ある日ぽっかりできた島というのは、人が住むには環境が適していない岩山であった。
岩山の周りには、ごくわずかな浜辺があるだけで、浜辺にも、それから岩山にも植物は自生しておらず、動物の姿も見えない。総じて特に価値があるようにも、それこそ古竜が居るようにも思えないが、それでもようやく見つけた手がかりだ。一応は調べなければならない。
そうしてCP9が乗り込んだ船は浜辺近くへと泊めて錨を下ろしたのだが、これらの作業は、先の戦いで最も貢献度の低いアネッタに押し付けられている。まぁ確かに、先の戦いでのアネッタと言えば、釣り竿を使って海賊を釣りあげるだけの仕事ではあったが、何も女一人に任せなくたっていいではないか。
アネッタは誰一人として手伝わない事にぶちぶちと文句を溢しつつ、それでも船を泊めるだけの錨をひょいと片手で持ち上げて沈めると、ふと目の前にある違和感に気付いた。
つい数分前まで晴れて見渡しの良かった一帯が、白く、先も見通せないほどの深い霧に覆われていたのだ。突然かき集めたような霧は不気味さを持ち、錨を沈めてしっかりと固定できたことを確認をしたアネッタは、違和感に辺りを見回した。
「……霧なんてどうして……」
霧の発生条件を考えても、なんだか酷く不気味に思えてならない。だが、この事態を先に降りた彼らが気付かない筈もないだろう。
彼女はひとまず自分も船を降りてしまおうと、手についた汚れを払いながら甲板へと降りると、少し離れた位置から聞こえた羽ばたき音に足を止めて、音を辿るように視線を上げた彼女は「ハットリ!」と言いながらその方向へと手を伸ばした。
言葉通り、深い霧の中から現れたのはハットリと名付けられた真っ白な鳩であった。彼は主人と揃いのネクタイを揺らしながら慌てた様子で声を上げる。「ッポォ!」その声は何か危機迫るような、切羽詰まったような、とにかく余裕のない声色で、差し出した手首の上へと足を乗せた彼は、グッと爪を食いこませながら翼をばたばたと打ち鳴らした。
「そんなに慌ててどうしたの?」
「ッ、ポォ!ポ!ポ!!」
なんだかハットリらしくないように思う。なんせ彼は、あのロブ・ルッチが隣に居る事を許した唯一の生き物だ。他の鳩と比べて利口で、温厚で。それに、彼女にとっても親しい友とも言える彼がこうも慌てているとなると、嫌な予感がしてならない。例えば、そう。
「……もしかして、遅すぎる!……ってルッチが私に怒ってる感じ?」
「ポオ!!」
どうやら違うらしい。
ここ数日で一番の大声を上げたハットリが、ギチギチと爪を肉に食い込ませながら額を嘴で突く。アネッタは益々訳が分からなかったが、なんにせよ此処でクイズ大会をしている場合ではなさそうだと痛みを訴えながらもタラップと呼ばれる簡易階段を降りてゆくと、肌を撫でるような風によって開けた視界の先に、一つ、二つ、三つと倒れている影の集団を捉えた。
「え?」
その瞬間、金色の瞳が大きく揺れる。
アネッタの前には、浜辺で体を倒すCP9の姿があった。その中にはこのサイファーポールの中でも一番の道力を誇るロブ・ルッチの姿もあり、そのあり得ない光景にこれは一体何のジョークだとハットリを見たが、彼は酷く狼狽した様子で離れるとルッチの周りをぐるぐると飛び回っていた。
「カク……カリファ…みんな……」
波に揺れるクマドリの長い髪の毛に、遠くに流されては戻ってくるルッチのハット帽。
全員が、倒れている。そこはただ波が打ち寄せるだけの音が響くばかりで、彼らの息があるのかも分からない。たまらずアネッタは船を降りて彼らの元へと駆け出したが、もしかしたらこれは得策ではなかったのかもしれない。アネッタがタラップから打ち寄せる浅瀬の波へと足を踏み入れた瞬間、目の前がばちばちと焼け付くように閃光を繰り返すと、アネッタは「う、あ」と小さく呻くと共に、人の姿を保てなくなった体は岩を纏う岩竜の姿へと戻ってしまった。
