季節は巡りおよそ半年が経った頃、私は前触れも無く目を覚ました。
いまは深夜帯なのだろうか。部屋に灯りは無く、ベッドの傍にある窓から外を覗くと、霧のように立ち込めた灰色の雲からしんしんと音もなく雪が降り注ぎ、触れた窓は途端に手形を残すよう手の周りが白く曇る。
私はどうして此処にいるのだろう。
記憶が曖昧で、思考を巡らせると悲鳴を上げるように頭がつきりと痛む。早々に記憶の掘り起こしを止めて、一度部屋をぐるりと見渡してみたが、見渡した部屋は明らかに病室だと分かるだけで、部屋の端に積まれた複数の木箱も、壁にびっしりと張られた紙や花の栞もまるで心当たりがない。一言で言うのならば、まるで物置のような部屋だと、そう思った。
手がかりを探すため壁に貼られた紙を見る。しかし、灯りのない部屋では読み取ることも出来ず、結局この場所が何なのか分からない私は、ちょっとした恐怖感を覚えて助けを求めるよう「か、く。」と呟いてみたが、唇が渇くほど喉が渇いているせいか言葉は掠れていて、冷たく、死んだように静まった部屋に響いたそれは心寂しさを増長させるだけだった。
ひゅうと、寂しさに喉が鳴る。
「かえ、らないと」
此処が何処かは分からないけれど、外が暗いあたり不夜城と言われるエニエスロビーではない事は確かだ。足を床に下ろして立ち上がると、ひんやりと突き刺すような冷たさが足に広がる。それを堪えて立ちあがると、筋力が落ちているのか足にうまく力が入らずに、まるで生まれた手の仔羊のようにがくがくと震えて手放しで歩くことも叶わない。
ああ、なんて情けないのだろう。CP0とあろうものが。
情けないことに壁伝いに歩いて扉へと進んだ私は、ゆっくりと、音を立てぬように静かに開く。そうしてこの部屋を抜け出そうとした瞬間、かくんと膝の力が抜けて体制を崩した私は思わず、あ、倒れる。と瞼を瞑る。
しかし不思議なことに待てども痛みは広がらず、おそるおそる目を開くと、目の前はまだ床に倒れる寸前で、どういうことだと疑問符を浮かべると頭の上から「……アネ、…ッタ?」と言葉が降って、私は振り返る。
だってこの声は。
「カク?」
彼は私の腹に腕を回して、倒れぬようにしてくれていたらしい。私が彼の名前を呼ぶと、一層彼の腕に力が籠って、一気に引き起こされると共に、私の体は彼の大きな体にすっぽりと埋もれてしまった。
「……ッ、アネッタ……、ああ……良か、った……!」
彼は外からやってきたのだろう。白い服の表面はひんやりと冷たかったが、それでも何故だか彼と離れるのが惜しくて恐る恐る腕を回すと、彼の肩が僅かに、ほんの僅かに震えているのが分かった。
「どうしたの。」
私は静かに問いかける。けれど彼は顔を上げなかった。
「……世紀の大寝坊が目覚めたんじゃ、喜んどるに決まっとろうが」
言葉を震わせながら抱きしめる手に力を込める。
そうして堪能するように、いまこの時を噛みしめるように、実感を得るように。抱きしめ続けた彼が体を離すと、私の膝裏に腕を回してお姫様抱っこへと体制を整えた。
「…全く、どこに行こうとしたんじゃ」
「帰ろうと、思って…」
彼の赤くなった目元を見て、少しばかり呆然としながら零す。
どうして彼はこんな表情をするのだろう。
そんな私を見た彼は、ふっと息を漏らすように笑うと「話は部屋でしようかのう」と、そう言って一度は出た部屋へと戻ってベッドに私を下ろすと、カクは部屋の隅に積まれた箱をひっくり返して「ああ、くそ、ろくなものしかないのう」と、少しばかり苛立ちと呆れを滲ませながらと何かを探り、やがて出てきたキリン柄の布を広げると、私の膝の上に置いた。
「……キリン柄、の、ブランケット?」
「どうじゃ。可愛いじゃろう。」
カクは少しばかり得意げに笑う。
確かにブランケットは可愛かった。黄色を基調として台形や三角形などの茶色の図形がごろごろとちりばめられたブランケットはじんわりと暖かく、起毛した生地の手触りを確かめるようにブランケットを撫でるとカクはどこか満足げに目を細めていた。ただ、すぐにまた思い出したように「…あとはえーと、上着も必要か」といって探し始めるので、思わず彼の裾を掴んでしまった。
「まってまって、なんでそんなにでてくるの…?」
「うん?あぁ、アネッタが起きたら驚かせてやろうと買ったんじゃ。…まぁ、大寝坊するからとんでもない量になってしまったがのう」
「……え、これ全部?」
どうやら私が物置のようだと言っていたものは、全て彼が私のために用意してくれたものらしい。贈り物の量と彼の発言をまとめて想像するに、私は随分と長いこと眠っていたようで、そこで漸く彼の行動に合点がいった。彼も私の表情を見て何か悟ったのだと分かったのだろう。羽織っていた上着を脱いで私の肩にかけると「…さて、じゃあわしは飲み物でも調達してくるから少し待っておれ。…あ、逃げるのは無しじゃぞ。」と少しばかり茶目っ気を含ませながら言って、此方の返答も待たずに出ていってしまった。
