人間であった彼女を娶り、暫くが経った。元より居場所のなかった彼女にとって、自分を愛する烏天狗のいる国は居心地良く幸福であったが、彼女は未だ十七の子供。現代と比べても、遥かに質素で素朴な江戸時代文化は物足りなかったのかもしれない。まさか何が欲しいと尋ねて、「麺が食べたい」と言うとは思わなかった。
そうして麺を求めて向かったのは妖街三番地にある蕎麦屋・白吉。……正直なところ、此処へは連れてきたくはなかったが、麺食に関しては此処が随一と言っても過言ではない。背に腹は代えられないと暖簾を潜ると、恰幅の良い店主が早々に声を掛けてきた。
「いらっしゃい!…ってなんだ、烏天狗の坊主じゃねえか。久しいな」
「おお、ちと忙しくてのう。……二席空いとるか」
「うん?あぁ、端の席でいいなら……って、おほっ、なんだよ可愛い嬢ちゃん連れてんな」
恰幅の良い男は気さくに話しかけた後、隣の少女を見て笑う。それから馴れ馴れしく肩に腕を回した彼は「なぁ、あの子が結婚相手か?噂になってたぜ~烏天狗が結婚したって」と耳を打つが、烏天狗からすれば鬱陶しくて仕方が無い。彼は背にある羽を広げる事で拒み、少々血色の良くなった顔で彼女を席へと案内したものの……彼女の視線は男へと向いたままであった。男もそれに気付いたようで、不思議そうに尋ねた。
「なんだい、お嬢ちゃん」
「……あのう、お兄さんも妖なんですか?」
「うん?」
「だって、その、見た目は普通のお兄さんだから」
その言葉に「普通か?」と訝し気なカク。……確かに普通かと言われたらあのリーゼントヘアーは目立つし、左目の横に残る痛々しい傷跡も一般市民からかけ離れたものではあるが、それでも鬼のように角は生えていないし、ろくろっ首のように首が伸びているわけでもない。それどころか、常時翼を出している烏天狗よりよほど人間らしいではないか。
抱いた疑問を率直に尋ねると、男はからからと軽い調子で笑い、その本性を示すよう尻尾と耳を伸ばして腕を開いて見せた。
「ははは、それじゃあこれでどうだ?」
ピンと縦に立ちあがった大きな耳と長毛の尻尾。尾の先は白く、揺らめく尻尾が前に伸びて頬を撫でるがその心地よさと言ったら。思わず頬が綻んでしまって「もしかして狐ですか?」といった言葉は想像以上に大きく出てしまったのかもしれない。男は驚いたような顔をしたあと、すぐに息を吐き出すようにして笑いながら名乗った。
「お、理解が早くて助かるねェ。そう、おれは妖狐のサッチってんだ」
「妖狐のサッチさん……、あ、あの、触ってもいいですか…?」
「うん?あぁ、どうぞ」
身長差を考えて屈むサッチ。その様子にアネッタもおそるおそる手を伸ばして触れてみたが……やっぱりモフモフでサラサラだ。もちろん、カクの羽もモフモフ感があって大好きだが、それでも翼は堅い骨があってぎゅっと抱きしめた時の感触が全然違う。その時、そういえば近所で飼われていたチャウチャウのまるちゃんの耳なんかもこうやって柔らかくて、身体もふかふかだったなと思い出して、つい抱きしめた尻尾へと顔を埋めてしまった。
「……ふわふわだぁ……」
温かくて、ふわふわで、それからほんの少しだけ香る出汁の匂い。……なんだか安心する匂いだ。アネッタは顔を埋めてスンスンと匂いを嗅いでいると、サッチは「いやぁ、モテちゃって悪いね」とまんざらでもなさそうな顔で言い、カクは存外機嫌の悪い顔で「浮気者」と零した。
「へ、ぇ?!う、浮気じゃないよー……」
「フン、どうだかのう」