全長は十メートルにも満たないほど。深い夜を背負うような濃紺で、硬い外皮の体に、異なる大きさと形を持つ岩を生やした竜は露骨に狼狽える。
「な……ッ?!なん、なんで……」
「だめ……戻らなきゃ…もどれない、どうして、体が」
竜人族とは竜の魂を持ちながら、人を模した姿に成ることの出来る希少民族だ。だから、こうして竜に戻る事自体は特別おかしな事ではない。しかし、彼女はこれまでの二十三年間、竜に戻ることを禁じられていた。
それは世界政府すら止める事の出来ない天竜人に、竜人族という脅威になり得るものを玩具にされるわけにはいかなかったからだ。
ゆえに、竜人族の末裔として生まれた筈が、本当の姿にも慣れず、人間のレッテルを張られて生きてきた。しかしその中で、こうも体が言うことを聞かずにコントロール出来ない事は殆ど無かった。その上、人の姿へ戻る方法を忘れたように体を戻すこともままならず、アネッタは狼狽え、ギャウギャウと吠えたがそれでも彼らは目覚めない。
それこそ、微睡の谷と言うにふさわしい光景のようであった。
「……ポオ」
ハットリが翼を打ち鳴らして頭の上に留まる。心配してくれているのか、それとも頼ることが出来るのはお前だけなのだと勇気づけているのかは分からない。ただ、一つ言えることは、いまこの場は孤独ではない。アネッタは波をかき分けながら彼らに近付くと、浅瀬で倒れるカクの首根っこをそうっと口で咥え、隣にいるクマドリの体には尻尾を巻き付けて砂浜に引き上げながら言った。
「……ねぇ、ハットリ。ここが本当に微睡の谷なのであれば、まだ先はあるはずだよね」
此処が本当に微睡の谷であるのなら、谷も何処かに存在している筈だ。
「ポオ!」
「私はみんなをどうにか連れていくつもりだけど、……ハットリはどうする?私とついてくる?」
彼もまた、CP9の一員ではあるが、彼の主人がいない以上は無理強いすることは出来ない。アネッタはそんな思いから静かに問いかけたが、ハットリはぱたぱたと羽を打ち鳴らしてアネッタの前でホバリングすると、「ポオ!ッポオ!!」と何を言っているかは分からないが、ただ力強く鳴き声を上げた。
「…そっか」
であれば、進むしかない。
我々CP9に失敗などあり得ないのだから
その時、まるで注意を引くように霧の一筋が頬を撫で、辺り一帯に立ち込めた霧がゆらゆらと揺らめき始めた。その奥では不気味な巨大蛇を彷彿させる影が前に後ろにと泳ぎ、アネッタは鋭く尖った牙を露わに唸り、全身に纏う岩を逆立てながら浜辺に引き上げた彼らの前に出ると、どこからともなく、辺り一帯に反響する低い声がアネッタへと声を掛けた。
「竜人の子よ…ああ、我らが竜の子よ……」
その声は、低く、厳かなものであった。
しかし一方で敵意があるようにも聞こえない。アネッタは逆立てた岩を僅かに倒しながらも「クウ」と短く鳴きながら辺りを囲むようにずるずると動く影の襲撃に備えたが、いくら待っても出てこない。そこでアネッタは、ハットリに後ろに隠れるよう目配せしたあと「誰!一体誰なの!」と言葉を返すと、そこでようやくといった様子で声の主が言葉を返してきた。
「ああ、竜の子よ。お前はその浅ましい人間たちに捕まり、長きに渡り選択肢を与えられず、自由を奪われていいように使われていたようだ……。…しかし、今ここでお前は自由になる選択肢が生まれた筈。なのになぜその人間たちを庇うのだ……」
その言葉は疑問に溢れていた。
一体なぜ、声の主が初対面であるはずのアネッタを気にするのか分からない。ただ、ここが微睡の谷であることを仮定すると、相手はアネッタと同じように竜なのかもしれないが、問いかけ自体単なる興味本位なのかもしれない。
アネッタは、少しの間も無く声を上げる。
「彼らは私の仲間だからです!」
