ああ、恨めしい。恨めしい……。枕元で啜り泣く声が囁くなか、案じた顔のカクに揺すられて目が覚める。いまだ薄ぼんやりと隅の角行灯が部屋を照らしているあたり、時刻は深夜帯だろうか。視線が外へと彷徨う傍らで安堵するカクは頬を撫でる。それから目尻に溜まる涙を拭うと首裏に手を回して体を起こしてやりながら、大丈夫かと気遣った。
「……随分と魘されておったぞ」
「……そうなの……?」
「覚えておらんのか」
「うーん……何か夢を見ていたような気がするんだけど、覚えてないかも…」
いくら考えても、見ていた夢は思い出せない。
どうして夢ってすぐに忘れちゃうんだろう。そう思う反面、彼の言う通り何か悪夢を見ていたのかもしれない。背中は不自然なほどにぐっしょりと濡れており、心なしか呼吸も浅い。汗で背中に張り付いた襦袢はひんやりと冷たく、差し出された瓢箪水筒を受け取りその場で一口飲んでみせるが、明らかに飲んだ量よりも寝汗の方が多い。カクの視線は全て飲み干せと訴えて、渋々と小さな瓢箪水筒を飲み干すと、日に焼けた指の腹が口元にある水を拭った。
「ん、いい子じゃ。……少し早いが、出かけるぞ」
「え?」
「きのう言うたじゃろう、明日は町へ出掛けると」
「そうだけど、まだ……暗いよ……?」
「なんじゃ、怖いんか」
「う」
ちらりと外へ向けた視線。視線の先には夜風が入るように開けられた襖があるが、その先はまだ暗い。加えて、妖町からも離れた屋敷一帯にある灯りは月明かりだけ。遠くから聞こえる蛙たちの鳴き声は不気味で、いまだ妖に慣れていない彼女は、この時間こそ妖が活動的になるのではないかと恐怖を抱いている。だから彼の言葉には否定も出来ず、言葉を詰まらせていたが、妖を束ねる烏天狗は頼もしい。
カクは息を吐き出すようにして笑い、白い歯を見せて笑みを向けた。
「わしがおるんじゃぞ?……大丈夫、お前のことはわしが守るから安心せい」
「本当?……怖い妖が出ても守ってくれる?」
「おお、勿論じゃ」
「……負けたりしない?」
「わはは……一体誰にものを言うとるか分かっておらんらしいな。この烏天狗が負けるものか」
好いた女を守れんほど甲斐性なしじゃあないさ。頼もしく笑うカクに、頬を緩めるアネッタ。その様子は仲睦まじく、天吊るしと呼ばれる幼子の妖が天井から降り、気を利かせてフウと角行灯にある灯火を消すが、全く余計なお世話である。
「ああ、こら、天吊るし。わしらは寝るのではなく、これから屋敷を出るんじゃから悪戯をするんじゃない」
呆れた物言いに続いて、キャハキャハと笑い、姿が消える。烏天狗は天井を見上げては、この屋敷は悪戯っ子が多くて敵わんなと頭を掻いたが、天吊るしの姿を目にしたのは初めてだ。アネッタは恐怖心からつい無言で彼の袖を引いて身を寄せると、カクは無言のあと「ワ!」と大人気なく驚かすものだから、少女は叫び、咄嗟に出た平手が頬を打った。
「朝から押しかけてきたと思えば……」
いまだ白月が残る早朝。手持ち提灯を手に向かった先は妖町一等地の公家屋敷で、人気の無いうちに門戸を叩き、御門番を通じて客室へと案内を受けると、早朝にも関わらず下女が茶を出して頭を下げる。その後、数刻と経たず現れた男は傍迷惑な様子で呟いたが、問いかけと言うよりも単なる独り言であろう。彼は細かな刺繍が施された着物を揺らし、この時代にしては珍しいソファへと腰かけた。
「わはは、すまんのう!…しかし、相変わらず派手な客間じゃのう。スパンダム」
「あァ?来て早々失礼な奴だな」
からからと軽い調子で笑うカクに対し、男――スパンダムは湯飲みを手にするが、どうやら猫舌らしい。「あちィ!」彼はそう言って湯飲みを落として盛大に零すと、向かいの足元にまで飛んでくる茶をカクの黒い翼が遮って、慌てた様子で入ってきた下女に「熱いから火傷をせんように」と声を掛ける。
しかし、それを落とした張本人は激高して「オイ!この部屋が濡れたらどう責任を取ってくれるんだ!」という言葉を皮切りに、ああだの、こうだのと怒鳴るが、「いや、それはお主が気をつければよい話じゃろう。下女にあたるんじゃない」。
「うるせぇ!」
怒鳴る声と、宥める声。それに悪くも無いのに立場上あたまを下げるしかない下女。何もしていないのは、この場に連れて来られたのはアネッタひとりだけで、彼女は仲裁の意を込めて部屋の片隅を指さして尋ねた。
「あのう、そちらにある台はビリヤード台ですか?」
「お?なんだお前、あれが分かるのか」
