【十四話】いつかの話だよ(🍍)

 この世界は現代と比べても科学が発展していない。それに、悪い海賊や山賊が蔓延るこの世界は犯罪や暴力事件が頻発するほど治安が悪く、いつだってニュース・クーが運ぶ新聞には薄暗いニュースが紙面を飾っていた。けれど、現代にいた時もこんなにも綺麗な満天の星空を見ることは出来なかった。
 時刻は二十三時の就寝前。壮大な夜空に、さざめく波音。現代で作業用BGMとして聞いていたようなヒーリング音声を耳に、アネッタは甲板の真ん中を陣取って寝転がる。

「ふー……」

 それからゆっくりと息を吸って、それよりも長い秒数をかけて息を吐く。これは乱れがちな自律神経を整えるための腹式呼吸で、マルコに勧められてはじめた最近の日課であるが、もう随分と板についてきたように思う。これも、星が降るような夜空と静かな波音という最高のロケーションで行っているお陰だろうか。これをしている間は携帯を見なくたって、寂しさすら湧かないし、ぼんやりと頭を空っぽに出来るのでひとつも苦にならない。多分、デジタルデトックスというのはこういう事を指すのだと思う。

「……お、関心関心。ちゃんと腹式呼吸をやってるみたいだねい」

 そこに、聞きなれた声が落ちてくる。星が降る代わりに落ちてきた声は穏やかで、身を起こしもせずに「マルコ」と呟くと、彼は隣に腰を下ろしたあと、アネッタのお腹にタオルケットをかけて笑った。

「風邪ひかないよう、かけとけよい」
「ありがと…ってあれ、なーんか珍しい柄だね」

 タオルケットは花柄で、マルコにしては可愛い柄だ。なんだか物珍しく思えてまじまじと見ていると、マルコは隣で噴き出して笑った後「鈍い奴だねい。それはお前へのプレゼントだよい」と言ったが、これは鈍いのではなく、マルコがスマートすぎるのだと思う。アネッタは改めてタオルケットを見て胸元に引き寄せると、緩む口元を隠しながらお礼を言い、喜びを隠しきれずに足元をぱたぱたと揺らした。

「え…っあ、わ、ありがとうマルコ。…ふふ、まさか私へのプレゼントなんて思わなかったから驚いちゃった」
「気に入ったか?」
「もちろん!とっても可愛いよ、ありがとう」
「そりゃあ良かったよい。大所帯の此処じゃあ、目印が無いとすぐに他と混じるからねい……失くしたと思えば他の奴が使ってるなんて日常茶飯事だ」

 筋張った大きな手が、喜ぶ瞳を見下ろして頭を撫でる。その手のひらは脂肪が薄くしかついていないのにまるで湯たんぽのように暖かく、「それだけ目立つ柄なら失くすこともねぇだろうよい」と語る言葉には、どこか意地悪が潜んでいる。まるで過去にも失くしたことがあるだろうとでも言いたげな声色だ。
 アネッタは小生意気に「失くさないもーん」と言って上半身を起こすと、彼の方に身を寄せながら睫毛を伏せた。

「ねぇマルコ。これ、元の世界に持ち帰れるかなぁ」
「うん?」
「だって折角貰ったものだし、マルコから貰ったこれも、フォッサから貰ったアクアマリンのネックレスも、ジョズからもらったダイヤモンドの欠片も、洋服も。みんなから貰ったものは全て持ち帰りたいよ」
「はは、そりゃあ随分と大荷物になりそうだねい」
「でしょう?だから、一緒に持って帰れたらいいけど」

 言いながら、伏せた瞳が少しばかり陰りを見せる。離れる事が寂しいのか、それとも、早く帰りたいと寂しがっているのか。マルコはどうにも読み取る事が出来ずに凭れるように身を預ける彼女の肩に腕を回し、ついでに頭を強めにわしわしと撫でると、アネッタはこそばゆそうにきゃらきゃらと笑った後、小さく呟いた。

「もし私が元の世界に帰ったら、これは焼いて頂戴ね」

 そのとき、イゾウに聞いた事を思い出した。
 死後に遺体を焼く火葬文化のあるところでは、お焚き上げといって故人の大切にしていたものを焼くことで、それを一緒に持って行けるのだと。

「焼いて頂戴ねって……おいおい、いま渡したばかりだってのにもう焼いちまうのかよい」

 けれども、それはつまり、彼女はいまだあの馬鹿げた救済論を信じているということではないか。死は救済である。死は全てを解決するだなんて考えの放棄にすぎない。だから、イゾウとフォッサがいくら余計なことを聞かせてしまったと気に病んでいても、流石に信じないだろうと思っていた。だが、「いつかの話だよ」と語る彼女は、イゾウとフォッサの言うように、まだ。

 海のさざめきを遠くに届けるように、びゅうと風が吹く。その風は彼女の長い髪を背後からなびかせて、アネッタは遠くを見るように視線を他所へと向けるが、マルコは視線を彼女から外すことは出来ない。それどころか、死は救済であると信じた彼女にこんなにバカげた話はないと言うことも出来ない。
 死んだって元の世界に戻れないと切り捨てるのは簡単だが、それに一縷の望みを抱いた彼女はどうなる。ぽっきりと折れた心は戻らない。だからこそ彼女が間違っているのであれば、慎重に訂正しなければいけないと思うが、それを修正するにも言葉はぎこちなかったかもしれない。

「……じゃあ、いつかの日のために、たくさん経験をしないとねい」

 そう言うと、彼女は不思議そうに聞き返した。

「経験?」
「あぁ、元の世界に戻ったときの土産話は多い方がいいだろうよい」
「確かに……!甲板の上で腹式呼吸してました~はちょっと味気ないもんね」
「じゃあ、その土産話作りに、今日は不寝番でも体験してみるか?ちょうど交代の時間だったんだ」
「っいいの?!」
「おぉ。ただし!ちゃんとおれの言うことは聞くこと。……いいねい」
「うんっ!」

 陰りを見せた瞳が、星を映して煌めく。マルコはそれに息を吐き出すようにフハッと笑いを落とすと、最後にゆっくりと立ちあがり、彼女に手を差し伸べた。

 しかしまぁなんだ、彼女は運動神経が悪すぎるわけではないが、高いところに上るという経験をあまりしてこなかったようだ。見張り台へ上がるために縄梯子を上らせると、風に大きく煽られてしまいきゃあきゃあと騒ぐので、結局小脇に抱えて連れていく羽目になってしまった。