確かに、アネッタという女の人生を振り返っても、それが実りある豊かな人生だったとは言えないかもしれない。なんせ、彼女は赤ん坊の頃に拾われて以降、ろくに選択肢を与えられない人生だったのだから。今こうしてCP9にいるのだって、何も自分が志願したものではない。ただ決められたことを行っていたらこうなっていただけ。それに、仲間だと言う彼らが彼女自身に大きな愛情を向けてくれたわけでもない。彼女の腹に残るいくつかの傷だって彼らがつけたものだ。
しかし、それでもアネッタにとっては仲間で、長く共に過ごしてきた疑似家族のような存在だ。それを初めて会ったような者に非難されては敵わない。
彼女は、霧の奥にいる者へと彼らを起こすように訴えた。
「これがあなたのした事なのであれば、今すぐに彼らを起こしてください!」
だが、霧の者はただでは頷かない。
「それはできないな」
「っ何故、ですか……、……まさか、もう」
この体では、人間の機微は分からない。耳を寄せて心臓を測ることだって、息をしていることだって聞けやしない。アネッタは驚き、最悪の事態を予期して尋ねると、霧の者はゆらゆらと霧の向こうで「いいや、彼らはただ眠っているだけだ」と答える。
「なら、ならどうして……」
「……最期のひと時だ」
「最後の……?」
「あぁ、最期のひと時を邪魔されたくないのでな」
霧の者が言葉足らずなのか、それとも単に言いたくないのか、それ以上の言葉は返ってこない。
ただ、それでも波が繰り返し浅瀬に打ち寄せるように、時は限りなく続く。アネッタは返ってこない明確な答えに痺れを切らし、「では、私が選択肢を与えられずに生きたことを憐れまれているのであれば、選択肢を頂けませんか」と、静かに尋ねた。
その言葉に、「ほう?」と霧の者。何か言いたそうであったが、アネッタが続けて「勿論、その最後のひと時が静かな環境が良いのであれば、一人で構いません」と言うと、霧の者は感情を表すように穏やかな波を少しばかり大きく立てると、「……それが私になんの得となる」と訊ねた。
まぁ、確かに正論である。なんの義理があって、ただ静かに過ごしたい者が煩くなる要因を起こさなければならないのか。しかし、何故も何も、まず初めに手を出したのはそちらからだ。アネッタはこの状況でも怯まずに、霧の者を見つめた。
「損得ではありません。ただ、……、私のことを二十三年間も救い出すことはなく、ただ見ているだけだった貴方であれば、選択肢を与えられずに生きたことを憐れまれているのであれば、選択肢を頂きたいのです。………一度きりならば、これが最後なのであれば、聞いてくださりますよね」
たっぷりと嫌味が籠った言葉。だが、相手が二十三年間お前は苦しめられてきたと言ったのだ。であればそれを知っていてもなお救おうともしなかった事を引き合いに出したって責められることはない筈だ。アネッタは怯えない。これが正当な意見だと言うように。
「……」
「……」
「……はは、……ははは……!」
霧の者は笑う。
愉快でたまらないといった様子であった。その間も打ち寄せる波は強くなり、浜辺に引き上げた彼らも再度水に浸かる事にはなったが、霧の者がひとしきり笑い終えたあと、波は先ほどと同じように穏やかなものとなり、幾ばくか穏やかな声色がアネッタへと訊ねた。
「母親に似て、随分と口の達者な娘に育ったようだ」
「……」
「……では可愛い竜の子よ。誰を選ぶ。」
ただ一人、お前が選ぶのだ。霧の者が言う。
ただ一人、選ぶとするならば。アネッタは背後にいる仲間を見る。それぞれ能力値の異なる仲間たち。今回の任務を取り仕切るロブ・ルッチにするか、それとも彼よりも穏やかに交渉をしてくれそうなブルーノや、カリファにするか。それとも襲撃に備えたメンバーにするか。選択肢はいくつもあったが、アネッタは考えこむように尻尾を揺らし、浅瀬でしたんしたんと水を打つと、「彼にしてください」と言った。
「……ほう、見たところ彼は若いようだが」