「えぇ、まぁ」
「へぇ…中々話の分かる女だ。」
スパンダムは薄く目を開いたが、得意げに鼻で笑い、気を取り直した様子でソファに腰を落ち着けた。
「びりやーど…とはなんじゃ?」
「ビリヤードはキューって言われる棒であの端にある球を打ってポケット…穴に落とすテーブルゲーム…ええと、お遊びだよ。確か、江戸時代に南蛮から持ち込まれたって授業で聞いたよ」
「ほう……」
ビリヤードを含め、屋敷や町では見かけない窓ガラスや振り子のついた壁掛け時計といった西洋文化のものが広く伝わり始めたのは江戸時代以降、明治時代頃になると授業で聞いたことがある。これまで見て、実際に生活した限りではこの妖の国はいまだ江戸時代文化であるように思う。しかし、その一方で客間にあるものや彼の足元にある編み上げの西洋ブーツを見るに、彼は西洋文化が好きなのかもしれない。ひとまず、下女へ向いた怒りが収まって良かったと安堵すると、スパンダムはずっと気になっていたと口ぶりでカクを見た。
「というかよ、その頬はどうしたんだよ」
「うん?あぁ、まぁ、色々あってのう」
「……?まぁいいけどよ、それで、その話の分かるちんちくりんが例の女か」
話は代わり、明らかに怪訝を示す顔。その顔には革製に見えるマスクがあり、その異質さを縫って棘のある視線が頭から爪先までをなぞるが、先にあった友好的なものは感じられない。
アネッタは気まずさと肌を撫でるようなそれにたじろぐと、大丈夫だと言うようにカクが背を叩き、平然と返した。
「おお、すでに届出をお主あてに出しておる筈じゃが、見ておらんのか」
「届は見ているが受理出来ねぇって話だ、馬鹿」
愛想の無い声が言い、綴じ紐でまとめた複数の書類を出す。其処には先日の書状で見た文字と、それとは異なる力強い文字が交互に並んでおり、その中には自分たちの名前と一緒に婚姻という文字がある。であれば、恐らくこれは自分に関するものだろう。アネッタは紙に目を通した後、隣を見ると彼は存外不機嫌な表情を浮かべている。
「……その報せは書状で見たが、一体どういう事じゃ。不備はない筈じゃろう」
そう語る声はいつになく低い。
「不備は無えが、……その女が問題だ」
「何じゃと?」
「視た限り、魂が定着してもいない奴は妖とは言えねえ。ましてや人の魂も持たないそいつは人間でもねえ半端者だ。その状態でこの国に受け入れられるわけがねえだろう」
「……しかし、これも時間の問題じゃろ。時間が全て解決する」
「いいや、それは通常であればの話だ。……そいつに関しちゃ時間が解決しねぇよ」
「……待て、それは一体どういうことじゃ」
その言葉に瞬くカク。隣で見ていたアネッタも、その様子が何か予想だにしなかったものだとすぐに分かった。同じように視線をスパンダムに向けると、疑いの眼差しがもう一度アネッタに向けられる。その視線は相変わらず友好的ではないが、何か違和感がある。それこそ何か、別のものを視られているような。
スパンダムの眼差しは暫く続き、彼は静かに、けれども何か確信めいた口調で言った。
「お前、魂を食われたな?」
「え?」
「魂ってのはみな決まった重量がある。だが、今あるお前の魂はどうにも少ねぇ。恐らくカクがお前の魂に手を出す前に、いくらか食われていたんだろうよ」
正直、訳が分からない。以前、何かのドキュメンタリー番組で魂には二十一グラムほどの重量があると耳にした事があるが、それにしたって魂が食べられるような稀有の出来事がほかにあるだろうか。
確かに、口から溢れた魂を食べられた事は間違い無い。それは昨日のことのように覚えている。しかし、それよりも前に、妖に手を出された事なんて記憶にはなかったのだ。
「魂を食われたって、……食べられた事なんて、カクからしか」
それに、生前あやかしと最後に話したのは酒呑童子だけで、供えられた酒に手を出す彼が魂を好むようにも思えない。アネッタが呆然と立ち尽くす傍らで、眉間に皺を寄せたカクは小さくぽつりと呟いた。
「……魂を食われたきっかけがあるとすれば、わしと出会う前じゃろうな」
「……出会う前?……、……じゃあ私の両親が事故で亡くなる前、だよね」
彼と出会ったのは、両親を事故で失くした後の事。親を亡くし環境の変化にもついていけなかったところに現れた彼は、良き理解者として声を掛け続けてくれたのだが、彼と出会う前に妖を見た事は無い。
