貴女が無茶をするから(🐑)

「このワインは、うちの領地で作られたものでね。ぜひ飲んでもらいたいんだ」

 この日、名高い男爵家の令嬢であるカリファとアネッタをもてなすよう酒を注いだのは、バロメット・サンダラ侯爵であった。バロメット・サンダラ。貴族の中でも爵位の高い侯爵の彼には、人身売買や臓器売買などあらゆる疑いがかけられていた。
 それを捜査するために、女好きである事を理由に系統の違う二人を派遣したのはスパンダムの采配だが、人選も二名体勢にした事もいま思えば名采配だったように思う。
 難なく彼の自室に招かれた先で、カリファは注がれる黄金酒に違和感を覚えた。

「…………」

 バロメットを挟んで隣に座るアネッタの縦長の瞳孔が、露骨に細くなったのだ。

「……さあ、乾杯しようか」

 差し出されたワイングラスは三つ。その一つを取ったアネッタはワイングラスを傾けてふわりと香る匂いを嗅ぐ。それから自然な形で「わあ、甘い香り……これって何のお酒ですか?」と鈴を転がすような声で馬鹿を演じて尋ねたものの「それは飲んでから教えてあげよう」と回答は得られない。

「ええ~、バロメット様の意地悪~」

 言葉を発しながらも決して口をつけようとしないのは、人外たる彼女が常とは異なる何かを感じ取ったのだろう。
カリファは一つを手に、同じようにワイングラスを傾ける。――指紋一つ残されておらず、毒が塗布されたような不審な湿り気も見受けられない。何よりワインが注がれてからアネッタが異変を察知したのであれば、やはり液体そのものに仕掛けがあると考えるべきであろう。
 試しに唇につけるだけで飲み込まず、飲んだ振りをしてみようか?いいや、それで済む問題であればとうに体の丈夫なアネッタが試した筈だ。であればまずは侯爵に飲ませて毒見をさせる事が賢明に思えるが、彼はグラスに手を伸ばすことなく、ただ静かにこちらを見据えている。……この場での躊躇はかえって不審を招くかもしれない。
 やむなくカリファがグラスを傾けると「わあ、美味しい!」と隣でワインを飲み干したアネッタが場を遮って「カリファ姉さんったら、お酒に弱いんですから、私がいただくわ!」と言いながら、ワイングラスを半ば強引に奪った。

「アネ――」

 奪ったワイングラスの中で黄金酒が揺れて、ためらうことなく喉へと流れ落ちていく。その様を目の当たりにしたカリファは、いつにないその無理強いともいえる行動に緊張と疑念を深めると、二杯目を飲み干したアネッタは喉を押さえて呻いた。

「う、……ッ、ぅ、う………」

 手からはワイングラスが落ちて、地面で花開くように割れ欠ける。その瞬間、何かがブツリと断たれたようにその身が力なく崩れ落ち、それを侯爵は予期していたようなスマートさで驚きもなくその身を支えた。

「……おやおや、随分と欲張りな子だったようだ」
「バロメット様、これは……?」
「あぁ、いや。…………なに、少し休ませてあげようと思ってね」

 静かに響く、穏やかな声。熱湯を被ったように真っ赤なアネッタの意識はなく、くったりとした彼女の額へとキスを落とす様は、さながら父親のようにも見える。

「……休ませる……?」

 訊ねると、バロメットはその瞳を細めたあとアネッタをベッドへと寝かせて呟いた。

「……、……そうだな。幸運な君には、特別に見せてあげよう。私の、本当の部屋を」

「これ、は……」

 彼が言う本当の部屋とは、人身売買用に用意した隠し部屋であった。
 書斎の本棚は隠し部屋を隠すためのものだったようで、仕掛けを解いて扉を開いた先の部屋には拘束用の枷や檻などが並び、壁に貼られた大量の書類には記憶にある名前が記されている。それに視線を移す傍らで、距離を縮める侯爵はじっとりと熱を持った声で耳元に囁いた。

「随分と稼がせてもらったよ、彼女たちには」

 でも、もう少し稼がせてもらおうかな。君も、それから彼女も良い値段で売れそうだ。……元々バロメットにはあらゆる疑いがかけられていたが、侯爵という地位を持っていることから直接手をかけるのではなく、人身売買等の元締めではないかと世界政府は考えていた。
 しかし、まさか自ら人材を選んで売り捌くプレイヤーだったとは。
 幸運だった事は、彼が人選から売却まで手だけているのであれば、アネッタが飲んだものが死に至る毒薬ではないということだろう。それでも人よりも体の丈夫な彼女が意識を落としたのだから、ただの酒というよりも、何かを混ぜている可能性があるが……まぁ、これに関してはあとで幾らでも調べる事が出来る。

