思い通りにはならない

 毎朝決まった時間に目を覚まし、同じ時刻に家を出る。変わり映えのないルーティンが続く毎日だが、それこそが平穏の証だと思っていた。
 若い頃に、憧れだけで手に入れた腕時計が八時を指し、馴染みの喫茶店へと足を運ぶ。扉を開けたときに響くベルが入店の合図で、頭を軽く下げると慣れた流れに身を委ねて定位置へと腰を下ろした。

「……、……」

 メニューも聞かずに出された一杯の珈琲。砂糖もミルクもないブラックコーヒーは香ばしい香りを立て、湯気が立ちのぼる。カップに口を近づけると、ふわりと深い苦みと酸味が漂い、ひと口含むと舌の上でコクがじんわりと広がって、後からわずかな甘みが静かに追いかけてくる。のどを通り抜けた熱がゆっくりと体に沁み込みような感覚。まるで朝の訪れを報せるそれはいつもと変わらない旨さであるが、ふと手が止まる。

 きょうは、胸の奥に違和感がくすぶっていた。

 事の始まりは、今朝方のこと。決まったルーティンで遮光カーテンを開いて朝の光を呼び込んだ花輪は、ベランダに飾った観葉植物がボロボロになっている事に気が付いた。普段ならば霧吹きで水をかけてやるところだが、酷い惨状だ。一体何があったのだと慌てて観葉植物の足元を見ると、落ちた葉を寝床にして寝転がっている猫の存在に思わず瞬いた。……ああ、してやられた。野良猫が観葉植物で遊んでしまったのか。
 薄汚れた体に、片目を遮るような大きな古傷。痩せ細った身体を見るに野良猫で間違いないとは思うのだが、一体どこから来たのか。何より、此処を寝床にされては構わない。花輪は息を吐き出して、窓の先にあるボロボロの葉を手で掬いながら呟いた。

「……酷いな」

 青々と伸びた葉は、虫食い穴が可愛く思えるほどに千切られている。たまらず「此処を寝床にするのは構わないが、此れで遊ぶのはやめてもらいたい」と叱ったが、猫は尻尾を揺らすだけ。……まぁ彼が野良猫である事を考えれば仕方のない反応だが、ルーティンが一度狂いだすとその修正に時間がかかってしまっていけない。
 お陰で普段は捕まらないような信号で捕まり、喫茶店への到着も随分と余裕の無いものになってしまった。ルーティーン外れに息をつくと、「花輪さんが溜息だなんて珍しいですね」と袖を引くような声掛けに手を止めて瞬いた。

「……観察とは趣味が悪いようだ」

 一体、彼女はいつから隣に居たのだろう。疑問に思う一方で、顔見知りの女は珈琲に砂糖を落とし、スプーンでかき混ぜながら笑いを返す。

「いえ、お隣の席だから溜息が聞こえたまでですよ。……それで、どうされたんですか?」

 興味を向けた眼差し。しかし、別に言っても良し、言わなくても良しと言う口ぶり。普段ならば「詮索だなんて感心しませんね」と一蹴していたように思う。どうせルーティンは崩された後だ。観葉植物が野良猫に齧られた事を伝えると女は「ははぁ、」と笑ったあと、どこか得意げに共感を零した。

「齧られ具合にも寄りますが、案外植物というのは大丈夫なものですよ。以前家猫に齧られて観葉植物をボロボロにした私が保証します」

 頼もしいような、頼もしくないようなその言葉。しかしまぁ、普段はいくら忠告をしても聞かずに喜んで面倒ごとへと突っ込んでしまう女だ。彼女の言葉ほど保証にならないものはない。……なんだか途端に馬鹿馬鹿しくなって息を吐いたが、漠然とした焦燥感は消え失せていたのは、ただの偶然ないしは時間経過によるものだと思いたい。