この世界に放り出された十七歳は、いやにもの分かりの良い女であった。
慣れない環境でも殆ど弱音を吐かず、笑みを絶やさない。その愛想の良さから彼女はすぐに周りにも打ち解けて、可愛い末っ子というポジションを確固たるものにしていたが、その様子は同い年の弟が居る自分から見ても、お利口すぎるように思えてならない。
もっと、あれぐらいの年齢ならば我儘を言っても良いだろうに。
「…っぅ…っ、………っう……帰、りたい、…帰りたいよ……」
不寝番を終えて、部屋へと戻る最中。普段ならば人気のない倉庫で啜り泣くような音を拾い、足を止める。――ドア一枚隔てた先で、アネッタが泣いている。多分、一人で。
声を押し殺すような、啜り泣く声。
どうして此処で泣いているのか。そもそも、ひとりで大丈夫なのか。色々と聞きたい事はあったし、たまには泣きたい日もあるだろうと聞かぬふりをする事も出来たが、そうやって放っておけるほど大人ではないし、そういう性質でもない。エースは数度扉を叩き、「アネッタ、入るぞ」と涙が拭ける程度の、ほんの少しの猶予を与えて扉を開いた。
「…っぁ、…ご、ごめん、エー、スくんどうしたの?」
座り込んだアネッタが手の甲で目元を覆いながら尋ねる。
「ここ、埃っぽいから目にゴミが入っちゃった」
苦しい言い訳と分かっているだろうに、嘘を並べる彼女の頬にはいまだ涙が伝っている。
「……あのよ、大丈夫か」
尋ね、彼女の頬に伝う涙を拭う。生憎、拭えるような布は持ち合わせていなかったので。手で掬うことしか出来なかったが、彼女は目元を覆った手を震わせると、隙間から覗く瞳を揺らし、また涙を零した。
「……」
その時、何故だかわからないけれど、彼女がこの船にやってきたときのことを思い出した。あの時は確か、今日のように、夜明け間近の時間帯だったと思う。山賊に襲われていたところを助けたといって連れかえってきた彼女は、そりゃあもう可哀そうなくらい震えていて、わんわんと小さな子供のように泣いていた。まぁ、それ以降は不自然に思えるほど、泣く様子も見られなかったが、恐らくはこうやって、誰も訪ねてこないような場所でひとり泣いていたのだろう。
もっと、我儘を言っても良いと、おれたちは言い続けているのに。
「…っぅ…ごめ……っ、ごめ、んなさ、い……っく…っひ、っく…す、ぐいつも通りになる、から…っ」
「別にいいさ、そういう日もあんだろうよ」
涙を流す女を慰める方法なんて知りはしない。けれど、胸を貸すことも、肩を貸すことも出来る。エースは隣に腰を下ろすと、しんと静まり返った倉庫を見渡して、それから少しの間を開けてアネッタの方へと身を寄せて凭れかかった。
「……おれにも、お前と同い年の弟がいるんだ」
「っぅ……え、そ、うなの?」
「あぁ、そいつはまぁ元気な奴でよ、負けん気も強いし、我儘だし、うるせぇし。……でもおれからしてもびっくりするぐらい真っ直ぐな奴で、自分のしたいことは全部やってのけちまうんだ」
「……」
「まぁ、だからすげぇ手のかかる弟なんだ、……でもそのぶん分かりやすい奴だったよ。……アイツは……ルフィは真っ直ぐな奴だったからな」
「ル、フィっていうの?」
窓辺から聞こえる海の音に交じり、すん、と鼻を啜る音が聞こえる。
「そう、モンキー・D・ルフィ。……血のつながりはねぇけどな」
「……そのルフィ君、は、この船にはいな、いの?」
「あぁ、今は海賊をやってる」
「……、……エースくんは」
「うん?」
「エースくんは、寂しくない?」
「……どうだろうな、会いたいと思うことが寂しいのであれば、寂しいのかもしれねぇ。でも、今生の別れじゃねえからな」
「……、……」
「……ただ、お前は不確定だろ。元の世界に戻れるのか、戻れないのかも分からねえ。そんな状態で寂しく思わないわけがねえし、同じ立場だったら寂しいと思ってたと思うぜ……まぁ、少なくともおれは、の話だけどよ」
