【三話】眠れない夜に(🥖🍍)

 薄く開いた丸窓から聞こえる心地よい波音を耳に、身を起こす。布団に入って約二時間。どうにも眠る事が出来ずに、時間ばかりが過ぎてしまった。

 丸窓の奥にある月の位置は高く、紺碧の空には朝の気配が見えない。起床するにはまだ早いが、二時間粘って眠れないのだ。このまま頑張っても放牧した羊たちが増えるばかりで眠れそうにはない。アネッタは一万匹を越えた羊を抱えて、素足のまま部屋を出ると、深夜帯であるにも関わらず、廊下にはまだ人の気配があった。

「……まだ起きてるのかな……?」

 少し離れたところから、笑い声が聞こえる。

 なんだかそれだけで、心寂しい感覚が紛れるような。気付けば安堵するように吐息が落ちていて、遠くに見える人の気配と光を頼りに足を進めると、光と笑いの根源はギャレーであったようだ。笑う声を聴くに、中に残っているのはマルコとサッチだろうか。アネッタは階段を降り、こっそりと中を覗くと、物音ひとつ立てないよう気をつけていたはずなのに人陰に気付いたらしいサッチが此方を向くと、驚いたような顔で壁にある時計を確認したあと、駆け足で駆け寄ってきた。

「どうした、アネッタ。起きるにはまだ早い時間だぞ」
「あ、うん……起きたって、言うか……その」

 その時、なんだか怒られそうな雰囲気に視線を落とす。というか、深夜徘徊しているこの状況は怒られても仕方が無い。そう思うと、今の今まで起きていたとは言えずに後ずさってしまうが、目の前に立つサッチは怒るわけでもなく、呆れるわけでもなく「もしかして、眠れなかったのか?」と尋ねると、心配を滲ませてアネッタを見つめた。

「え?」
「違うか?」
「あ、……、……うん、……実は、その、……ちゃんと寝ようってお布団には入ってたんだけど、眠れなくて」

 でも本当に寝ようと思ったの。二時間前にはお布団に入ってたし、羊だって数えたし。寝なくちゃいけないって寝る努力もしたんだけど。アネッタは言い訳を並べながら手のひらがじっとりと濡れる感覚に拳を握る。

 怒られるかもしれない。失望されるかもしれないという漠然とした恐怖。彼の心配そうな顔を前にしても焦りばかりが生まれてしまい、声が上ずるが、なんだか喋れば喋るほどみっともなく思えてしまう。
 その時、何故だか分からないけれど、元の世界にいたときのことを思い出した。あの時の私は同じように眠れずに部屋を抜け出しては、見回りをしていた養護施設長に声を掛けて手を振り払われたんだっけ。「言い訳は結構です。部屋へと戻りなさい」あの時に言われた言葉が、頭の中に木霊する。

「……、……、………」
「アネッタ?」

 なんだかその瞬間、たまらなく虚しくなってしまった。そうか、私はあの時と同じ轍を踏もうとしていたのか。アネッタは彼に気付かれぬほどの小さな息を吐くと、呼吸を整えるよう息を吸い、普段の声色に寄せて笑った。

「でももう大丈夫!な~んか二人の顔を見たら安心しちゃったし、もう寝ちゃうね!」

 我ながら百点満点の愛嬌さを出せたと思う。あとはこのギャレーを離れるだけ。アネッタは階段状で踵を返しふんわりと髪をなびかせたが、「なぁ、アネッタちょっと待ってくれよ」という声が袖を引くと、「本当に大丈夫か」と心配が向けられた。

「……え?」

 こんなことをされたことがないからか、判断に迷う。私はどうすればいいのだろう。だって、あの時の先生は、言い訳は結構だと言っていたではないか。私の手を振り払ったではないか。アネッタは言葉と選択に迷い、もう一度視線を落としたが、サッチは落とされた視線と一緒に彼女の手を掬い取り、静かに、けれどもはっきりと言った。

「……寝られないのは、悪いことじゃねえよ」

 アネッタの手に触れるサッチの手が、じんわりと暖かい。

「……怒らないの?」
「怒るかってんだ。おれっちだって寝られない時はあるしな。誰だって寝られない時はあるさ」
「マルコも?」
「別に怒らねえよい、というか何を怒ることがあるんだ。……それよりも、おれはお前が見えないところで考え込んでる方がずっと寂しいよい」
「だってよ」

 その言葉に、もう一度二人の顔を見る。二人とも心配こそすれど怒りの色は見えずに、その瞬間張り詰めた緊張の色が和らいでアネッタはずるずるとその場に座り込むと「お、怒られるかと思ったぁ……」となんとも情けない声色で零した。

「怒らねぇよ、ったくうちの末っ子は……ほらホットミルクでも入れてやるから」

 言いながら、座り込んだアネッタの体を抱き上げる。ひょいと抱えた体は、やはり羽のように軽く、靴を履き忘れた足はひんやりと冷えている。そういえば先の会話で、マルコが彼女専用の特別メニューを考えてほしいと言った時にはそこまでの対応が必要かと思ったが、成程、これは特別対応が必要そうだ。

 ひとまず彼女を抱えたまま、冷えた足は手のひらで温めながらマルコの隣へと連れて行ったが、彼女はいつまでたっても降りようとはしない。不思議に思いサッチが顔を覗き込むと、アネッタは視線を合わせた後、露骨に視線を外しながら首元に顔を寄せるようにして、おねだりを零した。

「……あったかいから、もうちょっとこのままがいい」

 その時の、いじらしさといったらもう。

「おいおい聞いたかマルコ、うちの末っ子は甘え上手ときたもんだ」
「肉布団だねい」
「いや、言い方もっとなんかあるだろ……」

 そうして、アネッタはサッチに抱かれたまま、他愛のない談笑もそこそこに、マルコとサッチは明日の話へと戻る。その内容は、これから先の海路だとか食糧庫にある食糧の話だとか。内容は少々小難しい事ばかりが多く、アネッタは早々に置いてけぼりを食らうことになったが、それでも二人の会話は耳障りの良い子守歌だ。よって、幾ばくもなくサッチに抱っこされたままのアネッタは眠りに落ちていた。

 すうすうと、規則正しい寝息は静かに響く。ふたりはそれに気付くと顔を見合わせて笑ったが「手のかかる子ほどかわいいってな」と話す言葉はひときわ穏やかで、マルコは近くにあるブランケットをかけてやると、彼らは声の音量を抑えながらも話を続け、サッチの手は彼女の背を優しく叩き続けた。