怒った彼女は許さない

 大事な物は手に届かない場所に置かないと。そう記憶の彼方で誰かが言ったから、大事に大事に、失くすことのないようにつけていたのにこんな終わりを迎えるなんて誰が思うんだろう。
 体育で行われたバスケの試合中、一瞬の隙を突いて掠め取られた三角形のヘアクリップが、床を弾み、バキッという乾いた音と共に砕けた。

「あ、ごっめぇーん。」

 そんなふざけた声と共に。
 目の前に立つのは、好みの男子生徒と付き合っていて、他の男子生徒とも仲が良いからという理不尽な理由で私のことを目の敵にしているギャル三人組で、ギャル三人組はニヤニヤと表情を歪ませるようにして笑みながら「これに懲りたら大人しくしてなって」と言いながら、分かりやすく割れたヘアクリップを踏みにじる。よくもまぁそんな下らない理由でそこまで出来るものだと思う反面、耐え難い、憎悪に近い怒りが私の腹に渦を巻く。

 なんせ彼女が踏みつぶしたそれは私の宝物で、小学生の頃に少ないお小遣いを溜めてカクが買ってくれたヘアクリップだからだ。それが、目の前に立つ女の足の裏で、粉々に近い状態で砕けてしまっている。その上、私が仕返してこない事を良いことにあざけ笑うと「〇〇さんさぁ、このヘアクリップさ~正直可愛くなかったし新しいの買いなよ~、あ、施設育ちじゃお金ないんだっけ?」と悪意を隠す事なく呟いた。

 腹の中を渦巻く憎悪はじわじわとインクを広げるように体の中を蝕んでいく。
 正直なところ、手っ取り早くこの女たちを暴力で黙らせたいところだが、学校で妙な騒ぎを起こすなときつくルッチ達から釘を刺されている。かといって試合中にラフプレー演じて痛い目を見せるには、三人という人数は少し多いし、さてどうしたものか。

「言わないと分からないんだね。」

 普段言い返すことのない私が呟くと、彼女たちは露骨に怪訝そうな表情を向ける。そんな彼女たちに向けて、ずいと一歩身を寄せると、そのまま口を開いた。

「ねぇ、〇〇さんは――――…で、――――――、――――。」
「は?」
「それで、―――、が―――で―――――、――だったから今は―――」

 面白い事に私が呪文のように長ったらしく呟く程、笑っていた女たちの表情が硬直し、歪み、青ざめて、恐怖の色に染まる。仕上げに「ねぇ、誰からにする?」と彼女たちを真似るように瞳を細めるようにしてあざけ笑うと、彼女は声を震わせながら「あ、頭おかしいでしょ…!」とか何とか云いながら、拒否も不快も嫌悪感を混ぜたものを露わに私の肩を強く押すと、授業中だと言うのに体育館を出て行ってしまった。


 幸いなことに試合中といっても私が試合に出ているわけでもなかったので、試合が中断することはなかったが、彼女たちが出て行ったことで注目の的になったらしい。
 なんだ?なんの騒ぎだ?とざわつく中、キャロットとサボ君が此方へと駆け寄ってくると、「〇〇!さっきの三人に何かされてない?」と声を掛けた後、足元にあるヘアクリップを見て「ひ、ひ、ひどい!こんなのひどいよ!」「確かにこれは酷いな」と怒ってくれた。とはいえ二人ともあの三人組に物申してやるといわんばかりに怒っていたので、私は「大丈夫だよ」と言わざるを得なかったのだけれど。


「ありえないありえないありえない!!なにさっきの、本当に意味わかんないんだけど!」

 あの女が呟いた言葉に、あたしは酷く狼狽していた。ネイルを施した爪をガリガリと噛みながら、廊下を足早に歩く私の顔は、友人ABと同様に真っ青だったに違いない。何をしても仕返してこないどころか言い返してこなかった癖に、なんで。
 いけない、逃げなきゃいけない。
 今までに感じたことのないような警鐘が頭の中に鳴り響き、心臓が痛いくらいに胸を打つ。私たちは一刻も早くこの場から、いや、あの女から逃げるために、鞄を残した教室へと向かっていると、途中で授業を終えるチャイムが鳴り響いて、他の教室から休憩時間だと生徒がどっと流れるようにして出てきて廊下を塞ぐので、私は苛立ちながら邪魔な生徒を突き飛ばして足を進める。

「あ、ねぇ、ちょっとカク!」

 途中、カクの姿を見つけた私は声を掛ける。しかし、カクといえば少しばかり期待が入り交じる瞳であの女を探すので、私は苛立ちに奥歯を噛みしめながらもカクの腕に己の腕を絡ませると、「ねぇ、カク。やっぱりアイツやめといたほうがいいよ」と警告を向ける。

「まーたその話か。飽きんのォ。」
「だ、だって、アイツ、私たちのこと脅してきたんだよ?!私たちの住所も、おばあちゃんたちの住所も、どこで誰と何をしていたかとか、全部知ってるんだよ?!!!それに……ッ、それに、誰からがいいって、………」

 そうして彼が気持ち悪いとあの女を嫌ってくれたら良い仕返しになるという思い反面、私を守ってやらないとという気持ちが向いてくれたら、そんな期待と警告の入り交じった密告だったのだが、彼を見上げた私は、そんなのは全く持って無意味で、誤った選択だったのだと私たちは息を飲んだ。