……そういえば、妖が見えるようになったのは事故にあったあとの事だ。ともすれば妖に食べられたタイミングがあるとするならば両親を事故で無くしたタイミングか、それよりも少し前の事になるが……なんにせよあまり思い返したくない記憶だ。それを察したようにすべての思考を払うようカクが手で目元を覆う。
「アネッタ、考えんでいい。後のことはわしらに任せてくれ」
そう囁く言葉は穏やかだが、彼らに頼りっぱなしの状況に良しと出来ないのは生真面目な性格ゆえか。アネッタはそっと目元を覆う手に触れて首を左右に振るうと、離れゆく手を見送り、続けてスパンダムに尋ねた。
「カクと初めて出会った時、……私、普通にカクが見えたんです。これまでは妖が見えなかったのに、普通にカクの姿が見えて、……確かあの時カクも驚いてたよね。わしの姿が見えるのか、って」
「うん?あぁ……そうじゃな、わしの姿を見える人間は、いくら子供とはいえ殆どおらんからな」
「…でも、私これまで妖が見えたことないの。私やジャブラ……酒呑童子が会っていた神社だって何度も言ってたのに、彼が見えたことなんてなかったもの」
「……となると、事故が起きたタイミングか」
顎に手をやって、思案を巡らせるカク。ただ、特に心当たりは無いようで、彼にしては意見が出ない。アネッタは申し訳なさに眉を垂らしながら記憶を引き出し「あの、妖の国ではなく、現世の地図はありませんか」と尋ねて、望み通りに下女が広げた地図を指した。
「事故があったのは、このあたり。当時の記憶は朧気なので、妖の姿も見ていないと思うんですが……でも、妖にも生息地があったりしますよね。このあたりに生息する妖っていたりしませんか?」
「……そのあたりなら確かに絞られるな」
「ああ、更に魂を食らう妖怪となれば……」
二人は言い、最後に揃えて答えを弾き出す。
「輪入道か」
その言葉に、「輪入道?」とアネッタ。
彼女には聞き馴染みの無い言葉だったのだ。
「あぁ、輪入道とは牛車の車輪に男の顔がついた妖怪でのう。稀に自分のすがたを見た者の魂を吸い取る事があるんじゃ」
「……大方、気絶寸前に見て、中途半端に齧られたんだろうよ」
にわかに信じがたい推測。しかし、彼らの推測は何か筋が通っているように思う。
そう確信した途端、心の内で、何かがザワザワと木々が風に吹かれるようにざわめき始める。何か、これから不吉な事が起こりそうな。そんな予感じみたものは震えを起こし、頭の中でちかちかと嫌な記憶が走馬灯のように巡る。アネッタは腹の中で膨らみ始めた恐怖から、そっと見えぬ位置でカクの袖を引くと、カクは一瞥も無く彼女の手を優しく包み、スパンダムを見た。
「……ひとまず、食べられた分の魂を奪い返せば解決するという事か」
「うん?あぁ、まぁそういうことになるが…輪入道が同じ場所に居続ける事はねェ。いまはどこにいるか分からねぇぞ」
「窮鼠の力をもってしても情報は入らんか」
数秒ほどの沈黙。意外そうに瞬いたスパンダムは口角を吊り上げて薄ら笑いを向けた。
「……ほう、こりゃ驚いたな。まさかお前がおれを頼るたァ」
「難儀なものじゃ。お前に貸しを作ることになるとはのう……」
位の高い烏天狗への貸し一つ。滅多にない事だ。これはいい手札になるとスパンダム。それに息を吐いたのもつかの間、彼の手元にはウゾウゾとおびただしい数の鼠が集まりそれぞれに身を寄せ合うが、求めた情報が得られなかったのだろう。途端にスパンダムの表情は険しくなり、舌を打つと、身を寄せ合う鼠たちを払いのけた。
「使えねぇなァ、オイ。……どうやらこの辺りには居ねェようだ」
「……となると矢張り現世か」
「だろうな。……まぁ、現世に関しちゃ専門外だ。情報が欲しいのなら、酒呑童子たちを頼ったらどうだ。アイツらも恐らくいまは現世にいる筈だ」
「うん?……現世にはまだ連れていきたくはなかったのじゃが、どうにも選んでおる場合じゃないらしいのう。……さて、アネッタ。お前にももう少し付き合ってもらいたい」
頑張れそうかとカク。この先はおそらく、嫌な事を思い返す事も増える筈だ。しかし、彼の眼差しには無理を強いる色は無く、震える手を包み込んだ彼の手は優しく握り続けている。
アネッタも一度視線を落とし、手を握り返すとスパンダムは途端に面倒くさそうな顔をもって他所でやれと零すが、此方も早々に動かなければならない。最後にカクは茶を飲み、ついでにお茶うけに出されたかすていらをしっかり味わって食すと、頬を膨らませたまま立ちあがった。