ハニートラップ。それは、標的となる個人や組織を誘惑して信頼関係を築き、それを基に機密情報を漏洩させたり、弱みを握って脅迫するために行われる手法だ。しかし、いくら仕事のためとはいえ、特別仲の良い友人が他所の女と交際関係を築き、馬鹿ップルよろしく街中でも構わずに身を寄せ合う光景というのは不快でしかない。
こんなこと、仕事で無ければ監視などしなかった。
一定距離を保ち、彼らを見る。二人はまさにお似合いのカップルで、癖のない髪の毛をさらさらと風になびかせる女は、目元を和らげて、傷なんか一つもついていない綺麗な掌でカクの頬を撫でる。
「カク」
「ん、なんじゃ……甘えたか?」
「ふふ、分かっちゃった?」
幸せのひと時とは、恐らくああいうものを言うのだと思う。目尻を下げて照れくさそうにはにかむ二人。繋いだ手は指を絡めて、彼らの周りだけが祝福するように暖かく穏やかな空気が流れている。それがなんだか妙に眩しくて、試しに自分の手を見たけれど、そこには連日の戦闘任務で傷が多く残った自分の手があるだけであった。
「私と、全然違う……」
やはり人間ではないからだろうか。自分で言うのもなんだが、瞳孔の形と角以外は、形状や肌質まで人間と変わらぬものに見えるのに。
彼がいま演じている事は理解している。それなのにどうして劣等感じみた感情を抱くのだろう。
思考が深まるほど心臓は痛み、吸い込んだ酸素が肺に辿り着く前に消えるような、そんな息苦しさと口の中に広がる苦み。言葉通り、まるで苦虫を潰したようだと遠くで行われる二人を見ると、彼らは暗がりで、身を寄せ合って口付けていた。それも一度や二度では済まず、それこそ馬鹿ップルと銘打ちたくなるほどに回数は続き、彼女はそれ以上を強請るように背の高いカクの首裏に腕を伸ばす。
「カク……お父様に結婚のこと、言ってくれる?」
「……ん…、勿論じゃ……」
「嬉しい……」
「フフ……明日が楽しみじゃのう、今日は家に行ってもいいんじゃろう?」
「えぇ、勿論よ」
その瞬間、酷い不快感が体中を駆け巡る。咄嗟にその不快感から逃れるように視線を逸らそうとしたが、遠くにいる彼はいまこの時も此方を見ているのだろう。可愛らしいお嬢さんが初々しく目をつぶって、再度口付けを受けていることを良い事に、彼は此方に向けて二本指を立て、それから手首を捻り自分の目元に向けて、きちんと此方を見ろ。そうハンドサインで示す。
その視線は彼女へと向けられる、穏やかで、優しいものではない。仕事人としての瞳は冷たく、それが余計に虚しさを煽るようで、彼からは見えない位置で握った拳は震え続けていた。
「アネッタ」
それから暫くしての事。街中にある宿屋を訪ねた男が、愛想の良い笑みを携えて、ベッドへと腰を下ろす。彼は背を向けて眠る彼女が狸寝入りであることも、それから機嫌が悪いことも全て理解しているのだろう。返答が返って来ずとも席を外すような事はなく、「機嫌が悪いのう」と呟いた。
「………さっきの彼女はもういいの」
「彼女?」
「だから、さっきの……」
「ワシャ死体なんぞと付き合う気はないのォ」
成程。どうりで人目も気にせずに足を運んだわけだ。
そんなことより。そう話しを挿げ替えるよう切り出したカクは「機嫌を直せ」と彼女の手を掬いとる。彼は一体どこまで把握しているのだろう。どこまでが想定通りなのだろう。分からない。カクが視線を落としたアネッタの手の平には、一体どれだけの力を込めたのか、爪が食い込いこんで痛々しい傷が残っていた。
傷はろくに手当てもされていないせいで血が滲んだままで、爪先も赤く痕が残っている。
「……ほれ、手当をしよう」
彼はそれを見て悲しむわけでもなく、ただ薄く瞳を細めていた。すりすりと傷を撫でる親指は優しく、暖かい。けれど、傷口を直接撫でるせいで微弱な電気が走るような、そんな僅かな痛みにようやくアネッタは彼を見上げたけれど、アネッタの瞳は疑問が滲み、ついて出る。
「……どうして笑ってるの?」
「うん?いやぁ、なんでじゃろうな」
「?」
曖昧な答えに、僅かな微笑み。それがどうしてかは分からないけれど、彼はただ穏やかに笑い、掬い上げた手のひらを持ち上げて傷口へと唇を押しあてると「手当はさせてくれるんじゃろ?」と目元を和らげながら囁いた。