「まぁ、怖い」

 じっとりとした熱を背後に感じながら、振り替えもせずに耳に顔を寄せる男の頬に手を添える。侯爵はそれに怯えもしないのかと違和感を感じた次の瞬間。顔を触れた手の平の感触が消える代わりに違和感ごと飲み込むような泡が口に入り込んで、顔を包み込み始めた。

「ッ?!が、っ、ぅ゛……ッ!」
 泡に含んだ水が顔全体を濡らし、苦みを持った泡が口の中にも入りこむ。鼻の中にも入りこんだそれは、以降の呼吸を阻害してうまく息が出来ない。男は両手で顔面を擦るが、泡がぬるぬると滑るだけ。払うことも出来ずに泡が増していく。それどころか、生きる術を求めて酸素を吸い込めば口の中で泡が広がるばかりで、水の中に入ったわけでも、首を絞められたわけでもないのに感じる窒息感に呻く。

「ぅ、ぶ…ッ、ご、……ッぉ゛まえ゛っ、なに゛、お゛ッ」

 ……なんだ、何が起こった。一体何をされた?喋ろうにも口の中にある唾液すべてに泡が移り、苦みが走る。喉に落ちるばかりのそれに呼吸は許されずバロメットが呻きながら体を倒すと、それを表情一つ変えずに見つめるカリファは静かに呟いた。

「…………人身売買に麻薬の取引……証拠は全て此処にありそうね」
「ぅぐ…っご、ぶ………ッ」
「……あなたにとっては長い夜になるわ。決して楽には終わらない、長い長い夜が」

「う…………」

 アネッタが目を覚ますと、見慣れない天井と目があった。
 一体此処はどこだろう。煌びやかな装飾が見当たらない辺りバロメット邸ではなさそうだが、身を起こすにも体が鉛のように重い。それに酷い二日酔いじみた頭痛と気持ち悪さが追いかけてきて、視界の端から差し出されたコップを奪うようにして一口飲むと、其処に立つカリファとカクの存在に遅れて気付くことになった。

「アネッタ、具合はどう?」
「良かった……目を覚ましたか」

 二人の言葉と表情を見て、随分とながく寝ていた事を察する。現状宜しくない体調を隠しもせず「具合は最悪」と笑い、今度は冷たい水をちびちびと飲むと、これまでぼやけていた意識が冴えていくようであった。

「そういえば」

 前置いて先の出来事について、終わりはどうだったのかと尋ねる。すると、カクは白々しく肩を竦め、カリファも続けるように言った。

「いつも通りよ、滞りなく任務は終わったわ」
「…………ふうん」

 なんとなく、追及しない方が良い雰囲気。まぁ、失敗は許されない組織だ。もしもあのバロメット伯爵が人身売買などに関与しているのであれば厳しい追及と、死よりも惨い刑は免れないだろう。
 水を飲み終えて、フウと息を吐く。あれだけ水を飲んでも未だ頭痛も気持ち悪さも残っているが、きっとこれも休めば治る筈。コップを返してもう一度体を倒すと、近くに腰を下ろしたカリファが静かに零した。

「……忘れていたわ、貴女が無茶をする子だって」

 その眼差しは、どこか普段よりも柔らかい。

「あはは、でも上手くやったでしょう。私よりもカリファが残ってた方がうまくやってくれるもんね」
「…………死んでしまうかもしれないと、思わなかったの?」
「うん?……、…………どうかなぁ。ただ、あの時の最善を考えただけだよ」

 そこまで言って、カクが口を挟む。

「コイツが、そんなことを考えられるわけないじゃろう」

 そんなことを言いながら。まるで、犬にやるようにワシワシと頭を撫でながら。「この馬鹿、無茶しおって」その言葉には酷い心配が滲んでいたし、呆れもあったと思う。対してアネッタはその心配すべてを理解出来ておらず「あ!もう!髪の毛ぼさぼさ!」と言って嫌がっていたが。
 ワアワアと賑わうなか、カリファはすっかり乱れてボサボサ頭になったアネッタを見る。……まさか、守られる側になろうとは。

「……今度、お礼に美味しいケーキでも食べに行きましょうか……」
「いいの?」
「ええ、勿論。それとも、一緒にアクセサリーでも見に行く方がいいかしら」

 尋ねながら耳の縁をツウとなぞり、ついでに柔らかい耳朶を撫でる。その様子に隣で立ったままのカクは何か割り込めない雰囲気を感じてコラコラと言っていたが、カリファとアネッタは顔を見合わせて笑い、そのまま話に花を咲かせた。