「…………おぬしたち、アイツに何をした?」

聞いた事のない、地を這うような声が問いかけて、1mmも信用していない彼の眼差しが私たちを捕えた。

 当然といえば当然だが、一度割れてしまったヘアクリップが直ることはなかった。
 技術室で瞬間接着剤を借りて、授業中に教科書を机の上に立てて復旧作業を行ったはいいものの、技術・図工などの作業があまり得意ではない私がやったところで金継作品などのように綺麗に修復できる筈もなく、いま手元に残ったものは歪なヘアクリップらしきもので。

「はぁ………。」

 せめて綺麗な形に戻してあげたかった。
 自分の腕の無さにがっくりと項垂れながらも、放課後になってしまった以上は帰らなければいけない。ああ、気が重いな。取り合えず携帯を開いてはいつも一緒に帰っているカクに向けて、今日は一人で帰るね。とだけメッセージを送ったのだが、送るには少し遅かったようでメッセージを送った直後に「〇〇」と私の名前を呼ぶ彼の声が聞こえる。顔を上げれば隣のクラスのカクが教室へと入ってきて私の席の前で足を止めると、普段髪留めをしているあたりをちらりと見てから「大丈夫か」と問いかける。

「……もしかして、キャロットやサボくんから話を聞いた?」
「………いいや、加害者側からじゃな。」
「ああ、そういうこと。」

 全く、人が折角警告してあげたというのに余計なことをしてくれる。
 言いながらカクは隣の席の椅子を引いて座ると、机に肘をついてから「〇〇にしては、らしくないことをしたのォ」と咎めるでもなく、ただしみじみといった様子で呟くので「そうね、らしくないことしちゃった」と肩を竦めて言葉を返す。

 あの時、私が彼女たちに囁いたのは私が時間をかけて調べ尽くした彼女たちの身辺情報だ。ルッチたちに騒ぎを起こすなと言われているため、別に何かしてやろうというわけではないが、気味が悪いというほどの情報を並べて、誰からにする?なんて問いかけたら脅しと取られるのは当たり前なわけで、まぁ、良い警告にはなっただろう。

「……ごめんね、カク」
「うん?」
「ヘアクリップ、駄目にしちゃって。」
「わはは、わしが怒ると思ったか?」
「思ってないけど、……私の宝物だったから、許せないしやるせないっていうか。」
「……そうじゃのう、お前があの女たちにやった行動でどれだけ嫌ったのかすぐに悟ったわい。」
「ふふ、私が勝手に暴走したとは思わなかったの?」
「そんな奴ではないじゃろう、お前は。」

そんなことはわしが一番分かっとる。そう続ける言葉はどこか自信が入り交じっていて、「流石は幼馴染兼恋人!」なんて茶化したけれど、一ミリも揺らがないその信頼が嬉しくてつい目を伏せてしまった。

「…ちなみに、あの髪飾りはまだ持っとるのか」
「持っ……てるけど、ええと、………」

 技術や図工が得意な彼に、しかもこのヘアクリップをプレゼントしてくれた彼に見せるのは非常に気が引けるが、彼に見せないわけにはいかないだろう。目を伏せたまま暫く間を開けたのち、恐る恐る彼の手のひらの上に乗せると、彼は私がへったくそな修復を施したヘアクリップだったものを見て、瞬きを繰り返したのち、ふはっと息を吐き出すようにして笑った。

「……わはは、下手じゃのう。……全く、こんなもの、……ここまでしなくとも良かったというのに……。」

 言葉こそ、ヘアクリップの出来を小馬鹿にするようなものだったが、自分の手のひらに乗せられた不格好で歪なヘアクリップだったものを見て、慈しみに似た、穏やかな笑みを浮かべる彼は「こんなものの為に、らしくないことまでしでかして、……馬鹿じゃのうお前は。」と目を伏せる。

「その、こんなもの、が私の宝物なのよ。だから、なんとしても直してあげたかったんだけど……。」

 いま考えれば手先の器用な彼にお願いすればもっと綺麗に修復出来たかもしれない。彼の手のひらに乗ったそれを見た私は思わず苦笑が零れて、「酷い出来になっちゃったなぁ。」と、そう私が呟くと、隣の席に座ったカクはおもむろに手を伸ばし、私の頭に手のひらを乗せる。それから大きな手のひらを右に滑らせて、左に滑らせてわしわしと撫でるカクは「大事にしてくれて、ありがとう。」そう言葉を続けながら滑らせた手のひらで私の頬を包んで、彼の親指が目尻を撫でた。

「……私の誕生日は過ぎたし、記念日でもないけどさ、……今度また、ヘアクリップを選んでくれる?」
「…はは、恋人にプレゼントをするのに、記念日だの誕生日だの理由なんていらんじゃろう。…勿論じゃ、今週にでも行こう。善は急げと言うしのォ。」

 いつもとは違う三つ編みの揺れる帰り道。大事なものは無いけれど、大事な人が隣にいる。それがなんだか寂しいやら嬉しいやらではあるけれど、土曜日に出来た彼との約束に免じて機嫌を直そうと思う。