その瞬間、彼女は「あ…」と一音を零したが、その言葉が共感し慰めるものだと気付いたのだろう。アネッタはくしゃりと紙を潰すように表情を歪ませると、大粒の涙を零して、ただ一言絞り出すように言った。
「さび、しいよぅ……」
あふれ出した涙は止まらない。まるでいっぱいに水を入れたグラスをひっくり返したように涙が止まらず、彼女はもはや声を抑えることも出来ぬ様子で泣き続けた。彼女いわく、我儘や寂しさを零さない理由は、これだけよくしてもらっているのに一人だけ帰りたいと思うことは不義理であるからということだが、それを考えるにはまだ彼女は幼い。
「ぅっ、ぅう…っ、…み、みんな、っ優、しくして、くれてるのに…っず、…っぅ、く……私は、……私は、それ、でも、帰、りたい…っ、て……ひっく……」
溢れた涙は止まらない。ぼたぼたと涙は零し、顔をぐしゃぐしゃにしてまで泣くのは、これまで抱き、溜め続けた寂しさの清算だと思うと、なんだかたまらなくやるせない気持ちになってしまう。エースはつい、彼女の肩に腕を回しぐっと力を込めた。
「不義理もクソもねえよ。お前がお前らしくあってほしいと思うのは、……家族として当たり前だろ」
だって、彼女はもう家族の一員みたいなものではないか。己とは違い、盃を交わしたわけではない。けれども、船員たちはもう彼女のことを可愛い末っ子だと思っている。きっと、親父だってそうだ。だから自分がこうして彼女を家族扱いすることだって間違えいではないはずで、彼女は肩を抱く手にそっと触れると、声を震わせながらもありがとうとお礼を言い、涙と、これまでの寂しさを吐き出し続けた。
しかしまぁ、明けない夜は無いというように、これだけ泣けば涙も枯れてしまうらしい。あれだけワアワアと鳴いていた彼女も、いまや泣き疲れた様子で息を吐き出して、隣で肩を震わせて笑うエースを睨みつけている。
「エースくん笑わないで!」
「いや、だってよ、お前目ぇパンパンじゃねえか…ッ…ふ、くく…ッ」
「泣いてたんだから仕方ないじゃないっ、もうっ、エースくんの意地悪!」
……まぁ、これだけ元気があるならば良し。エースは肩を揺らしながらからからと笑い、最後に目尻に残る涙を拭うと、立ちあがって彼女の手を引っ張った。
「よし、じゃあ泣き止んだことだし飯でも食いにいくか」
小腹がすいちまった、とエース。しかしながら今の時刻は深夜帯。この時間は朝に向けた仕込みも終わりギャレーには人が居ない筈だが。アネッタは不思議そうにしていたが、何も気を遣って言っているわけではないらしい。腹を摩るエースからは、グオオオオと怪獣のような音が聞こえる。
「え、で、でもこんな時間に食べられるものなんて」
「かっぱらうんだよ」
「っだ、だめじゃない…?!それは流石に怒られちゃうよ」
「怒られだっていいんだよ、怒られたって嫌われはしねぇ」
それに、お前は初犯だろ?そんなことを言うエースが頼もしいやら、頼もしくないやら。
そうして二人で忍び込んだ船内ギャレーはしんと静まりかえっていた。やはりこの時間帯は誰もいないのか、人の気配も無い上に、暗い。アネッタはエースの後ろをついて歩き、エースの指先に灯る炎に導かれて大きな冷蔵庫の前に立つと、あれはだめ、これはだめと漁りだすエースを見守り、最終的に取り出された二本の骨付きウインナーを見て不思議そうに首を傾げた。
「……ねぇ、エース君。どうしてあれはだめ、これはだめって選んでたの?」
「あ?あー……サッチのやつ、パンの個数とか、でけぇ食材はきちんと数えてるっぽいんだよ」
「へぇー……あ、じゃあこのウインナーは大丈夫なの?」
「そいつは、いちかばちか」
「だめじゃない……」
「まぁまぁ。初犯のお前がいりゃあ、そうは怒られねぇって」
あれ?これもしかして私のことを出しにする気じゃ。そう思いはしたが、骨付きのウインナーは、今まさに彼の能力をもってジュウジュウと焼かれている。それも、直接炎で包むようにして焼いているせいか、焼けるまでにそう時間はかからず、辺り一帯はたちまち香ばしい匂いで包まれて、思わず唾を飲んだ。