彼女が言う彼を見て、霧の者は意外そうに答えていたように思う。しかしアネッタはついぞ答えを変えぬまま目覚めるのを待ち、次の指示と共に霧が晴れ、彼が目を覚ますとアネッタは嬉しそうに、彼よりもうんと大きな顔を寄せて悦び、そしてぼんやりとした様子で向けられた手の平に鼻先を押し付けた。
「おお、……なんじゃあ、竜の姿になりおって」
「…っカク、ああ、……っ良かった……」
グルグルと喉を鳴る。加えて差し出された手のひらに鼻先だけではなく、大きく岩を纏ったごつごつ頭を摺り寄せる姿はさながら飼い猫のようだが、それでも彼女は彼が目覚めたことに安堵して仕方がなかったのだ。
「……突然意識が遠くなったが、……お前がその姿であることも関係がありそうじゃな」
言って、カクは上半身を起こす。ぐっしょりと濡れた感覚に、霧がかったようにぼやけた思考。最後の記憶は突然の眠気だったと思うが、周りの仲間たちを見るに眠気に抗えずに倒れたということか。打ち寄せる波がカクの足元を濡らす。その上、真上からはぼたぼたと雫が落ちてきたが、カクはそれを見て乾いた笑いを落とすことしかできなかった。
「わはは……泣き虫の竜なんて聞いたことがないのう…」
心配かけたな、とカク。アネッタも暫くは涙が止まらぬ様子ではあったが、カクが目覚めたことで仲間たちもこの後の動き次第で戻る事が分かった。このまま泣いてはいられないと目元を叩くように撫でるカクの手に擦り寄ったあとは、彼の隣に身を伏せて普段よりも静かに、落ち着いた様子で呟いた。
「あのね、カク。……少し、力を貸してほしいの」
それからアネッタはこれまでのことを話した。船を降りたら全員が倒れていたこと、それから自分もこの姿に戻ってしまったこと、霧の奥に潜んだ何かが自分に話しかけてきたこと。何とも嘘臭い話ではあるが、カクはそれを難しい顔で全て聞いたあとは茶化すわけでもなく「そうか」と短く言うと続けて「……それで?これから一体どうする」と訊ねた。
「……全部信じてくれるの…?」
思わず飛び出た言葉。カクはそれを受けて不思議そうにしていたが、この二人は二十年来の幼馴染だ。すぐに意図を察したのか、彼は辺りに落ちていた長ドス二本を拾い上げると、水を払いながら「お前はそういう嘘をつかんじゃろう」とだけ答えた。
「……あり、がとう」
「おお」
「…え、っと…あの、この先に古竜がいるから、だから、みんなの起こすためにも、それから心臓を貰うためにも一緒にいってほしいんだ」
「そうか」
「……その、……」
「うん?」
「一緒に行ってくれる?」
小さな問いかけ。
いつもはピーチクパーチクと煩いというのにまるで子供のようではないか。
「……おかしなことを言う女じゃのう。元よりそういう任務だったじゃろうに」
カクは笑いながら、安心させるように硬い岩に覆われた顔を撫でる。彼女が指した視線の先には、この島にやってきた時にはなかった岩山に開いた穴がある。まるで此方に入ってこいというような、そんなトンネルの入り口のような穴は大きく、その一方で中は不思議なことに黒で塗りつぶしたように真っ暗で何も見えやしない。
この先に、本当に古竜がいるのだろうか。
疑問はあれど、この先を進まなければ、当初の目的である心臓も得られない。
カクは倒れたままの仲間たちを見た後、ハットリに向けて「ハットリ、お前はここでこいつらを見といてくれるか」と話す。
ハットリも先のやりとりを聞いていたせいか、否定を返すこともなく片翼を上げて力強く鳴く。ただの鳩に彼らの命を委ねるのであれば無謀ではあるが、ハットリならば大丈夫だろう。アネッタはどこか心配そうではあったが、かといって利口なハットリを連れていくことは得策ではない事も理解している。アネッタは出かけた心配をぐっと飲み込むと、「ハットリ、みんなをお願い」それだけを言ってゆっくりと身を起こした。
「さて、わしらも行くか」
「うん!」
二人はゆく、まだ見ぬ場所へ。
心臓を求めて