素っ気なくされると、アネッタはどうすればよいかわからなくなってしまう。彼女はそんな思いから向かいに座る彼の袖を引いて「ごめんね」と零したが、それはそれでタチが悪い。そんなにしょんぼりとされてはコンコンと説教をするわけにもいかないじゃないか。カクは言葉を詰まらせた後、小さく息を吐いて壁にある木札たち指した。
「……ほれ、それよりも何を食べるんじゃ。食べたかったんじゃろう」
「え、あ、うん……ええと、どれにしよう」
きつね蕎麦にあられ、月見、卵とじ、しつぽく、花まき。木札には品目が書かれており、アネッタもそれをもとに考えるものの、しつぽくも、花まきも聞いたことがない単語だ。それに、その隣にある赤字で書かれた関西と関東の札も気になる。……はて、あれはいったい何だろう。率直に「あれって」と尋ねると、サッチはピコピコと耳を揺らして少しばかり得意げな顔で言った。
「……あぁ、そうそう。うちの店は全国各地から妖が集うってんで、関西と関東でそばつゆを用意してんのよ」
「……?」
「あれ、全然ピンときてない感じ?」
説明を受けてもいまいち腑に落ちていないような、理解の足らぬ顔。これにはサッチは不思議そうな顔で、カクも同じように不思議そうな顔をしていたが……「関西と関東で違うものなの?」と言う問いかけで合点が言った。そうだ、彼女はいまだ子供。日本全国津々浦々の味なんて知らないのだ。
「……おお、そこからか。そうじゃな、土地によって方言や特産品があるように、土地によって味の土台も変わってくるんじゃ。のうサッチ」
「ああ。此処で言うと関西は関東よりも甘めでな、関西のそばつゆはそのまま飲めるが関東のそばつゆは辛くて飲めないとはよく言われたもんだ」
「へぇー……」
「気になるなら嬢ちゃんと坊主でそれぞれ関西と関東つゆにして分け合ったらどうだ?器なら出してやるぜ」
「お、気が利くのう。ワシャ別に構わんが、アネッタはどうしたい」
「したい!あ、じゃ、じゃあ私はええときつねの関西風で」
「わしは月見の関東」
「はいはい、じゃあきつねが関西、月見が関東風な。ちょっと待ってな。すーぐにこのお兄さんが持ってきてやっから」
「ワハハ、ジジイの間違いじゃろうて」
「あんだとクソガキ!」
そうして、ちょっとした小競り合いがありながらも数分と立たずに出された蕎麦は、彼らの言うようにそばつゆの色合いも味も異なった。関西が透き通った黄金色のそばつゆで甘めで、関東風が甘さ控えめで濃い色合い。味も醤油の味が強く、関西風の甘めの味付けは口に合うだろうかと思ったが、甘めに味付けられたお揚げによく合っている。……なんだか面白い。それに、いま思えばこうやってお店のそばを食べるだなんて初めての経験だ。総じて味にも見た目にも感動してしまい、しきりに美味しい美味しいと言いながら麺を啜ると、サッチは嬉しそうに眺め続けていた。
「……やらんぞ、サッチ」
「ははは、そりゃ残念」
カクはその返答に思う。
まったく、一体どこまで本気なのやら。こういう気さくに見えて、真意を見せない読みづらさと、女に弱いところが苦手だ。しかし、その一方で彼は女子供に優しい。ゆえにアネッタが慣れないお金を手にして「ひい、ふう、み、よ、いつ、む、なな、や」と数えても「お、いま何時だい」と言って邪魔をするだけで、一文多くちょろまかしても「一文多いぜ」と返し、決して急かすようなことはなかった。……まぁ、だからこそアネッタが懐きそうな彼を紹介したくはなかったのだが、生きる上で味方は多い方が良い。
カクは床に垂れる尻尾を下駄で踏んづけながら、ずるずると蕎麦を啜った。