかりなのにな。思いながらも猫の顎を摩ると隣へと腰を下ろすカクが、自分と彼の合間に三つの器を置く。そこには真っ白なご飯が二つと、輪切りされたキュウリとごまが浮かんだ茶色の汁。
「あ、冷や汁だ!」
「わしが飯当番の日はこればかりですまんのう」
「えー?別に美味しいからいいよ。作ってくれてありがとう」
ちょっとごめんね、とすねこすりに声をかける。それから、お玉で冷や汁を掬い、ご飯にかける。「いただきます」と冷や汁を口に運ぶと、ひんやりとした出汁の風味が広がり、シャキシャキとしたキュウリの食感が心地よく、白ご飯との相性も抜群だ。口いっぱいに広がるその爽やかさに、思わず頬が緩んだ。
「うーん……安定のおいしさ……でも夏が終わったらこれもおしまい?」
「いやぁ、別に何時食べてもいいとは思うが……まぁ、これからの時期は芋やサンマが上手い時期じゃしのう。芋を入れた飯でも良いかもしれんな」
「あ、おいもご飯もそうだけど、サツマイモが入ったお味噌汁も好き!」
言葉を聞きながら「ついとるぞ」と口端にある米粒を摘まむカク。
その顔は穏やかで、続く言葉には笑みがある。
「おお、そりゃあ作らんといかんな」
「いっそのこと庭に小さい畑を作るのもいいよねぇ……」
「そうしたら四季折々で色々食べられるのう」
「ふふ、じゃあこうやって今みたいに並んで一緒に食べて、沢山はなそうね。楽しいことも、そうじゃないことも」
「……そうじゃな」
妖の国では、静かに穏やかな時が流れていく。
人間に忘れ去られた妖たちの姿は、もう誰の目にも映らない。それでも、彼らの平穏な日常は途切れることなく続き、ひっそりとそこに在り続ける。
何事もないように、ただ静かに。彼らの世界は、永遠に流れ続ける。
終わり