当然といえば当然の話だが、あの日入院するほどの大騒ぎになった高熱は〇〇に移ってしまった。とはいえわしの時のように熱が40度を超えることはなく、そのまま熱は下がってしまい、翌々日にはいつもの日常に戻っていた。
正午前の時間帯。自分よりも幼い子供たちが和室などで自由に遊ぶ傍らで、台所に立つ〇〇は、家庭科の授業で作ったエプロンを身に着けながら冷蔵庫を開けて中身を見つめた。
「キャベツに人参に…、豚こま……うん、鰹節は無いけど焼きそばは作れそうね」
「あァ?!焼きそばには鰹節必須だろうが!」
何気ない呟きだったと思うが、それを拾った地獄耳のジャブラが異議を唱える。〇〇はその言葉にただ面倒くさそうな表情を浮かべては、「じゃあジャブラが買いにいってくれるわけ?」と言って黙らせていた。
「もう、本当文句だけは言うんだから」
まるで母親みたいな口ぶりでため息を吐き出した〇〇は、材料たちを冷蔵庫から取り出しては一度シンクへと入れていく。それからすぐに洗いはじめるかと思いきや、ポケットに忍ばせた携帯を取り出して、手慣れた手つきでいま流行っているというウタの曲を流すと室内に響くように窓際へと置いてから、「よし、やりますか」と袖を捲った。
「のう、〇〇」
わしはやる気を入れた彼女に水を差すように問いかける。
「うん?どうしたの?」
「まだ寝ていなくて本当に大丈夫なのか?」
「心配性だなぁ、大丈夫だよ36.2ですっかり元気だし。」
「しかし、病み上がりじゃろう。」
「も~~~、そんなに心配するなら焼きそばづくり手伝ってよ」
折れてくれる気はないようで、彼女は予備のエプロンが仕舞われた棚から一枚エプロンを取りだして広げては、輪になっている首にかける部分を輪投げのようにしてわしの頭に投げた。手伝ってよ。というよりも、いいから黙って手伝えということだろう。彼女は紐を結ぶためか背後に回るので、ある程度結びやすいように両腕を下ろしたまま大人しくしていると、不意に背後にふに、と柔らかいものが触れて、そのままわしの腹に彼女の腕が回されて、一瞬、頭の思考が止まった。
「な、…っぁ?!」
頭の思考が止まったことにより、随分と間抜けな言葉が落ちる。
好きな女が男を抱きしめてきたのだ。そりゃあ意識しない筈がない。腹に回された腕を解こうと、彼女の右手首と左手首を掴んで剥がそうと観音開きの要領で開こうとするのだが、ぐっと力を込めるので全然剝がれやしない。一体なんのつもりか理解できずに「……ちょ、〇〇、離すんじゃ」と言っても、彼女はわしの背後で「……ふ、…くふ、…ふふ」と笑うのでなんとも腹立たしいというべきか。
「おい、お前らいちゃいちゃしてないで早く作れよ」
彼女が笑って小刻みに揺れる肩の振動が伝わる。何故こんなことをしているのかは分からないが、彼女にとっては面白いことだったようで、暫く好きにやらせていたがジャブラの一言を受けて、わしは掴んだ彼女の手首に少し力を込めて引き剝がせば、背後から少し残念そうな声が聞こえた。
「あーあ、やっぱりカクには勝てないねぇ」
剥がした後手首を離すと彼女はやっぱりにこにこと笑っていて、彼女は機嫌良さそうに背後で本来の目的であるエプロンの紐を結ぶと、こちらには理由も離さず、何事もなかったかのように台所へと向かって、野菜を洗い始めた。
完全に生殺しだ。わしは彼女の隣に立ち、洗い流された野菜を受け取って水気を切り軽くキッチンペーパーでふき取ると、戸棚から包丁を取り出して皮を剥いていく。
「………えーと、色々説明がないようじゃが」
皮を剥きながら、長い沈黙の末に問いかけると、野菜を洗い終えた〇〇がわしの隣にまな板を置いて、思い出し笑いをするように短く笑いを落とした。
「覚えてない?あれ、カクが私にしたことなんだよ?」
「な………?!」
思わず手に持った野菜を落としたのだが、それを「よっ」と短い声を落としながらキャッチした〇〇は、皮むきが終わったのかをチェックしてから、もう一本包丁を取り出して手際よく適したサイズに切っていく。
一方のわしといえば、まさに青天の霹靂といえる、あまりにも予想だにしなかった言葉を受けて完全に思考停止してしまい、手が止まってしまった。しかしその間にも野菜を切り進めていた〇〇は中々次の野菜がこないと気づいたのか「ちょっと」と声を掛けると、少しばかり不思議そうな顔を向けた。
「カク、野菜はやく。」
「あ、あぁ、すまん。」
「何、そんなに驚くことだった?」