「ほら、食えよ」
差し出された骨付きウインナーの美味しそうなこと。アネッタは暫くそれを見つめたあと、骨部分を受け取りながら零した。
「……そういえば、骨付きウインナー食べるの初めてかも」
「お、そうなのか。うちのコックが買い付ける食いもんはどれもうめぇからな、お前も気に入ると思うぜ」
「へー……あ、い、いただきます…」
骨を持ち、一口で食べきってしまうエースを見て、焦げ目のついたウインナーにふうふうと息を吹きかける。それから裂けた割れ目から滴る油で照り輝く表面かじりついてみると、香ばしさのあとに濃厚な旨味が溢れて、思わず声が出た。
「う、っまぁ!え、うわ、お、おいしい、これ凄く美味しい……!」
弾む声に、喜びに輝く瞳。この反応はエースからしても意外だったようで、彼は目を瞬かせたあと、ふっと息を漏らすと「だろ」と白い歯を見せて笑った。――が、楽しい盗み食いの時間はここまで。突然ヌウと伸びた影が包み込むと、まるで肝が冷えるような、聞きなれた声が落ちてきた。
「お二人さん、こんな時間に、こんなところでなーにやってんだ?」
「げ、サッチ…!」
次の瞬間、ガゴン!と凄い音と共に、エースが体を倒す。それがげんこつを落とされたからだというのは、拳を握ったままのサッチを見てすぐに分かったが、あれが自分の頭に落ちてくるのだと思うと怖くてたまらない。アネッタは震え、骨付き肉をぎゅうと握り締めながら「どうぞ……」と頭を差し出すと、サッチは慌てた様子で「いやいやいや、流石に女の子には手を出せねーよ!」と言った。
「で、でもエースくんだけ殴られるのも……」
「あー……ひとまず悪いことしたってことはわかってんのね…」
ずりいぞ、アネッタ……。とんでもないげんこつを落とされたエースが、体を倒したまま痛みに呻く。
しかしながら、サッチとしては先のとおり女に手を出したくはない。それに、何よりも彼女の目元が泣きはらしたように赤くなっているところを見るに、エースがわざわざ百パーセント見つかるような盗みを働いた理由も分かる気がして、サッチは小さく息を落とすと股を開くようにしてしゃがみ、「美味しいか」と尋ねた。
「う、うん…」
「そうか、ならいい。…まぁエースは常習犯みたいなもんだがアネッタは初犯だしな。ただな、アネッタ。ここは知ってのとおりホイホイと食糧を確保できるような場所じゃねぇんだ。だから、決して盗みを働いちゃいけねえよ」
「うん……ごめんなさい……」
「……アネッタへの罰は、明日のデザート抜きかな」
「ううっ」
「はは、よーく反省することだな。それよりも、他の奴らが気付く前に食っちまえ、どうせ焼いちまったんだしよ」
言いながら、しゃがんだサッチが体を倒したエースの背に座る。ぐえ、と聞こえる音はエースの声だと思うが、「そういやこいつ骨付きウインナー初めてらしいぜ」と平気で答えるあたり、ひとまずは無事なようだ。まぁ、サッチはその言葉にえらく驚いたようで「まじかよ?!」と声を張り上げていたが。
そうして、穏やかで、悪戯な時間は続く。このあとはみんなで見つからないようにとギャレーを出たが、そのスリル感というものはなかなかのもので、気付けばあれほど抱いていた悲しい気持ちがどこかへ行っていた。
部屋に送り届けてもらったあと、別れ際にサッチが言う。
「なぁ、アネッタ」
「?なあに?」
「……エースは、うちの船じゃまだ若いんだ。この船にやってきたときなんて随分と手を焼かされた。でも……いい兄ちゃんだろ」
先を歩くエースに向けられた暖かな眼差し。その言葉にはどこか誇らしさも見える。アネッタは頬を緩めて、「そうだね」と頷くとサッチは大きな手のひらで頭を撫で、ついでに先を歩くエースの首に腕を回すと「お前も板についてきたなぁ、お兄ちゃん?」と笑った。