段々と夜に慣れて視界を広げる世界を見渡して、私はもう一度壁に貼られた紙を見る。試しに一枚剥がしてから見てみると、其処には随分と見慣れた文字で「元気になったらアイスでも食いに行こう」と綴られていて、もう随分と長いこと姿を見ていない憧れの人を思い出した。
「クザンさんも、来てたんだなぁ……。」
そのほかの紙もどうやらお見舞いに来た知り合いたちからのもので、当然痕跡を残すわけにはいかないサイファーポールたちのメッセージなんてものはなかったけれど、サイドテーブルに置かれた趣味の良いアロマキャンドルや、牛やフクロウ、狼、キリン、豹、羊、ライオン、パンダたちの小物に笑ってしまった。「こんなの、痕跡になっちゃうじゃない」と。
やがてカクが戻ってくると、一体どこから調達したのか暖かいホットミルクの入ったマグカップを差し出した。受け取って両手で包み込むように持つとじんわりと暖かく、鼻を擽るミルクの柔らかい匂いにほっと心が緩むような感覚を覚えて、あぁ、私はまだ緊張していたのかと、そう一人でに思った。
「さて、どこから話したものか……。」
カクは自分用にと持ってきたホットミルクを啜ると、ゆっくりと、ゆっくりと、今までの事を丁寧に説明をしてくれた。
あの日、痛みに苦しんで竜化した私はパンゲア城を破壊するだけではなく、天竜人に牙をむいたこと。大罪人となって殺されるところを間一髪で止めてくれたこと。それから、私が半年間も眠り続けていたことを。
どれも記憶には無いけれど、どこか神妙な面持ちで話す彼が嘘をついているようには到底思えずに、私はゆっくりとホットミルクを啜ると、「そっか」と一言だけ言葉を返す。
「…幸か不幸か、あの事件が大々的に新聞に載ってしまってのう…全世界にお前の存在が知れ渡ってしまった。じゃから、……そうじゃのう、今まで通りにとはいかんかもしれん。」
「そっか……」
「……すまん」
「え?カクが謝ることじゃないでしょ。それに大罪人とならないだけ全然有難いよ。起きて早々死刑だーって言われるのは辛いもん」
「わはは、確かにのう。…この件については随分と審議されておったが、ミョスガルド聖がお前の処遇について掛け合ってくれたんじゃ。……いくら世界政府とはいえ、天竜人の意見は無視できんからのぅ」
「ミョスガルド聖が?」
「あぁ。全く、随分と良い人に好かれたものじゃな。……こうやって、人に好かれるのはお前の天性の才能なのかもしれん」
「……」
「……アネッタ?」
「……不思議な話だよね。世界政府の人間として、裏で人を殺したり利用していいように扱ってきたのに、こうして人に救われてるんだもの」
「…そうじゃのう。」
少しばかりの沈黙が訪れる。手のひらで包むように持ったホットミルクはまだ暖かくて、私はマグカップ包む手に少し力を込めると、「ねぇ、カク」と呟く。
沈黙を破った私の声は、少しばかり上擦っていたかもしれない。
「うん?」
「あのね、あの時は、…プロポーズの時はごめ――」
「ごめんは無しじゃぞ」
先回りされた言葉に、私は目を瞬かせると、カクが少しばかり眉尻を下げてからくしゃりと笑う。それから少しの間を置いて「謝るのはわしの方じゃ。あの日…、……プロポ―ズの一件以来、大人気ない行動ばかりしておった。」と言葉を落とす。
「でも、それは…」
「……正直なところ、アネッタがそこまで考えていると、思わなかったんじゃ。……きっとどこかで喜んでくれるじゃろうと、……慢心しておったんじゃな」
「そんなこと…」
「まぁ、わしの気持ちが冗談じゃと一言で片づけたのは流石に悲しかったがのう。…でも、そう言いたくなるほど、お前には踏み込まれたくない領域じゃったんだろうな。…すまん、アネッタ」
「……カク、私も、……私も…っ」
謝らなければいけないのは私の方だ。
話し合いという機会を立てずに、自分だけで終わらせようと場を放棄してしまった。どうにもならないとはわかっていても、それでも、彼との関係性を考えれば、もっと話をしなければいけなかったのに。
しかし、彼はそれ以上の言葉を止めるように、私の唇に指先を宛がった。
「アネッタ、…もう少しだけ、わしに話させて欲しい」
いいか、と彼の眼差しが私に問いかける。
私は無言で頷くと、彼は眼元を細めるようにして笑んでから手を離して、かわりに少しばかり屈んでベッドの下に置かれた蓋の空いた木箱から厚みのある封筒を取り出せば、私の太ももの上にそれを置いた。
「よいせ、っと、…まずはこれなんじゃが」
「……ええと、これは?」
「まぁ中身を見ればわかるわい」