そりゃあそうだ。付き合うことになるまでは手を出さないとそう決めていたのだから。
「…この間カクが入院した日だったっけな。高熱出したカクが甘えてきたんだよ。さっきみたいに、ぎゅーって抱き着いてきてさ。」
追撃の言葉で心の中が大きく波打った。
わしが彼女に甘えて抱きしめた?全く記憶がないだけに嫌な予感しかせずに、妙な冷や汗が背筋を伝う。平静を保つために残った野菜の皮を剥くことに意識を集中させながら、しょりしょりと音を立てて皮むきと、あとはキャベツの芯なんかを取ったりして、それらを阿吽の呼吸で渡すと彼女は隣で一口大などに切っていく。
無言を挟んでも彼女が野菜を切る音や、窓に立てかけた携帯から響くウタの歌声によって変な沈黙というのはなかったが、妙な気まずさというか、動揺だけがわしの中で続いていた。
全ての野菜を剥き終えたわしは手持無沙汰となり、彼女が野菜たちを切り終えるタイミングに合わせて横のコンロまで移動して出しっぱなしにされていたフライパンに油を敷いて、コンロに火を付けると、隣で手持無沙汰となった〇〇がわしに野菜を合わせた痕頭上にある換気扇口を開くための紐を引っ張った。――が、老朽化の進む養護施設の設備はあまり買い替えやリフォームされていないものが多く、換気扇を開く紐は〇〇の力で引っ張っても中々開かず、「ふぎぎ」とか声を漏らしながら引っ張っていたので、彼女の手と一緒に紐を掴めばぐいと引っ張った。その途端、バコン!と音を立てて開く換気扇口。回る換気扇。これもいい加減買い替えてくれたらよいのだけれど、と思いつつ彼女から手を離すと、彼女はこちらを見上げてぽかんとしていた。
「びっくりしたー…、なんていうか、今のちょっときゅんとしちゃった。」
何がきゅんとしたのかはいまいちわからないが、そう言って少しばかり気恥ずかしそうにはにかむ表情は愛らしく、ようやく落ち着いてきた心がまた大きくかき乱されて、心臓が痛い。
「馬鹿なこと言っておらんで、わしが炒めるから他の皿を頼むぞ」
「はーい。」
落ち着け心臓。落ち着け動揺。熱しすぎてぱちぱちと油が爆ぜるフライパンの中に野菜や肉を順に入れて炒めていくと、むわと蒸気が上がって額に汗が滲む。折角かけていたウタの音楽もジュウジュウとフライパンが奏でる音がかき消して聞こえない。
一度野菜と肉を適当なボウルに引き上げてから水と中華麺を加えて、熱して炒めて、麺が解れてきたタイミングで〇〇を読んで先ほど引き上げた野菜たちと粉タイプのソースを入れてもらって、一気にフライパンを揺すりながら炒め合わせていく。
「……あのさぁ、カク」
「よ…っ、と、……ん、なんじゃ?」
じゅうじゅうと音が響く中。皿を重ねて持ってきた〇〇が隣でぽつりと呟いた。
「あのあとカクが入院している間に、カクが言ってくれたことをよく考えてみたんだよね。」
「ん?」
「ほら、今まで私たちってずっとに一緒にいてさ、離れたの初めてだったじゃない?だから、えーと、何がいいたいかっていうと、私もカクから離れるの結構ダメというか、寂しいなって思ったよ。」
n度目の爆撃でわしの中で大爆発が起こる。
恐らくはいま彼女が言っていることは、間違いなくわしが喜んでよい言葉なのだと思うのだが、いかんせん何を言ったのかを覚えていないために、喜びというよりも妙な汗が湧き出るようで返す言葉が見つからない。
じゅうじゅうという音が虚しく響くなか、ああ、わしは一体何を言ったというのだ。と頭を抱えたくなり、わしは頭を抱える代わりにフライパンを大きく揺すった。
しかし、返答も返さずにフライパンを揺すったのが悪かったのだろう。〇〇はわしをじいと見つめたかと思うと、「………あ、カクは覚えてないんだっけ?」と思い出したように呟いて目を細めるようにして、にんまりと笑った。
ただ、彼女は、ふーん、へー、ほーなんて面白がるようなそんな表情を浮かべるばかりで、肝心の答えを返してくれることはなく、出来上がった焼きそばを家庭用トングを使って皿に盛っていくと、「みんなー!ごはんできたよー!」なんて機嫌よく言いながら、お腹をすかせた子供たちを呼んで配りにいってしまった。
そんな中とんでもない生殺しにあったわしは、彼女に今更何があったのかを問いかける事も出来ず、その場にしゃみこんで「何を言ったんじゃわしは…」と小さく零すことしか出来なかったが、それも窓際に置かれた携帯から響くウタの力強い歌声がかき消してしまった。