膝の上に置かれたそれはずしりと重い。一度サイドテーブルにホットミルクの入ったマグカップを置くと、両手でそれを持ち上げて中を見ると、中には厚さが三センチほどに重ねられた書類が入っていた。試しにそれを全て封筒から取り出してからぺらぺらと捲っていくと、其処には請願書と書かれた文字が並んでいて、その枚数は数百枚に渡っている。
「えーと、これは…?請願書って書いてあるけど」
「まぁ平たく言えばアネッタとの結婚を認めろという主張じゃな」
カクはずずずとホットミルクを啜ってどこか呑気に呟くので、私は夜中だというのにも関わらずに「?!な、え、これを提出したの?!」と声を上げてしまった。確かに書類に目を通すと、請願書には私の名前も記載され、結婚を認めてほしいという内容が小難しい言葉で記載されている。
「あぁ出したぞ、一枚残らず全てな。まぁ、そこにあるもの全て返されてしまったがのう」
「なんて無茶を…!」
政府の正義に個人の感情なんて関係無いのに、其処に個人の感情を詰めたものを送り込むだなんて、命知らずにも程がある。CP0所属だったから切り捨てられずに済んだものの、これが代わりのいるクラスであれば、その場でクビをはねられていてもおかしくはない行為だ。だというのにカクはカラカラと軽い調子で「わはは、自分でも無茶をしたと思っておるわい!」なんて笑うから、私は言葉を失ってしまった。
「……じゃが、これを見たらわしがどれだけ本気なのかも分かるじゃろ。…まぁでも、言ってみるもんじゃな。初めは話にならんと見向きもされずに返されておったが、今回の件で最終的にお前を止めたのはわしだということが認められ、ようやく首を縦に振らせたわい」
彼の言葉から察するに、単純に認められたというわけではないようだ。大方、私の暴走を止める際の重要人物、という利用価値が首を縦に振らせたのだろう。しかし、それでもあの世界政府を縦に振らせて、絶対に出来ないと思っていた常識を打ち破ってしまったのだ。彼の大勝利ではないか。
彼の話を聞きながら呆然としていると、カクは少しばかり機嫌よく目元を緩めると、「……結婚は出来ないこと、じゃなくなったというわけじゃな。」と穏やかに言葉を紡ぐ。
「あ……」
「…のう、アネッタ。わしは確かに今の関係性でも幸せじゃ。お前が隣にいるのなら肩書なんてなんでも良いと思っておった。……しかしのう、今の関係性でいることでお前が他の男に取られてしまうのなら話は別じゃ。……わしは、アネッタが他の男のそばにおるのも、触れられるのも我慢ならん。………じゃから、わしは確実な関係性が欲しいし全てをわしのものにしたい。……自分勝手な話じゃということも分かっておる。でも、……わしと結婚してほしいんじゃ」
「………」
「…これでもまだ、怖いか?」
請願書を出して結婚する事を決定事項にしてしまったというのに、カクの瞳に独善的な色は無く、どこか不安が入り交じっていた。あくまで私の気持ちに寄り添って、答えを委ねてくれているのだと思う。
その時、何故か分からないけれど、わたしは彼と出会った日のことを思い出した。
小柄な私と同じぐらい小さくて、くりくりとした目の少年は、突然グアンハオに連れてこられて怯える私に人懐っこい笑みを向けながら「わしの名前はカクじゃ!お前もわしとおなじ五才なんじゃろ?なかよくしよう!」と優しく手を差しのべてくれたっけ。
「……、……ねぇ、カク。私が初めてグアンハオにやってきた日のこと、覚えてる?」
「ん……あぁ、覚えとるぞ。…先生の影に隠れて怯えておったのう」
「そうそう。…冷たい研究所で暮らしていたある日、突然グアンハオに連れてこられてさ、……怖くて、心細くて泣いてる私の手を取ってくれたのは、カクだったんだよね」
「懐かしいのう…もうあれも二十年近く前か」
「………、……あの時、私の手を引いてくれてありがとう。……この世界を見せてくれたのは、他でもないカクで、…ずっと一緒にいたいって、できもしない結婚なんて考えたくないって思うぐらい好きだって思わせてくれたのも、こうやって大好きって教えてくれたのもカクなんだよ」
あの日グアンハオで出会って以来、私はずっと彼の手に引かれて生きてきた。一挙手一投足を見る彼の眼差しは、今となれば何か依存や洗脳じみたものだったと思うが、それでもあの時の私からすれば間違いなく彼の存在は救いで、光だった。そして、それは二十年近く経っても想いや気持ちは変わらない。だから、答えなんて当たり前に決まっていて、私は彼の不安が入り交じる瞳を見つめて穏やかに言葉を紡ごうか。
窓の外でしんしんと静かに雪が降る中、ホットミルクがマグカップの中でとぷんと揺れる。
そうしてあの頃よりも縦長に伸びた影が一つに重なって、世界の片隅はひっそりと幸色に染まった。
終